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国際人権ひろば No.74(2007年07月発行号)
人権さまざま
「人権」過多
白石 理 (しらいし おさむ) ヒューライツ大阪所長
「どんなに栄養があっても、毎日バターばかり食べていればメタボリック症候群になる。人権は大切だが、尊重しすぎたら、日本社会は人権メタボリック症候群になる」
今年二月末に文部科学大臣が語ったと報道されたことばである。人権はほどほどにしないと日本社会はうまく機能しなくなるということなのであろうか。
確かに、今の日本では、日常生活で「人権」ということばに出くわすことがしばしばである。行政や団体が出す文書、出版物、催しなどには「人権」に関わる題やキャッチフレーズが目白押しである。その中から拾ってみた。
「市民一人ひとりの人権が尊重される明るいまちづくり」、「『人権をかんがえる みつめる・つながる・ひろげる』、自分を大切にし、相手を尊重することの大切さを実感する研修」、「人権と向きあう?ちがいを認めあうために?」、「ステレオタイプ・偏見・差別そして人権」、「女性の人権ホットライン」、「住まいの差別をなくし、すべての人の人権が尊重されるまちを、私たちみんなの力で築きましょう」、「ホームレスの自立支援と人権の擁護」。
ある人権研修で配られたパンフレットでは、「人権」を次のように説明していた。「私たちの家庭や職場、地域での日常生活を明るく、楽しく過ごすことができるように、『相手の立場に立って自分の言動を考えること』、言いかえると『自分のして欲しくないことを相手にもしないこと』、『自分のして欲しいことを相手にもしてあげること』」。
これは論語の中で孔子が弟子に「仁」について問われたときに答えたことばを思い出させる。「己れの欲せざる所は人に施すこと勿かれ」。(顔淵第十二の二)また、聖書にはイエスのことばとして、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカによる福音書 / 6章 29?31節)ともある。孔子のことばは約2500年前、イエスのことばは約2000年前にさかのぼる。共に、人を大切にするという、現代社会でも当然の人倫を説いたものと思われる。しかし、孔子やイエスの教えがずっと後に生まれる「人権」概念のきっかけにはなるにしても、今の社会で認められた人権の説明として当を得ているとはいえない。
「人権」ということばが溢れる日本社会で、実は人権が、余り理解され、受け入れられてはいないのではないか。「人権」というものが、社会生活や人間関係を律する倫理徳目に変身しているのではないか。文部科学大臣の講演の中で語ったと報道された「人権メタボリック症候群」ということばばかりでなく、「人権」は、わがまま、理不尽な要求を通すための言い訳に過ぎないと言う人もいるようである。「権利の主張ではなく、責任、義務を先に考えてほしい」などということもある。「人権の要求は思いやりと和に基づく人間関係を崩してしまう」ともいう。人権は、じゃまものではない。本当は誰にとっても大切なものであるのに、どこで誤解されてしまったのか。
近代ヨーロッパから第二次世界大戦後の世界人権宣言に至るまでの「人権」の歴史にここで触れるつもりはないが、人権についての理解を確かめたい。
まず、人は、一人一人が、人であるがゆえに「かけがえのない」、「尊い」、「大切な」なものという前提である。これは「人の尊厳」といわれる。そして人権とは、人が生まれながらにして持つ、他人に譲り渡せない権利であり、社会で自分本来の生き方を可能にするためになくてはならないものである。人はどこでも誰でも、平等に、無条件にこの人権を保障されるはずである。貧富、貴賎の区別なく、社会に貢献する、しないに関わらない。人種、性別、国籍、出自、政治的立場などの理由による差別は許されない。人権の普遍性、平等性である。また、人権は、法(憲法、法律など)によって護られる具体的な権利であり、国は人権を護り、人権のための立法、制度環境を整備する義務を負う。国の責任は重い。さらに、人権は法的権利であって、福祉政策などによって付与されたものではない。
人権をもつ人の側でも、人権の行使は当然ながら責任を伴う。自分の権利及び自由を主張するに当たっては、他人の権利及び自由を尊び護ることはもちろん、民主主義社会における道徳、公の秩序及び公共の福祉のために法律で課される必要最低限の制限があることを忘れてはならない。
日本での統計に表れた人権問題事件の大半が、私人間の争い、なかでも迷惑行為、いじめ、嫌がらせ、差別行為などであるという。訴えを受けて、人権行政機関は仲裁と和解の労をとっているという。 行政は、そこからさらに一歩進んで、人権保護の責任当事者としての役割を果たす任務を負ってほしい。当事者としての行政が大切である。人権は、まず国やその他の行政機関が人権を護る責務をもつことを前提としている。たとえ私人間の問題であっても、国、行政はその人権保障の責任を免れないのである。
世界人権宣言を読んでほしい。人権がすべての人に関わることが分かってもらえるであろう。人権は、社会的に不利益を受けている特定の集団や個人だけのものではない。人権を主張せざるを得ない人と人権を忘れても問題なく生活できる人の違いはあるかもしれないが、この世に一人として人権がなくてもよい人はいない。
どんな社会でも、人権を根付かせるためには、ひとびとの人権意識の向上と努力が不可欠である。日本国憲法第12条はいう。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」