人権の潮流
韓国・晋州(チンジュ)市にある国立慶尚大学社会学部の金仲燮教授が、韓国人文社会科学会が発行している学術誌『現象と認識』第39巻4号(通巻127号、2015年12月)に、「人権条例と地域社会の人権の発展」と題した論文を寄稿された。2015年11月20~23日、同大学において、朝鮮における被差別民・白丁の解放運動である「衡平社」をテーマにした国際学術会議が開催されたが、筆者もこれに参加した1。その際、金教授からこの論文の抜き刷りを頂いたが、韓国における人権条例制定の動向を知ることができるだけでなく、日本における人権条例の制定と実施にも役立つと思われるので、ヒューライツ大阪のほうで翻訳をお願いし、ウェブサイトに掲載して頂くこととなった2。
論文の紹介に入る前に、金教授の簡単な紹介をしておきたい。金教授は、1954年7月、韓国の忠清南道・泰安郡で誕生。延世大学英文学科を終えた後、同大学社会学修士学位取得。英国ホール大学で論文Social Equity and Collective Action:The Social History of the Korean Paekjong under Japanese Colonial Rule(「社会的公平と集団運動:日本植民地下の韓国・白丁の社会史」)で社会学博士学位を得ておられる。英国エセックス大学社会学部で客員教授を務め、現在、慶尚大学社会学部教授として勤務。同大学人権・社会発展研究所所長なども歴任。日本の京都大学での留学経験もある。研究の中心的なテーマは、韓国の衡平運動、衡平社と日本の水平社の運動との比較。近年は、人権教育や人権条例についても研究対象を広げておられる。金教授は、こうした研究とともに、衡平運動記念事業会や晋州人権会議などの組織化にも関わっておられる実践家でもある。筆者は、1993年2月以来の親交があり、尊敬している方である3。
論文は、「1、問題提起」「2、人権条例の制定と運用の状況」「3、人権条例の運用の特徴」「4、地域社会の人権発展の方策の模索」「5、おわりに」から構成されている。
この内、「2、人権条例の制定と運用の状況」は、最も多くのページが割かれ、「1)広域自治体の人権条例の制定と運用の状況」「2)基礎自治体の人権条例の制定と運用の状況」が、一覧表とともに紹介されている。
また、「2)基礎自治体の人権条例の制定と運用の状況」については、「ソウル特別市の基礎自治体における人権条例の現況」「釜山市広域市の基礎自治体における人権条例の現況」「広域市(大邱、光州、蔚山、大田)の基礎自治体における人権条例の現況」「京畿道の基礎自治体における人権条例の現況」「道(京畿道を除く)の基礎自治体における人権条例の現況」が、一覧表とともに紹介されている。
まず、韓国における人権条例の制定状況は、次のように紹介されている。
「2015年10月現在、韓国の人権条例の現状は、広域自治体の大部分で制定されている一方、基礎自治体は大きくは進んでいない。国家人権委員会の調査と自治法規定情報システムを検索すると、246の広域及び基礎自治体の内、79カ所で人権条例が制定されている(32.5%)。広域自治体と基礎自治体に分けると、広域自治体17の内、仁川広域市を除くすべての自治体で制定されているが、基礎自治体は226の内、63のみである(27.9%)。基礎自治体の現状をさらに見ると、ソウル特別市と広域市内の74区の内、36区で制定され(48.6%)、「道」内の75市の内、19市(25.3%)で、77郡の内、8郡(10.4%)で制定された。要するに、都市部である広域市内の基礎自治体では、半分程度制定しているが、「道」の都市部である「市」では4分の1、農村部である「郡」は10%程度であった。」4
人権条例の制定は、人権を人びとが日常生活する場で実現していくための第一歩であるが、条例が実施されることがより重要である。金教授は論文において、人権条例の実施状況を詳細に分析しておられるが、その際、評価基準(チエックポイント)として、①人権委員会の設置と運営状況5、②人権基本計画の策定状況、③人権教育の推進状況、④人権促進のための創意工夫をした方策、⑤人権業務を専担する機関や部署の設置状況(業務、人数など)、⑥予算を挙げておられる。
金教授は、人権条例の制定を受けて先進的な取り組みを行っている自治体として、ソウル特別市、光州広域市、ソウル市の城北区など幾つかの区、京畿道水原市などの取り組みを紹介しておられる。
この内、光州広域市の取り組みは本誌でも紹介したことがあるので、ここでは、ソウル市城北区の取り組みについて紹介しておられる箇所を引用しておく6。
「城北(ソンブク)区は、2010年から『人権都市、城北』を掲げて推進委員会を構成し、様々な事業を企画・実施し、人権に根ざした地域共同体を作ろうとしてきた。自治体の執行部内に人権部署を設置し、人権関連の事業を専門的に行い、2012年にはソウル市の基礎自治体の中で最初に人権条例を制定し、人権政策と事業の法的根拠を作り、事業の継続性を強化した。特に、全国初めて人権影響評価を実施し、人権の側面から行政事項を評価し、人権を基盤にした行政を促進しようとした。(中略)また若者の労働実態を調査し、人権白書を発刊して、人権促進の政策や事業の資料として活用しようとし、区庁の職員、教員、福祉施設従事者、一般住民など、対象によって多様な人権教育を継続実施した。」
韓国における人権条例の制定状況を分析した結果、金教授は、問題点として、①未制定の自治体が少なくない。とりわけ農村部の基礎自治体で未制定が多い、②条例が実施されていない自治体が多い、③人権委員会が機能していない、④人権基本計画の策定しているところが少ない、⑤効果的な人権教育が推進されていない、⑤人権業務を専担する機関や部署が設置されていないか兼務にとどまっている、⑥予算があまり確保されていない、などをあげておられる。
金教授は、論文の「おわりに」において、「地域社会の人権発展の方策」として、以下の3点を指摘しておられる。
「まず、地域の民主主義の発展が人権促進の核心であるという点を指摘した。このため地域社会の住民がそれぞれの役割を誠実に遂行するべきである。人権政策の策定と施行を担っている自治体の執行部と、執行部の事務を監視し予算を審議する地方議会の役割が重要である。特に首長の関心と意志は人権行政の実施と地域の人権の発展に影響を及ぼす核心的な要素である。また自治体の監視と人権促進の活動の評価に市民社会と住民が積極的に参加することが重要である。」
「2番目に人権条例の実施のための制度的システム作りが必要であるという点を強調した。特に人権専担機関の設置と担当職員の配置、そして人権促進のための予算編成は実施に必要な核心の条件である。」
「3番目に地域間の連帯と協力を強調した。各地域は他の地域と連帯し協力することで地域の人権促進のための情報と知識を交換しながら、人権に根ざした地域社会のための方策を共に模索するようになる。このような地域間の連帯と協力は社会全体の人権促進に寄与するはずである。」
日本においても、1980年代の中ごろから、部落差別撤廃・人権条例制定運動が展開され、2007年1月29日時点で、47都道府県中、16府県17条例(大阪府の場合、部落差別調査等規制等条例と人権尊重の社会づくり条例とがある)、1804市区町村中、395市町村395条例が制定されている7。
日本における人権条例の制定状況と韓国の状況を比較したとき、以下のような違いを指摘することができる。
人権条例制定の時期から見た場合―日本では1980年代中ごろから制定されはじめ1990年代以降拡大した。一方韓国では、2006年に晋州市で人権条例制定運動が開始され、2008年に光州広域市で本格的な人権条例が制定。その後、国家人権委員会からの働きかけもあって拡大していった。
人権条例制定自治体の立地場所から見た場合―日本の人権条例は、関東以西に限られている。一方、韓国の場合は、このような地域的な偏在は見られないが、都市部で多く農村部で少ないという特色がある。
人権条例制定の推進主体から見た場合―日本の場合は、部落解放運動とこれに連帯する勢力が推進主体であった。一方韓国の場合は、研究者、民主団体、国家人権委員会(地方事務所を含む)が推進主体であった。
韓国での人権条例の制定には、金教授が果たされた役割は大きい。金教授は、日本の水平社の研究のために幾度となく来日される中で、日本における人権条例の制定に関心を持たれ、韓国でも人権条例を制定することの必要性を、晋州市において、いち早く提起された。
この提起を受けて、最初に本格的な人権条例を制定したのが、「5・18民主化闘争」(1980年)の伝統を持つ光州広域市であった。このため、同市で人権条例の制定を目指すグループは、数度にわたって日本の人権条例制定状況を学ぶために来日された。その際、特に、三重県と堺市における取り組みに注目された。
また、光州広域市や晋州市では、人権条例の制定に向けたシンポジウムが開催され、筆者も数度にわたって日本の取り組みを報告させていただいた。
このような経過を顧みたとき、日本における人権条例制定の経験が、韓国における人権条例の制定に一定の貢献を果たしたと言えよう。
人権条例の制定・実施に関して日本の現状を直視したとき、停滞していると言わねばならない。この状況を打破するために、韓国での取り組みから学ぶことは少なく、以下の諸点が参考になろう。
最後に、金先生の論文が、人権条例に関心を持つ研究者、運動家、自治体関係者に広く読まれ活用されることをお勧めしたい。
【 脚注 】
注1:国際学術会議の報告については、友永健三「水平社・衡平社創立100周年に向けてさらなる連帯を――衡平運動をテーマに、新たな広がりを見せた国際学術大会開催される」『部落解放』723号、2016年3月号所収、参照。
注2:翻訳は、ヒューライツ大阪にお願いし、ウェブサイトに掲載されている。https://www.hurights.or.jp/japan/
注3:金仲燮教授の韓国白丁・衡平運動につて、日本語で読める著作としては金仲燮著/姜東湖監修・高正子訳『衡平運動――朝鮮の被差別民・白丁その歴史とたたかい』2003年4月、部落解放・人権研究所発行がある。
注4:韓国における地方自治の構造は「広域自治団体」とその下部に置かれる「基礎自治団体」の二層構造となっている。広域自治団体は、基礎自治団体では処理できない事務や複数の基礎自治団体にわたる広域事務を処理する大規模自治体である。2013年現在における広域自治団体はソウル特別市、世宗特別自治市と6箇所の広域市(仁川・大田・光州・大邱・釜山・蔚山)、8箇所の道(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道・江原道・慶尚北道・慶尚南道)と1箇所(済州)の特別自治道、計17箇所に設置されている。基礎自治団体は、地域住民と直接の関係を結ぶ自治団体で、市・郡・自治区がある。広域自治団体の下に置かれる基礎団体はソウル特別市が自治区、広域市は自治区と郡、道は市と郡がそれぞれ設置されている。特別市・広域市に属する区は、一般の市と同等の基礎自治体であり、公選の区庁長と区議会が設けられている。これは、日本の東京の特別区と同様である。2015年12月31日時点で基礎自治体は226(市75、郡82、区69)である。(ウィキペディア等を参考)
注5:韓国の人権条例では、条例を実施するための諮問機関の名称として人権委員会が使用されている。日本の場合、人権審議会という名称が使用されていることが多い。
注6:光州広域市の人権条例を中心とした取り組みの紹介としては、友永健三「国際人権・平和都市をめざす韓国・光州広域市の多彩なとりくみ」『国際人権ひろば』No. 119、2015年1月発行号、参照。
注7:日本における人権条例の制定状況と分析については、友永健三「今、改めて人権条例制定の意義と課題を考える」『部落解放を考える 差別の現在と解放への探求』2015年8月、解放出版社所収 参照。