特集 グローバル化のなかの「ビジネスと人権」最前線
2011年6月16日、国連人権理事会において、ジョン・ラギー国連事務総長特別代表が起草した「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、指導原則とする)を支持することが盛り込まれた決議17/4が無投票で承認された。指導原則は、国家の人権保護義務、企業の人権尊重責任、そして救済へのアクセスの3つを柱とした文書であり、国連の歴史上で初めて企業を名宛人として作られた人権文書である。このような歴史的な意義に加えて、指導原則は、国連人権理事会で国家の全会一致の承認を得、企業およびそのステークホルダーにとっての「共通認識」として策定され受容されてきた点が注目される。資源、労働力、市場を求めてグローバルに事業を展開する企業とそのサプライチェーンへはもちろん、企業に資金を提供する責任として投融資機関において、さらに2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催を含めたメガ・スポーツ・イベントの運営において「人権を尊重する責任」の実現が取り組まれてきた。
このように指導原則の普及・実施が広がるなかで、国際人権法の観点から、指導原則の承認から5年間を振り返り、「ビジネスと人権」の進展と課題を論じたい。
(1)国家の人権保護義務の具体化
国際人権法上、国家の保護義務は、第三者による人権侵害を阻止・救済する義務であり、侵害の度合いにより様々な対応が求められる。そのため、国内的実施として「何をすべきか」の判断は国家に委ね、国際的実施では実施内容が「適切であったか」の判断を行ってきた。したがって、国家の保護義務の内容は十分には具体化されてこなかった。
この点、指導原則では、より具体的な内容が示されてきた。そのひとつが、指導原則を実現するための国別行動計画(以下、NAPとする)の策定である。NAPの策定は、指導原則のなかには明記されていないが、欧州委員会の「企業の社会的責任のためのEU新戦略2011-2014」において加盟国に指導原則を実施するための国別計画の策定が求められたことを受けて、2012年の第1回国連ビジネスと人権フォーラムのセッションのなかで取り上げられた。2014年には、指導原則の実施の鍵として、国家に対してNAPの策定が働きかけられるようになった。現在(2017年1月30日現在)、2013年9月に発表(2016年に改訂版を発表)した英国にはじまり13カ国がNAPを策定した。2016年11月にNAPの策定を宣言した日本を含め、20カ国が策定中である。
また、指導原則は、国家の域外的保護義務の議論も前進させた。域外的保護義務とは、国外で活動する自国企業が人権を侵害しないよう、立法、行政、司法上の措置を通じて対処する国家の義務である。国際人権法では領域主権に基づく人権保障が基礎となっており、域外的保護義務については不明確な部分が多かった。指導原則の原則2では、自国に本拠地がある企業の国外での事業活動も国家の義務の対象に含まれている。2011年以降、人権条約の実施機関は、指導原則に依拠しながら、締約国の域外的保護義務の違反を認定するようになってきた。このような条約実行を受けて、子どもの権利委員会は2013年に一般的意見16「企業セクターが子どもの権利に及ぼす影響に関わる国の義務」において国家の域外的保護義務を述べている。また、社会権規約委員会でも国家の域外的保護義務を盛り込んだ一般的意見草案が2017年に検討される予定である。
(2)企業の人権尊重責任の明確化
国際人権法では、国家に法的義務を課し、国家の実施を通じて人権の保障をはかってきたため、企業のような私的権力の存在は必ずしも明らかにされてこなかった。一方、企業の人権侵害に対する国際的な関心は高く、新たな規範の形成が試みられたものの、企業およびステークホルダー間での意見対立のために挫折を繰り返していた。
この点、指導原則では、これまでの挫折を教訓に、企業に対し、法的な義務ではないが、人権を尊重する責任を明らかにした。その際の対象となる人権は、世界人権宣言や人権条約など国際人権法にリスト化された人権であり、さらに、労働における権利だけでなく、国際人権法にリスト化された人権の全範囲に渡ることである。また、企業の責任はビジネス関係、すなわちサプライチェーンに及ぶことも明文化された。なお、この責任は国家の義務とは独立した関係にあり、ゆえに企業は、どこで事業・サプライチェーンを展開する場合でも、国内法による規制の程度に関わらず、広範囲の国際的人権基準を遵守するよう期待されている。
また、責任としての取組み内容も明確化された。指導原則では、①責任を果たすというコミットメントを盛り込んだ方針、②自社が人権に与える影響を特定し、防止し、軽減し、対処する人権デューディリジェンスのプロセス、③自社が引き起こし、または助長する人権への悪影響を是正するプロセスの3つを備えることが求められている。
(1)企業の人権尊重責任に関する過度な解釈の広がり
前述の通り、指導原則は企業が人権を尊重する責任を負うこと、そして責任を果たすためにすべきことを初めて明文化したものである。一方で、指導原則は、世界で活動するあらゆる企業を対象としているため、その内容は一般的なものにならざるを得ない。
そこで、例えば、欧州委員会が2012年に中小企業、2013年にITC、人材派遣、石油・ガスの3業種に特化した指導原則のガイドを発行するなど、個々の企業が事業の特性に応じて取り組むための解釈が展開されてきた。
しかし、その過程のなかで、指導原則の本来の内容とは離れて解釈が独り歩きする現状が懸念されている。例えば、企業の人権尊重責任は、確かに「侵害しない(do not harm)責任」ではあるが、単に「何も手を出さない責任」ではない。障がい者の労働への権利を侵害しないよう、合理的配慮として職場のバリアフリー化やジョブコーチの配置などが行われている。
このように人権を侵害しないために積極的な行為が求められる状況があり、2016年第5回国連ビジネスと人権フォーラムの基調講演においてラギーが警鐘を鳴らすところである。
さらに懸念されるのが、指導原則に基づく人権尊重の責任と、自社のビジネスを通じた社会的課題の解決との乖離である。企業の責任は社会課題解決にとって当然の前提である。2015年には持続可能な開発目標(SDGs)が登場し、企業の社会的課題解決への役割が大きく期待されているだけに、その責任との連続性が再確認される必要がある。
(2)「共通認識」からこぼれ落ちた社会的弱者と地域性への視点
国際社会の共通認識の形成を目指したために、内容に反映しきれなかった課題がマイノリティに属する権利保有者、そして地域的な人権問題への視点である。指導原則に登場する権利保有者は「人」であり、女性、子ども、障がい者、先住民族といった社会的弱者には「配慮せよ」と一言触れるのみである。2012年の第1回国連ビジネスと人権に関するフォーラム以来、先住民族からの被害の訴え、特に人権活動家に対する殺人・暴力をはじめとする現場での深刻な人権侵害への非難と是正への訴えが続いている。
また指導原則には紛争の影響をうける地域への配慮はあるが、例えば日本の部落差別、インドのカースト差別など、ローカルな人権状況への視点は弱い。指導原則は、国家の義務とは別に企業の責任を定めているにも関わらず、人権侵害に対する救済が十分に整っていないなど、国際基準に反する、または達していないローカルな人権状況のなかでビジネス活動を行う際の視点が弱い。
このような状況への対応として、ラギーは企業のリスクマネジメントにビジネスと人権の問題を組み込むことを目指すという。議論上、経営へのリスクと人権へのリスクは区別されているが、実際のところ、「リスクマネジメント」と聞けば企業にとっては前者の理解であろう。そのことは、現場を持つサプライヤーへの人権責任の押し付けを導くのではないか、と懸念される。人権デューディリジェンスは、自社の活動が社会的弱者やローカルな現場に人権リスクを与えていないかを評価するものであり、サプライヤーが自社の経営にリスクを及ぼしうるかを評価するものではない。
指導原則により国際社会に「ビジネスと人権」の共通の方向性がもたらされ、その普及・実施は拡大・深化してきた。その一方で、指導原則の承認から5年以上が経ち、差別や排外主義などのグローバル化の負の側面が広がるなか、どのように企業活動を根本的に変化させることができるのか、指導原則の現場での実効性をいかに確保できるのかが、われわれに問われ続ける課題である。
<参考>
・ビジネスと人権に関する指導原則(日本語訳)https://www.hurights.or.jp/japan/aside/ruggie-framework/
・菅原絵美「企業の社会的責任と国際制度:『ビジネスと人権』を事例に」『論究ジュリスト』第19号(2016年)
・菅原絵美「書評:ジョン・ジェラルド・ラギー著・東澤靖訳『正しいビジネス:世界が取り組む「多国籍企業と人権」の課題』」『大原社会問題研究所雑誌』第695・696号(2016年)