人権の潮流
世論と司法の動向にようやく国会議員が動き,超党派的なヘイトスピーチを縮減させる施策として,いわゆるヘイトスピーチ解消法[正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(平成28年6月3日法律第68号)]が制定された。自由権規約には,政治的権利に関する外国人「区別」を肯定する解釈を許す規定があり,他方で,人種差別撤廃条約の規定が要請する憎悪言論規制に関して,条約批准当初から日本政府は,表現の自由(憲法21条)との関係で問題があると主張して留保してきた。
こういった事情に鑑みて,ヘイトスピーチ解消法は,ヘイトスピーチ解消の必要条件ではあるが十分条件とは言い難い。以下ヘイトスピーチ解消法がこの留保といかなる関係にあるか,ヘイトスピーチ解消法で十分なのか,といった問題を,憲法と国際人権法の視点から概観し,問題解決の規準を提供しようと試みる。
第一の問題点として,歴史的視点の欠如を挙げることができる。ヘイトスピーチ解消法の法案提出者や法務省が前提しているのはこの問題が「近年」「近時」の問題であるということである。しかし日本の植民地支配と,その結果としての多くの特別永住者の存在が,ヘイトスピーチを行っている人々と無関係であるはずがない。ヘイトスピーチを行う者の多くが「在日特権」なる虚構を信じ込んでいる一事が典型的な反証である。
第二に,歴史的な継続性を持った問題であるからといって法的対策が十分であったわけではない。なによりも刑法の侮辱罪や名誉毀損罪は,基本的に個人的法益の保護を目的としており,具体的な個人名を出さずに行われる侮蔑的言動を,直接に違法とする規定が存在しないことが,意外と認識されていない。かかる言動の違法性に関して従来最高裁判例といえるのは「政見放送削除事件判決」(最高裁判決平成2年4月17日)くらいであった。この事件は,政見放送を「差別用語」が含まれるとの理由で「品位を損なう言動」(公職選挙法150条の2)該当として削除して放送したことの違法性が争われた事件であるが,このような法律の解釈問題と構成することが可能な問題でない限り,憲法の表現の自由規定(21条)が,ヘイト「スピーチ」規制の大きな壁となってきたのである。
しかし,「在特会」による常軌を逸した「デモ」の中で特定個人が明らかに侮辱され,また名誉を毀損されたと解釈され得る言動が,はじめに述べたような損害賠償を命じる判決に繋がった[①平成25年10月7日京都地裁第2民事部判決 ②大阪高裁平成26年7月8日(①の控訴審) ③平成26年12月9日最高裁判決(②の在特会による上告棄却判決)]。
これらの判決は人種差別撤廃条約適用を民法不法行為の解釈問題として提示したものである。憲法14条の適用問題や,とくに高裁判決は人種差別撤廃条約の直接的用を否定している点に疑問もあるが,いずれにせよヘイトスピーチの法規制に道を開いたものである[なお,事実関係については,中村一成(イルソン)『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』(岩波書店,2014年)参照]。
法律制定以前の状況把握は,すでに簡単には述べてきた。紙幅の関係もありここでは詳述しない[高史明『レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房,2015年)が有益。手に取りやすい文献として,安田浩一『ヘイトスピーチ:「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書,2015年)と,師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書,2013年)を薦めたい。やや専門的であるが,国際人権法学会の機関誌『国際人権』24号はヘイトスピーチ規制を特集している]。
やや乱暴に要約すれば,憲法21条を理由として,人種差別撤廃条約4条の適用を拒否し,そのことを,弁護士,裁判官等実務家も,憲法学者も,やむを得ないものとして受け入れてきたことが現在の状況を助長したといえよう。
人種差別撤廃条約4条は,人種差別的扇動を禁じ,その(a)号、(b)号で人種差別扇動等の犯罪化を締約国に義務付ける。しかし日本はこの(a)(b)を留保してきた。日本の現状は,かかる留保を撤回すべき状況にあると言える。
ヘイトスピーチ解消法法案提出者の提案理由,議会での答弁などは比較的容易に入手できる[基本文献として魚住裕一郎,西田昌司,矢倉克夫,三宅伸吾,有田芳生,仁比聡平,谷亮子『ヘイトスピーチ解消法 成立の経緯と基本的な考え方』(第一法規,2016年)]が,こういった資料には批判的視点はあまり含まれていない。
法的な課題[簡潔かつ有益な整理として,近藤敦『人権法』日本評論社,2016年,221-224頁参照]として,民事規制の観点は,すでに述べたように,判例によって,不法行為該当性は(一応)確立した。すくなくともヘイトスピーチ解消法2条で「この法律において「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」とは,専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命,身体,自由,名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど,本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として,本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。」と定めたことで,今後同様の判例が出ることになるであろう。そもそも,同法の4条が,かかる意味での差別解消に取り組む責務を課されている以上,ヘイトデモを警察が座視することは許容されない(実際運用が変わりつつあるようである)。法律の努力義務規定は何もしなくても問題がない,という意味では断じてないのである。
条文にある「適法に居住するもの」に限定されている「本邦外出身者」なる観念は,厳格すぎる適用がなされると無意味なものとなるが,この点は裁判官の良心に委ねられている。この一見無意味な限定は,先に触れた「留保」を撤回しないことからくる限界と考えられる。
では刑事規制についてはどうであろうか。
この点,いわゆる「対抗言論」の捉え方,その有用性が争点となる。名指しでなくとも人は傷つくということに思い至るかどうかが規制への積極論と消極論の岐路となる[見平典「第14章 表現の自由 III ヘイト・スピーチの規制」曽我部真裕・見平典編著『古典で読む憲法』(有斐閣,2016年)]。
憲法21条が重要であるということは,ヘイトスピーチ被害者の人格権侵害を容認することを意味するのであろうか。ヘイトスピーチ規制が刑事罰として許されないという憲法解釈をするとすれば,むしろ現行の刑法規定にあるわいせつ物頒布罪,名誉毀損罪,侮辱罪等は全て憲法違反ということにならないであろうか。はっきりと名指しで行われる名誉毀損や侮辱罪は,むしろヘイトスピーチよりも対抗言論での問題解消が容易であろうし,わいせつ物頒布の禁止に至っては,ゾーニング規制が世界的な趨勢であることとつじつまが合わない。表現の自由を制約する刑事規制を全て憲法21条違反とする極端にラディカルな立場に立たない限り,マイノリティの人格権侵害が認定される場合にはかかる行為をヘイトクライムとして立法化することが必須であると解される。確かに構成要件の厳格化が必要ではあるが,名誉毀損,侮辱については,すくなくともヘイトスピーチ解消法の定義に該当するマイノリティに対して拡大することなくして,問題が解消するとは思われない。読者諸賢はいかがであろうか。