特集 寛容な社会の可能性
神戸で生まれ育った私がカナダきっての大都会トロントで移民として暮らすようになって、10年が経とうとしている。人々の平等や社会の公正ということに強い関心を持つ私は、平凡な毎日ながら、時折ハッと自分の世界観や概念が大きく変容していることに気づくことがある。
日本で生まれ育ったということが当然なことで、周りもそれが当然だと思い込んでいた自分が、多様な人種で構成されるトロントの人々に混じって移民として暮らすようになってから、対外的に自分が「アジア系」であるということが最優先のアイデンティティとなった。全てにおいて「日本と世界」だった私の世界観は「アジア人の視点から見たカナダと世界」へとすっかり変容した。
日本で暮らしていた時には、「人権」という概念は社会でマイノリティと呼ばれる人々にのみ使われるものだと思い込んでいた。それがトロントで暮らすようになって、人権は全ての人が有するもので「人が人として生きる当然の権利のこと」とスラスラと説明する自分に最近気づき、あまりの認識の変容にショックを受けた。
こういう変容を経験してトロントでの生活に適応しながらも、カナダで生まれ育った人々との様々なギャップに、移民として生きることへの戸惑いや諦めにも似たアウェイ感で寂しくなることがある。ちょっと傷つきそうな自分をかばったりしながら、それでも周りにいる人々との関係性を築きつつここまでやってこられたのは、トロントという雑多で地味な大都会が「そんなこといちいち気にせんでもええよ」と言ってくれる大らかさを醸しているからだと、常に感じている。
トロントの人々はよく「You are entitled to it.(あなたにはそれを得る当然の権利・資格があるよ)」といったお互いの権利を承認し合うことばを掛け合う。人権が語られる際に、どこかの誰かさんという漠然とした「people(人々)」ではなく、自分や周りにいる人々すべてを含めた「You(指を差して、そこのあなた!という感じ)」をしっかりと主語に置いているのだ。
「私に当然である権利は、あなたにも当然であるべきでしょ」という公正な人権感覚を持つトロントの人々の中にいて、私も「自分が自分として生きるために当然やん」という人権意識を獲得し、移民である自分がカナダ社会の一員として暮らしているんだ、という自覚を持ち始めている。
カナダの人々にとって、「人権」という概念が人々の間で共有された価値概念であるということを裏付ける数字がある。2013年のカナダ総合的社会調査(GSS)がカナダの国家としてのアイデンティティ、つまり、カナダと聞いてどんな価値観を連想するか、について尋ねた結果、回答した92%が「人権」を挙げているのだ。この結果は、カナダに暮らす大多数の人々が、共有する価値観として「カナダは人権を尊重する国である」と自認していることを示している。
カナダには憲法で保障された基本的人権と並んで、カナダで誰もが人として生きる権利を具体的に保障するための連邦人権法並びに各州人権法、そしてカナダに暮らす人々が生活の様々なシーンで自分の権利を侵害された場合に、個人がそれを申告し、是正または処罰を求めることができる手段として、人権委員会並びに審判所が整備されている。
社会の人権保障を測る現代のリトマス紙とも言われる同性婚も2005年の合法化を経て既に当然のこととして社会に定着しており、性別自認による差別禁止の明文化や、ガイドラインに沿った尊厳死の合法化など、様々な世論がある社会課題についても、人が人として生きることをリスペクトするという姿勢を貫きながら法律や制度の改正が次々と行われている。
ではいったい、こういったたゆまぬ変革へとカナダを突き動かしているものは、何なのだろうか。
建国150周年を迎えるカナダは、当初から人権尊重の国であったわけではない。英国統治時代からカナダの人々に引き継がれた植民地支配的な意識は、中華系住民に限定した「人頭税」導入による人種差別政策や、太平洋戦争時に敵国民とみなされた日系カナダ人の強制収容、ヨーロッパ移民がカナダの地を植民地化する過程で数世紀に渡って繰り返された先住民に対する土地や文化の剥奪や暴力による排斥などの非人道的な政策に具現化され、現代に至るまでカナダの歴史に暗い影を落としている。
国家によるこのような歴史的人権侵害事件について、被害者である中華系や日系などのカナダ人たちが政府に対して謝罪と補償を求める運動(リドレス運動)を続けた結果、その多くの事件については政府の公式な謝罪と権利の回復、そして補償が成立している。しかし、先住民への暴力と剥奪については、あまりの傷の深さに、21世紀に入ってようやく解決の緒を探る取り組みが始められたばかりである。
未来に向かって解決していくべき課題が山積する中、カナダ社会は、こうした事実に向き合い、検証と反省を繰り返すことで、人権尊重に向けた具体的な意識の「刷り込み」を常に行っているのだ。
プライドパレード(街を挙げて性の多様性を祝う行事)で
アライを表明する市立特別養護老人ホームの職員(筆者撮影)
英国統治時代から現代に至るまで、カナダは、既得権益を守る主流(当時の英国系白人=ひいては社会で優遇的な立場を排外的に形成しようとする人々)を「主人公」として正当化するために、社会の構成員の大多数である様々な違いを持つ人々(当時の英国系白人でない全ての人々=ひいては社会で優遇から遠ざけられる人々)を都合よく「脇役」として配置し、その排斥をも当然視してきた植民地支配的な意識から脱却し、多様性と人権を尊重する社会を標榜してきた。現代のカナダ社会は、まだその過渡期にある。
周りを見渡すと、出生地や人種、民族、宗教、障害、ジェンダー及びジェンダーアイデンティティ、セクシュアリティ、経済状況など、社会を構成する私たち全員一人ひとりが何層にも折り重なった違いを持っているという解釈が様々に波及し、「全ての人々が違ったままで主人公となる社会」を構築しようとする活動が多様な主体によって行われている。
生活の様々な場面でも、アライ(allies=社会的に不利な立場に置かれる人々に共感と同盟感を示し、理解と支援を共有する人々)であることをさり気なくプチ表明する人々が身近に大勢いる。彼らは、自分の既得権や特権を自覚し、一時的に自分が脇役に退いてでも、多様な違いを持つ人々の主人公化を促進することを辞さない人々である。
様々な行動やジェスチャーを通じて、アライとしてのスタンスを表明する政治家や企業などの役割も重要である。彼らは、自らが社会のしくみによって付与されている権力を自覚し、その責任を果たしているのだ。
カナダを構成する人々は違いに溢れ多様であるという事実、そしてその多様性を自覚した人々をつなぐ統合感が、カナダ人としての人権尊重の気運を創り出している。私がアジア系カナダ人としてトロントで暮らしながら感じている「そんなこといちいち気にせんでもええよ」という大らかな励ましの正体は、多様なトロントの人々が創り出す、この「ゆるい統合感」なのかもしれない。
公正な社会を具現するための施策や法改正を進め、検証と反省を繰り返す。この姿勢は、多様性や人権の尊重とその実現について、「nice to have(あったらいいね)」ではなく「must have(あるべき)」つまりそれを獲得できなければ、カナダは国際社会で国家としてのアイデンティティを失ってしまうかもしれないという、カナダの人々の覚悟と危機感の表れなのである。