人権の潮流
最近の女性差別撤廃委員会の勧告など国連文書において、マイノリティ女性に関連する箇所で「複合差別/交差的な差別(multiple/intersectional forms of discrimination)という文言が出てくる。このintersectionality(交差性)とは、人種、エスニシティ、ネイション、ジェンダー、階級、セクシュアリティなど、さまざまな差別の軸が組み合わさり、相互に作用することで独特の抑圧が生じている状況をさす。マイノリティの中でも女性は、人種やエスニシティに基づくカテゴリーとジェンダーによるカテゴリーの両方においてマイナーな存在であり、解放運動の主体とみなされない。交差性は、このように構造的かつ言説的に消去されてきた存在を可視化し、そこに生じている特有の抑圧構造を捉える概念である1。以下では英語圏の女性学における議論をもとに、まず抑圧の交差性が生み出された歴史的背景を述べ、さらに分析ツールとしての意義と可能性を論じる。
複数の抑圧が交差する状況についての問題提起は19世紀なかばのアメリカにさかのぼる。「黒人奴隷」として男性同様に働かされた経験を持つS. トゥルースは、白人中心の女性参政権運動に対し、「私は女ではないのか?」と訴えた。その言葉は1世紀のち、白人中産階級女性を中心とする女性解放運動を批判したベル・フックスの著書のタイトルになった。公民権運動が興隆した1960~70年代、人種差別を批判する運動内で周縁化されていた黒人女性は、人種とジェンダーが交差する抑圧構造に異議を申し立てた。『黒人女性のマニフェスト』は、黒人であり女性であることは「2重の危険性」(double jeopardy)とし、従属的立場と分かちがたく結びついた黒人女性の生活体験と、特有のアイデンティティを提起した。著者のF.ビールは、ブラックパワー運動内の家父長制、女性解放運動における人種主義、そしてこの2つに深く関わる資本主義システムを批判した。70年代末にアフリカ系女性コミュニティ「コンバヒー・リバー・コレクティブ」は、ヘテロセクシズムについても批判しつつ、最もラディカルな政治は自分自身のアイデンティティから直接湧き出ると主張した。80年代、前述のベル・フックスは次のような問いを発した。女性解放言説における〈女性〉とは誰のことか?なぜ白人女性は〈女性〉全体を代表するとされるのか?人種差別に無関心な白人女性とアフリカ系女性との連帯はありえるだろうか?抑圧が交差する状況への関心は、アフリカ系アメリカ人女性の間に連帯を生み、男性のみを対象とする黒人解放運動、白人のみを対象とする女性解放運動を問い直す力となった。
分析概念として交差(intersection)という言葉を初めて使ったのは、フェミニスト法学者K. W. クレンショー(1989)である2。クレンショーは、〈黒人〉や〈女性〉という、それぞれ均質で相互排他的な〈黒人〉や〈女性〉というカテゴリーのために、黒人女性の経験が軽視され、存在が消去されてしまうと主張した。そして黒人女性を分析の中心に据え、その経験の多面性や幾重にも負わされている負担に焦点をあてることで、複雑で入り組んだ支配や従属構造を解明しようとした。黒人女性に対する差別や、黒人女性が直面している従属問題とは、人種差別と女性差別の単なる足し算ではなく、それらが相互に作用し複雑に絡み合っている。たとえば、貧困のため多くの黒人女性は自分の家庭での労働に加え、生計を支えるために白人家庭の家事労働者のような有償労働にも従事してきたが、労働市場における人種および女性差別により条件が悪い仕事に就かざるをえない。さらに黒人女性の就労は、専業主婦をモデルとする白人中心的な女性らしさや母親のイメージから逸脱している。このため、黒人コミュニティ全体に対する人種的偏見が強化・再生産されるとした。
交差性の概念は、資本主義、植民地支配、人種主義、家父長制、ナショナリズムといったシステムを分析する道具であり、社会的不平等、権力関係、社会的コンテキスト、複雑性、社会正義といったテーマに取組み、抑圧からの解放をめざす運動論でもある。アメリカからヨーロッパに拡がり、学術研究、政策立案など幅広い分野に導入され、さまざまな解釈がされているが、コリンズとビルジは一般的定義としてこう述べる。社会政治的な出来事や状況、そして自己とは、単一の要素ではなく、多様な要素が相互に作用し構成されている。社会的不平等の局面では、人々の生活や権力構造は社会を分断するいくつもの軸―人種やジェンダー、階級など―が相互に作用したものと考えられる3。
〈女性〉や〈黒人〉を均質、かつ相互に関係のないカテゴリーとみなすと、内部の多様性や権力関係、不平等な配置がみえなくなる。交差性の概念は、一枚岩的なアイデンティティを再考し、集団内部の差異、集団間の関係、集団と個人の関係をあぶりだす。
intersectionalityと並び使われる言葉として、interlocking(格子)やnexus(結合)、matrix(変数が組み合わさったマトリクス)、synthesis(異なる要素の統合体)などがある。人種、エスニシティ、ジェンダー、階級、セクシュアリティなどは座標軸のようなものとも捉えられる。マジョリティであれマイノリティであれ、それらの軸が立体的に組み合わさった地点に個人が存在すると考えられないだろうか。交差性は、その地点に特有の抑圧、あるいは特権性をあぶりだす概念である。
移住女性にみられる搾取と差別の連関構造は、ジェンダー、階級、民族に加え、国籍の要素が関わる。伊藤るりは、移住女性が置かれた差別の構造を以下のように整理した。①出入国管理、移民政策を支える法制度的な国籍差別、②受入社会での3重の差別構造(ジェンダー、民族、階級)、③移民共同体内部の差別(とくにジェンダー)、④受入社会・国家と移民共同体間のジェンダーを媒介とする境界統制。これらが単独ないし相互に絡み合い、移住女性の生活と労働を規定している4。
これまでの議論をもとに、最後に在日朝鮮人女性のケースを取り上げたい。植民地朝鮮から渡日した人々は、言語文化的障壁と民族差別により日本の労働市場の最底辺に包摂された。戦後日本が植民地を正式に放棄した際、日本に居住していた朝鮮人は保持していた日本国籍を失った。このため日本では外国人となり、出入国管理統制を受け、社会保障や公的機関への採用において国籍差別が正当化されることとなった。さらに女性の場合、貧困および家庭領域と結合した女性規範によって、植民地朝鮮でも日本でも就学機会から疎外されがちであった。日本語や日本の教育機関は在日朝鮮人からみれば植民地支配の象徴であり、さらに女性には教育は不要という考えと、育児家事や仕事に追われる生活により、在日朝鮮人女性は学齢期に識字教育から疎外されがちであった。このため日本に何十年住もうと文字が読めず、よって外出が不自由で、日本社会の情報を取り入れることができず、そのため家族に依存せざるをえず、日本人との接触において尊厳を傷つけられることも多い。彼女たちが置かれた抑圧状況は、民族、国籍、階級、そしてジェンダーが交差し、相互作用した結果といえよう。ところで80年代以降関西を中心に、子どもの独立などを機に夜間中学に入学する中高年の朝鮮人女性が続々と現れ、大阪では学ぶ権利の保障を求める運動が起きた。この運動は、夜間中学で形成された在日朝鮮人女性の社会空間を基盤としつつ、部落解放運動や労働運動、民族運動など、関西のマイノリティ人権運動と連携し、夜間中学増設という目的を達成した。さまざまな抑圧が交差する状況は、あらたな連帯を生み出し、社会を変革する力にもなりえることが示されている5。
1:日本では関連概念として、社会学領域で「複合差別」(上野千鶴子 1996)、重複差別(神原文子 2015)、異文化コミュニケーション領域で「交錯」(河合優子 2016)が論じられている。
2:Crenshaw, K., “Demarginalizing the Intersection of Race and Sex: A Black Feminist Critique of Anti-Discrimination Doctrine, Feminist Theory and Anti-Racist Politics,” The University of Chicago Legal Forum 140:Vol.1989, Article 8.
3:Collins, P. H. and S. Bilge, Intersectionality, Cambridge: Polity Press.
4:伊藤るり(1995)「ジェンダー・階級・民族の相互関係―移住女性の状況を一つの手がかりとして―」『ジェンダーの社会学』岩波書店。
5:徐阿貴(2012)『在日朝鮮人女性による「下位の対抗的な公共圏」―大阪における夜間中学を核とした運動』お茶の水書房。