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国際人権ひろば No.138(2018年03月発行号)

特集 「人権」のとらえ方再考-権利を理解する学びを

死刑について考えたこと 被害者の人権と加害者の人権のはざまで

森 達也(もり たつや)
作家・映画監督・明治大学特任教授

 2011年11月、京都市内で開催されたシンポジウム「憲法と人権を考える集い」(京都弁護士会主催)に、僕はパネラーの一人として参加した。この催しのサブタイトルは「死刑、いま命にどう向き合うか」。つまり趣旨としては、死刑制度と憲法を基軸にしながら人権について考える催しだ。

 僕の登壇は第二部。第一部では、地元の高校生たちによる死刑制度についてのレポートが発表された。シンポジウムが始まる前に控室で会った二十人ほどの高校生たちは、この調査をするまでは死刑制度について疑問や関心はほとんどありませんでしたと口をそろえた。人を殺した人は罰として自分が殺される。それは大前提。ここに疑問の余地などない。全員がそう思っていたという。でもレポート作成の過程で彼らは、被害者遺族やかつての冤罪死刑囚、死刑囚に最後に接する教誨(かい)師や執行に立ち会った元刑務官などに会って話を聞きながら、少しずつ意識が変わってきたという。ただしもちろん、あっさり廃止派に転向などしない。もしそうならば、それはそれでどうかと思う。

 彼らは揺れていた。煩悶していた。死刑は本当に正しい選択なのか。被害者遺族の気持ちを本当に慰撫するのか。仮に慰撫するにしても、それは人の命を犠牲にすることに値するのか。いやその命はそもそも人の命を踏みにじった命なのだから、犠牲になって当然なのか。なぜ世界では死刑を廃止する国がこれほどに多いのか。改悛した人を殺す理由は何か。冤罪についてはどう考えるべきか。処刑してしまった場合は誰が加害者になるのか。

 ……自分たちの揺れる意識を滲(にじ)ませながら、高校生たちは一時間余りのレポート発表を終えた。まだ明確な結論は出ていない。いずれにしても死刑は当然だと考えていた時よりは、自分たちは新たな視点をいくつも今回の調査やフィールドワークで獲得した。これからも考え続ける。悩み続ける。そうしたニュアンスを結論として提示しながら、高校生たちは一列に並んで頭を下げた。見事な発表だった。会場からは盛大な拍手。でもその拍手が終わりかけたとき、突然大きな声が響いた。

 「被害者の人権はどうなるんだ!」

 会場は静まり返った。他のパネラーたちと最前列に座っていた僕は後ろを振り返った。声の主は年配の男性だった。男性はさらに何か言った。相当に興奮しているようで、その後の言葉はよく聞き取れなかった。かなりの大声でかなりの剣幕だった。壇上で高校生たちは硬直していた。女の子のうち何人かは涙顔になっていた。会場が沈黙したまま、第一部は終了した。

 

 休憩をはさんだシンポジウム第二部で、僕は男性と話し合いたいと考えた。本人が了解してくれるなら壇上に上がってもらってもいい。でも当の男性は一部だけで帰ってしまったらしい。他にも休憩時間に帰ってしまった男女は何人かいた。みんな不愉快そうだった。おそらく死刑存置を主張する人たちなのだろう。

 なぜ僕は男性と話し合いたいと思ったのか。彼の「被害者の人権はどうなるんだ」という問いかけに答えることは、死刑と人権について考えるとき、とても重要な補助線になるはずだと直感したからだ。

 だから(決してフェアな手法ではないことは承知しながらも)この誌面で、今から男性に語りかけてみようと思う。

 

 死刑賛成を唱える人の多くは、あなたのように「殺された被害者の人権はどうなるのか」と語気を荒げる。僕もそのフレーズを何度か浴びせられたことがある。でも高校生たちは第一部で、「被害者の人権を軽視しましょう」などとは言っていない(当たり前だけど)。ただし加害者の人権について、自分たちはもっと考えるべきなのかもしれないとのニュアンスは確かにあった。そしてこの発言に対してあなたは、「被害者の人権はどうなるんだ!」と反発した。つまりあなたにとって、殺された被害者の人権は、殺した加害者の人権と対立する概念である、ということになる。

 殺した人と殺された人。確かに言葉や概念として対ではある。でも人権について考えたとき、この二つは決して対立するものではない。どちらかを上げたらどちらかが下がるというものでもない。どちらかを優先したらどちらかが軽視されるというものでもない。シーソーとは違う。世界は白と黒ではできていない。もっと複雑だ。多面的で多重的で多層的。白と黒のあいだにはグレイがある。さらにもっとたくさんの色もある。

 

 あなたの趣味が油絵だとする。違いますか。でも仮の話です。あなたは休日にキャンパスを抱えて公園に行く。四季の移ろいで変わる木々を何枚も描いている。でもこのときあなたは、木の葉を緑一色に塗るだろうか。空は青の絵の具。地面や木の幹は茶色。つまり原色の世界。

 もちろんあなたはそんな描き方をしないはずだ。だってよく見れば、木々の葉には黄色や茶色や赤が入り混じっている。混濁している。重なり合っている。空も地面も同様だ。たくさんの色がある。たくさんの煌(きら)めきや濃淡がある。それが世界。とても複雑だ。あなたはパレットの上で絵の具を混ぜる。様々な色を再現する。それは赤でもないし白でもないし黒でもない。原色だけなどありえない。多くの色が混ざり合った複雑な世界だ。

 大きな事件や災害が起きたとき、不安と恐怖を強く喚起されて、人は一人でいることが怖くなる。多くの人と連帯したくなる。こうして集団化が駆動する。多くの人は集団の一部になって安心を得ようとする。ただし集団は同質性を要求する。異質な人達に対しては、むしろ排除しようとする。異質な要因は何でもよい。思想信条や考え方。髪の色や言語。信仰や支持政党。こうした違いを選り分けて人は同質な集団を作る。こうして集団化と分断が同時進行で起きる。

 同時に集団は、帰属する人々に同じ動きを強要する。つまり同調圧力だ。そしてこのときに集団内部で起きる現象のひとつが、周囲の環境因子の単純化や簡略化だ。様々な要素は対立概念にまとめられる。正義と悪。敵か味方。是か非か。トゥルースとフェイク。そして加害と被害。つまりダイコトミー(二項対立)だ。

 発達したメディアによって、単純化はさらに加速する。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数は伸びるからだ。要するに雑誌の中吊り広告の見出しだ。こうして正義や真実はさらに崇高な価値となり、悪や虚偽は問答無用で殲滅(せんめつ)すべき対象となる。

 特に地下鉄サリン事件以降、この国では厳罰化が急激に進行した。犯罪と刑罰の均衡は崩れ、罪を犯した人(つまり共同体の規範を犯した人)に対しては、より重い罰を与えたいとの衝動が肥大した。少年法改正はその一例だ。刑事処分の対象年齢を下げて適用範囲は大幅に狭められた。その根拠は「少年事件が多発している(あるいは凶悪化している)」だが、どちらもまったく事実ではない。統計ではむしろ少年事件は減少している。

 いったん始まった加害者への憎悪は、治安悪化を煽るメディアによって(念のため補足するが、治安は決して悪化などしていない。殺人事件は毎年のように戦後最少を更新している)さらに加速する。

 

 ……いつのまにか男性はいなくなっている。でも僕は語り続ける。被害者と加害者の人権。それは決して対立や相反するものではない。どちらも可能なかぎり尊重すればいいだけの話です。つまり加害者の人権への配慮は、被害者の人権を損なうことと絶対に同義ではない。そもそも人権は生きている人に帰属する。被害者はもうこの世界にいない。だから厳密には、「被害者の人権」とのレトリックには無理がある。

 もしも席を立っていなければ、ここで男性は怒り狂うかもしれない。確かにこの指摘は口にしづらい。もちろん故人ではあっても、名誉や尊厳は守らねばならない。これを損なうことは許されない。それは当たり前。でももう一回言います。それは人権とは違う。それを人権と思っているのなら、あなたは人権を理解できていない。その人権を侵されて殺された人が被害者だ、とあなたは言う。もちろんです、と僕は答える。でも過去は取り戻せない。僕たちは過去に生きていない。今もこの世界では多くの人が苦しんでいる。現在の人権を尊重するべきです。

 人権はすべての人が生まれながらに持っていて、どんな状況であっても、決して侵してはならない普遍的な権利です。