特集 「人権」のとらえ方再考-権利を理解する学びを
誰もが自分の権利について学び、「権利の主体」としてエンパワメントすることにより、民主主義社会の担い手となることをめざし、国際社会が人権教育に取り組み始めたのは1990年代のことである。世界各地の人権教育者の努力が、人権の実現に寄与したことは言うまでもない。
だが一方で、目を背けるわけにはいかない事態も進行している。人権教育者は、人権について教え続けることはもちろんだが、それだけでは不十分である。人権を後退させようとする挑戦的な言説や行動に抗する手段もまた、教えるべき重要な課題となったことを自覚しなければならない。
しばらく前に、フィリピンの大学で教鞭をとる友人に、大統領についてたずねてみた。「麻薬撲滅戦争」を掲げる大統領が就任してから、麻薬犯罪の取り締まりを名目とする、超法規的殺人がエスカレートしていたからだ。1980年代、ピープルパワーによってマルコスの独裁体制に終止符を打たせたフィリピンだから、大統領に対する抗議運動も盛り上がっているかとたずねた私に、こんな答えが返ってきた。「独裁政権下では、政府を批判すると捕まったり、超法規的に処刑されたり、身の危険にさらされていたけれど、民主化した後、問題は国ばかりではない。今や大統領の政策を批判した人のところに、多数の脅迫メッセージが来るんだ。大統領の支持率は高い」。
古典的な人権の枠組みにおける「表現の自由」とは、市民が自分の考えを公権力に妨げられることなく(検閲や規制を受けたり、身の危険にさらされることなく)表現することを意味していた。自らの意見を表現し、政治的意思決定に関与することは、民主主義の根幹だからだ。しかし、今や国家のみならず、市民相互のバッシングが「表現の自由」を侵害する度合いが深刻になっている、というのだ。
このことは日本にも共通する。2017年6月、離島の空港に階段式タラップしか備えていなかった格安航空会社が、車いすの乗客に、「担ぎあげるのは危険だから」「歩けない人の単独搭乗は認められない」と対応し、自力(腕力)でタラップを上がらせた。会社は後に謝罪し、車いす昇降機も備えることになったのだが、問題は、この会社の対応について問題提起を行った当事者が、「クレーマー」「プロ市民」などのバッシングを受け、それがネットで炎上した。日本は障害者権利条約の締約国であり、障害者差別解消法には「合理的配慮」も盛り込まれているが、当事者がその実現を求めると、バッシングを受けるのである。
また、2017年末、米軍ヘリコプターの部品が、普天間飛行場近くの小学校に落下する事件が起きたが、被害を受けた小学校には、「学校をどかせるのが筋だ」「やらせじゃないか」などの電話が寄せられたという1。事故から一週間もたたずに米軍が同型のヘリコプターの飛行を再開し、日本政府がこれを容認したことも、このような被害者叩きのバッシングを後押ししてしまったように思う。こうした言説は、人権を実現する責務を持つはずの政府を免責し、政府に対する批判を封じ込め、民主主義のメカニズムを妨害すらしかねない。
ところで、このようなバッシングはネット空間で広がりやすい。インターネットは匿名性も高く、不特定多数のユーザーにメッセージが届くからだ。発信したいと思えば、思いついたその瞬間に発信できる。だが、それゆえに何らかのストッパーがかかりにくい。
また専門家は、ネットの普及によって「表現の自由」は、「国家からの(市民の)自由」という、社会契約概念ではなく、サービスプロバイダーから購入した「商契約上の権利」であり、カネを払って購入したモノだから、どう使おうが買い手の自由、という感覚が浸透している、と指摘する2。また、「商契約」によって手に入れた、ネット上での発言権のほうが、国と市民の「社会契約」なんかより、よっぽど即効性があるように見えてしまう。選挙で代表を選び、自分の声が政治に反映されるのを待つより、ネットのほうが瞬時に大多数に、自分の声を伝えてくれるからだ。
だが、オンライン上の発言には、破壊力はあっても、現実社会で具体的な何かを建設的に実現することが難しい。だからこそ、人権を実現する一義的な責務を負う「国」に対して働きかけ、民主的な手続きによって政策が決定され、実施されてこそ暮らしが変わる、という「そもそも論」を人権教育は伝え続けねばならない。また同時に、「進化」していくネット世界の「表現の自由」はどうあるべきかという宿題にも、人権教育者は答えていかねばならない。
日本では、多くの自治体が数年毎に、住民への人権意識調査を実施している。人権教育・啓発の課題を明らかにし、施策に資するデータを得るためである。ところが最近、アンケートの自由回答欄などに、マイノリティに対する「ねじれた表現」が目立つようになった。部落出身者、在日外国人、LGBT、障がい者など、マイノリティ集団に対して、「差別なんかないのに、努力もせず差別、差別と騒ぎ立て、不当な要求をしている」とか、「制度に甘えている」「福祉を特権にしている」などという書き込みが見られる。
このような言説は、ストレートな偏見の表明ではなく、「制度に甘えているから差別されて当然だ」という「ねじれ」が加わっているのが特徴である。日本では「在日特権を許さない市民の会」(在特会)らによるヘイトスピーチが、こうしたレトリックを多用したことで知られるが(在特会はその名の通り、彼らの論理がひねり出した「在日特権」を批判することを主張の核としてきた)、アメリカでは1980年代から、「シンボリックレイシズム」や「現代的レイシズム」などとして知られてきた3。
「現代的レイシズム」は、アメリカでは人種間の格差を是正するために行われた特別措置(アファーマティブアクション)に対する、逆差別意識の表現として登場している。「黒人は能力が低く、白人より劣っている」と言うような、「古典的で」あからさまな差別とは異なり、政治的主張の様相を呈しているがゆえに、断罪しにくいという特徴がある。これは政治的な装いを纏(まと)った主張であるから、ここに対抗しようとすれば、反差別平等の理念を政治のプロセスを通じて具体化する実践力こそ求められる。「差別はいけません」「思いやりを持ちましょう」といった心情主義的・徳目型人権教育の限界がここにある。
ところで、テッサ・モーリス=スズキは、前述の「在特会」の言説が、市民としての権利を「ゼロサム」(一方の利益が他方の損失になり、足し合わせるとゼロになる、という物の見方)と捉え、自分自身の不安や生きづらさを「自分が持つべき権利をマイノリティに奪われたから」だと理由づけることを問題にしている。スズキはこれを「逆転した被害者感情」と呼んでいる。
これはかなり危険な感情である。「すべての人」の権利であったはずの人権が、いつの間にか、「取る、取られる」ものになり、マジョリティとマイノリティのゼロサムゲームの対象にされているからである。ゼロサムの人権観は、不安と怒りを増幅させ、排外主義を強化する。「自分は普通に頑張ってるのに報われない」という感情が、先のアメリカ大統領選挙にもたらした結果は、誰の目にも明らかである。
人権教育に関わる者が、いま現代社会の中にはびこり始めた、自由や平等に対するねじれた解釈や表現に向き合い、これらに抗する教育を実践していかなければ、これまで先人たちが築き上げてきた人権と人権を保障するためのメカニズムは、次々と歪められていく危機にさらされる。「現代的レイシズム」や「ゼロサムの人権観」、そして「ネット上の表現の自由」の問題などは、これからの人権政策や社会保障政策の根幹を揺るがしかねないものだ。そもそも「現代的レイシズム」論者たちの考えるとおり、マイノリティに一切配慮しない形式的平等だけを追求すれば、合理的配慮なんか吹き飛んでしまう。人権教育を「おもいやり」「やさしさ」などの心情主義的なアプローチにとどめ、満足している場合ではない。日常生活の中で、そして政治的アリーナで、民主的な主張をするまっとうな市民を育てることこそ、人権教育の原点ではないか。このことを確認したいと思う。
1:東京新聞2017年12月22日(朝刊)「沖縄中傷にも苦しむ 基地そばの学校『動かせばいい』」
2:タイ・ネティズン・ネットワーク、Suriyawongkul「サイバースペースと人権」より。第4回東南アジア人権教育ネットワーク会議(2016.10.12)
3:Kinder & Sears(1981)Prejudice and Politics: Symbolic Racism Versus Racial Threats to Good Life. Journal of Personality and `Social Psychology 40(3).
McConahay, J.B(1986)Modern Racism, Ambivalence, and the Modern Racism Scale. Orlando, FL: Academic Press.