アジア・太平洋の窓
2018年6月27日から7月2日まで、朝鮮衡平社運動史研究会による第2回韓国踏査に参加した。団長は水野直樹さん(京都大学名誉教授)で、参加者は私を含めて9名。
訪問したのは、光州(クァンジュ)、羅州(ナジュ)、求礼(クレ)、河東(ハドン)、麗水(ヨス)、順天(スンチョン)、蔚山(ウルサン)等で、それぞれの地で白丁(注1が居住していたと思われる地区、と畜場があった地区、衡平社運動(注2に関係した建物跡など。
本号では、その概要と、特に印象深かったことを報告する。
6月27日、関西空港から韓国・務安(ムアン)空港へ向けて離陸。筆者はこれまで、数回光州へ行ったが、務安空港を使ったのは初めて。空港からタクシーで光州の5・18国立墓地に向かい、その地を見学。
1980年5月の光州での民主化運動の犠牲者を葬った国立墓地も数回見学したが、行くたびに整備されている様子(例えば埋葬者の増加など)が分かる。日本からの見学者も多いためか、日本語の説明書、ビデオ、さらにはボランティアガイドが用意されていた。見学を終えて「歴史をば 語り継ぐのは 同じこと 繰り返さぬため 語りしガイド」という歌を詠む。
翌6月28日午前中は、5・18民主化運動記念館で、光州におけるかつての白丁居住区、と畜場のあった場所、衡平運動に関わった建物などに関する日本の植民地支配時期の写真によるスライドを使った説明を受けたのち、それぞれの場所を見学。特に、1923年7月1日衡平社全南支社創立祝賀会が開催された光州座が、植民地支配時期と同じ姿で残されていることには感動を覚えた。
衡平社の記念大会が開催された光州座(割石忠典さん撮影)
午後は羅州に移動し、羅州学生運動記念館(1929年の光州学生抗日運動を記念した建物)で地元の名士であり歴史に詳しい朴炅重(パクキョンジュン)さんから事前説明を受けた。植民地支配時期、この地には、竹中缶詰工場があり牛肉の缶詰を陸軍などに納品していたこと、また黒住猪太郎という大地主がいたこと、と畜場が2か所あったことなどが説明された。
学生運動記念館の見学をし、竹中缶詰工場跡、と畜場跡、黒住猪太郎宅(高齢者の福祉施設に活用)、宮三面小作争議記念碑(植民地支配時期の日本の弁護士・布施辰治の名前も刻まれている)を訪ねた。小作争議記念碑のすぐそばに汚吏石碑が建てられていたことは強く印象に残り、「悪役人 行状刻みし 石碑あり 歴史恐るを 教えておれり」との歌を詠む。
翌29日は、9人乗りのレンタカーで、すし詰め状態で求礼に移動。1926年2月28日衡平社順天分社設立総会で求礼青年党代表として感想を述べた鄭泰重(チョンテジュン)さん(1930年代に京都に渡り京都朝鮮人問題協議会などを組織した活動家)の居住地区と墓地を見学。居住地区では、本家筋にあたる方が現在も住んでおられ、海州(ヘジュ)鄭氏の族譜を見せていただいた。
その後、河東に移動。河東では、1923年8月19日に衡平社分社が設立されたが、河東労働組合員70余名が殺到して反対運動が起こり、同年10月28日、河東商務會の仲裁で和解が図られた。
ここでは、作家・朴景利(パクキョンニ)さんの大河小説『土地(トジ)』をもとにテレビドラマ化された『名家の娘ソヒ』の舞台のセットとして使用された崔参判(チェチャムパン)宅と、その近くに建てられた文学館を見学。『土地』は、1894年2月に起こった東学農民運動の時期から1945年8月の植民地支配からの解放までのおよそ50年間を扱っている大河小説で、この中に登場する人物は多く、白丁や衡平社の創立の場面も含まれている。
6月30日、麗水の徳良(トンニャン)と新豊(シンプン)にあると畜場跡を見学。徳良にあると畜場跡では、と畜場の建物が肉料理店に改装されていて、10軒ほどの肉料理店が周辺に軒を並べていた。付近には、狭い路地があり数十軒の民家が密集していて、集落としてのまとまりが崩れていないように思われた。
その後、宝城郡筏橋に移動し、小説『太白(テベク)山脈』(作家・趙廷來(チョジョンネ)による大作で、1945年から朝鮮戦争が終わるまでが描かれている)の舞台となった宝城旅館を見学し、「屠畜谷」にあったと畜場跡を訪ね、順天に移動。
順天では、ドラマ撮影場を見学。この撮影場は、1960年代、70年代、80年代の町並みが再現されていて、最も印象深かったのは小高い丘にへばりつくように軒を並べている「貧民窟」だった。
その後、青巖(チョンアム)大学に移動し、2012年に開設された在日コリアン研究所で一休みし、蔵書等を見せていただいた後、1926年2月28日に衡平社順天分社の創立記念式が開催された労働会館跡と東川の付近にあったと畜場跡を見学。
7月1日、高速バスで蔚山に向った。蔚山大学で、蔚山地方の戸籍を研究しておられる研究者からデータベース化された資料を基に説明を受けた。韓国では1600年代から1900年代初頭までの、蔚山地域の戸籍(ソウル大学所蔵)のデータベース化が、順次おこなわれているとのこと。このデータベースは、外部からもアクセスすることができ、様々な研究に活用されている。私たちが研究している「白丁」についても、「白丁」や「皮匠」、「屠汗」、「柳器匠」などで検索すると、それぞれの年代ごとにデータが表示された。
その後、蔚山博物館を見学し、蔚山大橋展望台に上り、蔚山の全景を眺めた。蔚山は、かつて捕鯨等で有名な農漁村地域だったが、1970年代以降の急速な近代化の中で、今日では、「現代」財閥の自動車や造船工場、石油コンビナートが建ち並ぶ一大重工業都市に変貌している姿が一望できた。
7月2日、1932年4月24日に衡平社蔚山支部10周年記念式を行った蔚山邑鶴城(ハクソン)公園(加藤清正が居城としていた旧倭城)、植民地支配をしていた日本人が衡平社員を侮辱殴打した事件が生起した蔚山兵営付近を見学。
その後、蔚山の旧市街を見学、釜山の金海(キメ)国際空港へ移動し、関西空港に帰国。
今回を含めて、私は10回近く、白丁に対する差別、衡平社の運動の調査に参加してきているが、日本の被差別部落、部落解放運動と比較したとき、大きく異なっていることとしては、韓国においては、白丁の集落が崩れてしまっている点だと思われる。その理由としては、もともと白丁の集落の規模があまり大きくなかったこと、1950年~53年に生起した朝鮮戦争、1970年代以降の韓国のおける急速な経済発展がある。
しかしながら、私には、韓国における白丁に対する差別がなくなったとは思えない。今回の踏査中にも二つの象徴的な出来事があった。一つは、順天で、と畜場跡を見学していた際に、案内していただいた方に白丁に対する差別の現状はどうかと尋ねたところ、つい最近のこととして「メディアで相談のコーナーがあり、肉屋に勤めている男性が結婚をしたいと思っている相手の女性の家に挨拶に行ったところ、絶対だめだと反対され、女性の母親にたたかれた」という例を紹介された。
もう一つは、今回の踏査の一員として参加し通訳もしていただいた高正子(コジョンジャ)さんから、以下のような韓国での報道を紹介していただいた。
自由韓国党(パク・クネ前大統領を支持していた党)が6月に行われた地方自治体の選挙で大敗を喫し、親朴系と非朴系との対立が激化する中で、キム・ソンテ代表代行が外部人士を非常対策委員長に受け入れ公認権まで与えたことに対して、パク・テチュル議員が「この人、あの人、むやみに首を切る白丁の刃物(小刀)になることもある」と差別発言をしたというもの。
このような事例を見たとき、結婚や意識の面では、今日なおも韓国においては白丁に対する差別は存続していると思われる。
その点では、1988年以降、日本の部落問題の研究者と韓国の衡平運動の研究者との連携が継続しているが、これを継続し発展させることが求められていると思われる。
注1:
白丁:朝鮮の被差別民。前近代社会で食肉、皮革、柳器製造などに従事。居住地、結婚などの面で差別された。1894年の甲午改革(カボゲヒョク)で賤民身分から解放されたが、その後も実生活で差別された。
注2:
衡平社:1923年4月24日、慶尚南道晋州(キョンサンナムドチンジュ)で創立された白丁に対する差別撤廃運動。1935年に「大同社(テドンサ)」と名称を改称。水平社との交流もあった。1945年8月以降、運動は再建されなかった。