特集 ビジネスと人権をめぐる国内外の動向
2011年6月に国連人権理事会で「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下「指導原則」)が承認されてから、7年半が経過した。その影響力は大きく、この間「企業と人権」をめぐる状況はめまぐるしい動きをみせた。CSRに関わるさまざまな国際基準が「指導原則」の考え方を取り入れてきたほか、G7やG20など国際政治の場でも課題認識が定着してきた。SDGs(持続可能な開発目標)が含まれる「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」でも「指導原則」が直接言及されている。
国内でも影響が広がっている。2017年11月に日本経団連の企業行動憲章が人権尊重を明記して改定されたが、その発表の際にとくに言及されたのは国連気候変動枠組み条約のパリ協定、SDGsと並んで「指導原則」であった。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会は、2018年5月の「持続可能性に配慮した運営方針」の中で「指導原則」に則り大会の準備・運営を行うとしている。企業セクターでは、グローバル企業を中心に「指導原則」に沿った取り組みが必須のものと認識されてきている。
「指導原則」は、国家には企業による人権侵害(人権への負の影響)から個人を「保護」する義務を、企業には人権を「尊重」する責任を求めている。そして人権侵害から「救済」する仕組みの必要性も示している。この「保護・尊重・救済」は、「指導原則」を中心とする「ビジネスと人権」の考え方の最も基本的な枠組みである。なお、ここで言う企業による人権侵害は、サプライチェーン上の児童労働、強制労働、環境破壊による生活への悪影響の問題から、職場における性差別やハラスメント、過労死、公正な採用選考の問題、市民生活におけるプライバシー侵害やインターネット上の人権侵害、消費生活における製品の安全性の問題に至るまで、極めて広範囲に及ぶものである。
「ビジネスと人権」の、この7年余りの広まりと定着は、少なくともその初期においては、企業の人権尊重責任をめぐる議論と取り組みが概ね先行してきた。「指導原則」は企業の人権尊重責任として、人権侵害の可能性を防止・軽減するための人権デューディリジェンス(相当な注意)の仕組みの構築を求めている。しかし、同時に、実際に人権侵害が起こってしまった場合の「救済」の仕組みも不可欠であるし、国家の「保護」義務も「指導原則」を実施するに際して極めて重要な要素である。
2013年には国連人権理事会で、「指導原則」を各国で実施するための行動計画の策定を検討するよう、ビジネスと人権に関する国連ワーキンググループから各国に要請がなされた。そこでの中心課題は国家による「保護」と「救済」である。「国別行動計画(National Action Plan:NAP)」(以下「NAP」)は、2018年11月現在で21の国で策定されている。
日本政府の動きが早かったとはいえない。2015年6月のG7エルマウサミットの首脳宣言で、「我々は、国連ビジネスと人権に関する指導原則を強く支持し、実質的な国別行動計画を策定する努力を歓迎する」と「責任あるサプライチェーン」の課題として言及されたのを受けて、翌年のG7伊勢志摩サミットでもその課題を引き継ぐよう、市民社会から要請がなされた。その頃からセクターを問わずNAPをめぐる議論が多くなされるようになり、日本政府も2016年11月、ジュネーブでの「ビジネスと人権フォーラム」の場で、「今後数年以内に」NAPを策定することを表明した。また、2016年12月には、政府の「持続可能な開発目標(SDGs)実施指針」に併せて策定された「持続可能な開発目標(SDGs)を達成するための具体的施策(付表)」において、NAPの策定が具体的な施策課題として掲げられた。この時期以降、日本でもNAPの策定プロセスに入ったといえる。
ビジネスと人権に関する国連ワーキンググループは、NAPの策定、実施、改定の各段階について提言する「ビジネスと人権に関する国別行動計画の指針」(以下「NAPガイダンス」)の最終版を2016年11月に出している。ここでその重要な部分をみておきたい。
NAPガイダンスは「国連のビジネスと人権に関する指導原則に適合するかたちで、企業による人権への負の影響から保護するために国家が策定する、常に進化する政策戦略」とNAPを定義している。各国の現実はさまざまだが、「指導原則」に則った内容で、かつ現実の変化に合わせて改定されていくべき政策文書であることが示されている。
NAPガイダンスはさらに、この定義に沿った次の4点を「不可欠の基準」としている。
①「指導原則」に基づく必要がある。
②国ごとの状況に応じたものである必要がある。
③参画可能性と透明性のあるプロセスで策定される必要がある。
④定期的に見直され、改定される必要がある。
3つ目の「参画可能性と透明性」はとりわけ重要な基準である。「参画可能性のある(inclusive)」は、企業による人権侵害に関係する多様な人びと(ステークホルダー)が、排除されることなく公平に包摂されるかたちで、NAP策定プロセスに参画することが確保されなければならないという趣旨である。NAPガイダンスの中では、人権侵害を受ける当事者、とりわけ社会的に脆弱な人びとの参画の重要性が繰り返し強調され、「関係するステークホルダーがどの程度NAPプロセスに参加するかがNAPの正当性と有効性を決めるものである」とされている。
NAPガイダンスはこうした原則のもとに、策定プロセスとNAPの内容について具体的な指針を示している。日本政府も、「指導原則」にコミットすることはもちろん、このNAPガイダンスに沿って策定を進めることを表明している。
(「指導原則」とNAPガイダンス)
日本政府がNAP策定の具体的な動きを見せはじめたのは、2018年3月から始まった「ビジネスと人権に関するベースラインスタディ意見交換会」からである。「ベースラインスタディ」とは、NAP策定の前提として、「企業活動における人権保護に関する我が国の法制度や取組についての現状を確認するため」(外務省ウェブサイト)のもので、その一環としての「意見交換会」であるとされている。
2018年3月から8月にかけて10回にわたり、日本経団連、連合、グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン、日弁連、ビジネスと人権NAP市民社会プラットフォームなど関係するステークホルダーと政府の各省庁が参加して「意見交換会」が開催された。そこでは政府(外務省)により次のような7つの「テーマ」が設定された。―「公共調達」「法の下の平等(障害者、LGBT、女性)」「労働(児童、外国人労働者(外国人技能実習生を含む))」「救済へのアクセス」「国際約束における人権の扱い」「サプライチェーン」「中小企業」。
議論の内容については外務省ウェブサイトに公開されている「議事概要」に譲らざるをえないが、この「議事概要」がNAPガイダンスの求める「透明性」のレベルに達しているかどうかは検証が必要だろう。また「テーマ」設定の妥当性も検証される必要があり、その検証がNAP策定の次の段階に生かされるべきである。
2016年11月に「今後数年以内に」策定するとされた日本のNAPは、なお策定の途上にある。しかし、重要なのは策定の時期よりも、プロセスと内容の質である。内容の質は、いうまでもなく策定プロセスの質に左右される。
2018年11月、ビジネスと人権NAP市民社会プラットフォームから「ビジネスと人権に関する国別行動計画(NAP)策定への市民社会からの提言」が出され、同プラットフォームのウェブサイトで公開されている。そこでは、「人権への負の影響を受ける当事者は一人ひとりの市民であることから、市民社会はその声を反映させる立場として、NAPの策定プロセスに参画する重要な役割を担っており、私たちもNAPの策定に重大な関心を持ってきました」として、これまでのNAP策定プロセスが、NAPガイダンスに沿って十分な「参画可能性と透明性」を確保していたか、などを問い直している。同時に、「あらゆる人々がビジネスによる人権侵害から保護されなければならない、という目指すべき共通の課題を政府と共に見据え」るとしながら、今後の策定プロセスに具体的な提言を行っている。また、上記「意見交換会」で取り上げられなかったテーマについても、市民社会としての認識を提示している。
国の政策文書はひとたび策定されると、その内容如何に関わらず少なくない影響を社会に及ぼす。「指導原則」が出されて以降、影響が広がってきた「ビジネスと人権」の流れの先に、その本来の目的である市民一人ひとりの人権が守られる社会の構築に向けて、日本のNAPが有効に機能するかどうか、それは今後の策定プロセスの成否にかかっている。
(本稿は2018年12月13日時点のものです。)