肌で感じた世界(アフリカ)
ふとしたきっかけから青年海外協力隊に応募し、ケニアで活動をすることとなった。応募時は他地域での活動を希望していたので、面接で「ケニアで犯罪をおかした青少年を支援する活動があるけれど、行く気はありますか」と尋ねられた時には、即答しかねた。ケニアがアフリカ大陸のどこに位置するかも知らなかったし、自分にそのような活動が務まるのか自信が無かった。
帰宅後にその募集内容を確認すると「複雑な家庭環境の子どもの支援に熱意のある人」という記述があった。たしかに、私は大学生の頃から10年以上、外国にルーツをもつ子どもたちの支援に関わり、様々な家庭環境で育つ子どもと出会ってきた。何が出来るかはわからないけれど、行ってみたい、と思った。
約1か月後、合格通知を受け取り派遣先が知らされた。キスム郡の保護観察事務所だ。キスムで一体どんなやんちゃな若者たちと出会えるのか、不安と期待に胸を膨らませつつ、70日間の派遣前研修でスワヒリ語を詰め込み、2017年1月、ケニアへと旅立った。
2019年1月に帰国した今、この2年間、本当に貴重な経験をさせてもらったと感じている。
ここで簡単にケニアの紹介をしたい。正式名称はケニア共和国で、1963年にイギリスから独立した。アフリカ大陸の東側中央辺りに赤道をまたぐように位置し、国土の東端がインド洋に面している。日本の約1.5倍の国土に、約5千万人、40以上の民族が暮らしており、宗教はキリスト教が約7割、イスラム教が約1割といわれている。英語が公用語、スワヒリ語が国語とされており、各民族の言葉も日常的に使われている。
私が暮らしたキスムは、首都ナイロビからバスで西へ約7時間で、ケニア第3の街である。ビクトリア湖を介した交通の要衝として発展し、植民地時代には鉄道も敷かれた。この地域の多数派はルオ民族だが、仕事のために来た様々な民族の人や、鉄道敷設をきっかけに来たというアラブ系民族、インド系住民も暮らしている。
街の中心部にはスーパーマーケットや商店が立ち並び、長距離バス発着場の周辺には野菜市場、魚市場があり、とても活気がある。大統領が泊まるような高級ホテルがある一方、貧困層が多く暮らすスラムが市街地を取り囲んでいる。貧富の差の大きさを感じた。
私は市街地から徒歩10分程度の住宅地に部屋を借りていた。夕方、家の周りを散歩していると、モスクからの礼拝時間を告げる声と、教会からの聖歌隊の歌声が響きあい、別の日にはヒンドゥー寺院からインド音楽が聞こえてきた。ダイナミックに異文化が共存するさまに感銘を受けた。
キスムでは、英語、スワヒリ語とそれぞれの民族語が日常的に使われており、市場などではルオ語が飛び交っている。同僚たちは、民族語、スワヒリ語、英語の3言語を場面によって自在に切り替えたり、時にはごちゃ混ぜにしながら話していた。中には複数の民族語を話せる人もいた。日本で生まれ育ち、日本語だけで生活を送ってきた私は、同僚たちの言語能力の高さを尊敬した。
ケニアの公教育では、小学校(8年制)はスワヒリ語で、次のセカンダリースクール(4年制)では英語で授業が行われる。配属先のクライアント(保護観察を受けている人たち)は、最終学歴が小学校卒業か中退で、日常生活ではルオ語を使っている人が多い。そのため、自分の気持ちや込み入った説明をするにはルオ語が最も話しやすく、スワヒリ語での日常会話も出来るが、英語での会話は難しいという場合が多かった。
私は、同僚とは主に英語で、クライアントとは覚えたてのたどたどしいスワヒリ語で、コミュニケーションを図った。同僚たちは、英語をゆっくりとしか話せない私に耳を傾け、スワヒリ語の表現やルオ語のあいさつを教えてくれた。私がスワヒリ語であいさつをすると「完璧ね!」と褒めてくれた。
2年の間には、活動がうまくいかず無力感に陥ったり、体調不良が続くなど、つらい時もあったが、どんな時も明るくおおらかに私を受け入れてくれた同僚たちとキスムの人々に、とても感謝している。
保護観察とは、刑事事件で有罪判決を受けた人が、定められた期間、地域での生活を続けながら定期的に保護観察事務所へ来て、保護観察官のモニタリングを受けるという制度である。
ケニアの保護観察官の主な業務は、裁判官からの指示を受けて、被告人を保護観察にすることが妥当かどうかを調査し、レポートを書くことである。保護観察処分を受けた人へのカウンセリングや就学・就労支援も担っている。しかし、あまり熱心に取り組まれているとは言えない状況であった。
私の配属先であるウィナム保護観察事務所は、広大な青空市場に隣接する簡易裁判所の敷地内にあり、扱う主な犯罪は、窃盗、暴行、大麻所持、未成年者への性行為などであった。
私はこの事務所が受け入れる初めての青年海外協力隊員であり、赴任当時はキスムに知人もおらず、生活も活動も、手探りでのスタートであった。
最初の数か月間は同僚に付いて裁判所や刑務所、被告人の家族へのインタビューのための家庭訪問などに同行させてもらった。裁判所で、裁判官は英語を使い、事務官が被告人等の希望に合わせてスワヒリ語またはルオ語への通訳をする。ケニアでは一夫多妻が認められており、多様な家族形態がある。様々な犯罪に土地相続の問題がからんでいる。民族の慣習法と国の刑法が衝突するケースもある。たとえば、婚姻年齢について、慣習法では15歳の結婚が可能だが、刑法では18歳未満の性行為は違法とされる。裁判は関係者の遅刻により予定通り始まらず、開廷までに1~2時間待たされることがめずらしくない。めまいのするような異文化体験の連続だった。
裁判所、警察、児童局など保護観察事務所と協働する各機関が
一堂に会するケース委員会の委員たちと。前列右から5人目が筆者。
少しずつ現地の生活に慣れてきた赴任後5か月ごろから、16歳~30歳の青少年クライアントを対象とした個別カウンセリングを始め、同僚や大学生インターンと協力しながら、青少年クライアントのグループ活動へと進めていった。ウィナム保護観察事務所のクライアントの約8割が男性であり、青少年では特に男性の割合が高かった。カウンセリングの対象者やグループ活動参加者は全員男性であった。
グループ活動では月1回ミーティングを開き、お互いを知りあうワークをしたり、ゲストを招いて話を聞いたりした。グループのメンバー約10名はそれぞれ異なる背景を持ち、学歴も小学校中退から専門学校卒業まで様々であった。想像していたイメージと違って素朴な感じの人が多く、ミーティングで積極的に発言したり、道で会うと向こうから挨拶をしてくれたりした。
私は、犯罪の背景のひとつに、手に職が無く、将来への見通しが無いことがあると考え、グループのミーティングで、どのような仕事をしたいと思うかを話し合ったり、キスム郡青少年局の職員を招いて給付金付き職業訓練や若者向けローンの紹介をしてもらったりした。
帰国までの間に職業訓練コースの受講に至ったクライアントはいなかったが、自分たちのような低学歴の若者を対象とした公的支援があることを知り、今の生活とは別の道があるということを考え始めるきっかけは作れたと考えている。これまで様々な場面で失敗を重ね、自信を失っていたグループ活動のメンバーが「僕も申し込めるの?」と目を輝かせていたのが印象的だった。
赴任当初は、文化や社会の状況が大きく異なるケニアでは、私の日本での経験が活かせないのではないかと感じていた。しかし、活動を続ける中で、青少年に必要なものはケニアも日本も変わらないと思うようになった。安心してありのままの自分を出せる場所があること、良い時も悪い時も見守ってくれる大人の存在などである。そういったものがあればこそ、人は自分の力を発揮し、また周りの人を頼ることも出来るのだと思う。
関わった若者たちの、ケニアの太陽のような明るい笑顔を胸に、これからも子どもや若者たちに関わっていきたいと思っている。