特集 マイノリティと言語
Haisai gusuuyoo, chaa ganjuu yamiseega?
(みなさん こんにちは。お元気ですか?)
‘uu shinshii. Chaa ganjuu yaibiin doo.
(はい、先生。 とても元気です。)
Naa, nama kara Uchinaaguchi nu shimii mun naree hajimiti ichabira yaa.
(それではウチナーグチの勉強を始めましょう。)
Vamos a estudiar Uchinaaguchi!!
(オー!)
教室には20人ほどが集まっていて、年齢・Uchinaaguchi(沖縄のことば)の学習歴の有無、Uchinaaguchiを学ぶ動機も様々だ。受講者はみな勤勉で、私が休講のお知らせをすると“Koji-san, no puedes venir un ratito no mas?”(こうじさん、ほんの少しでもいいから来れたりしない?)と聞いてくる。冒頭の会話は、ペルーのリマにあるAsociacion Okinawense del Peru(ペルー沖縄県人会・通称AOPアオペ)の会議室における“El taller de Uchinaaguchi”(Uchinaaguchi講座)の授業での一コマだ。
Uchinaaguchi講座の初回の様子。右端が筆者。
私は大阪大学の人間科学研究科に所属しているが、大学の副専攻として多文化共生を考えるプログラムを履修している。その授業科目の一環として、ペルー沖縄県人会にて半年ほどインターンシップをしていた。そこでは、私の母と同じくペルーで生まれ育ったうちなーんちゅ(沖縄人)が集い、ルーツである沖縄の文化(唐手や三線はもちろんのこと、琉球舞踊に励む団体もある)に親しむ社交の場・教育の場として機能していた。そこで私はUchinaaguchiを教えることを中心に活動した。
ペルーにおける沖縄からの移民は1906年に始まった。現在のペルーの日系人の70パーセントが沖縄人であるといわれている。農業契約移民に始まり、都市への移住を果たし、独自の金融システムを利用しビジネスの拡大を成功させていった。そうしたプレゼンスの拡大に伴って当時のペルー政府と富裕層は危機感を持ち、日系人に対する土地や財産の強制接収を行った。また、排外的な国民感情の高まりから、1943年にはペルー民間人による日系人商店などに対するsaqueo(サケオ)と呼ばれる、強奪も広く行われた。第二次世界大戦前も戦争後も、親米国家であったペルーは日系人を米国経由で強制送還していた。そこから免れるためには、「我々はもうペルーにおける市民です。子どもたちもスペイン語しか話せません」というふうに抗弁するしかなかったという。それからペルー国内での内戦と呼べるようなテロと暴力の時代が到来し、労働力不足を補おうとした日本と政情不安定なペルーとが呼応し、90年代初頭に多くの3世が日本へ「デカセギ」のために渡った。そうした3世や4世の中には沖縄や日本における生活経験があるため、日本語を理解する者も少なくないが、自らのルーツの言葉であるUchinaaguchiを知らないことに寂しさを感じている人も多く存在している。
私のルーツでもあるペルーのうちなーんちゅとの関わりを通して、私はある強い既視感を感じていた。それは大阪のうちなーんちゅが経験してきた差別経験との共通性である。前述のプログラムの授業科目として大阪市大正区にある関西沖縄文庫でインターンシップを経験した。その活動を通して、多くのうちなーんちゅと繋がる機会を得て、大阪という移民先の地でうちなーんちゅが何を感じ、どのように生活してきたのか話を聞いてきた。
1910年代に大阪で紡績や港湾関連の仕事があるということで渡ってきた一世のうちなーんちゅは「朝鮮人・琉球人お断り」として職業差別と住居差別を受ける。その中で仕事にありつけた者は言葉の違いで差別を受けないために無口になり、大好きな沖縄の芸能も隠れて楽しまなければならなかった。そのため、押し入れに籠って三線を練習する者もいた。沖縄の苗字で差別を受けることを避けるために読み方を変え、更には漢字自体を変えなければならないうちなーんちゅも多かったという。子どもたちである二世が経験したこととしては、学校で「沖縄人って豚喰うんやろ?汚いなー!」と囃し立てられ、家に帰る道すがら雨が降るとそこら中が水溜りだらけになる土地に住まないといけないことに疑問を感じ続ける。成人後も顔立ちから「もしかして沖縄の方ですか?」と言われ続け嫌気が差し、沖縄の親族を訪ねると「大阪の言葉を話す」ため「ヤマトゥンチュだ」と言われてしまう。三世の時代にはいわゆる「沖縄ブーム」という文化消費が始まり、表立って差別的発言をする人は減った(ように見えた)。
もちろん、大阪のうちなーんちゅもUchinaaguchiを学ぶことはできないままに今日まで至っている。それは、大阪(ヤマト)におけるロジックの中で沖縄の言葉は日本語の一方言であると位置付けられているため、沖縄的な正しさであるUchinaaguchiが存在する場所は著しく制限されてきたからである。
それでは、「正しい日本語」の圧力が吹き荒れる日本から視点を沖縄に移してみよう。沖縄ではどこに行ってもUchinaaguchiがsaaranai話されているか?答えはAran,つまりNOである。1879年の琉球併合以降の沖縄では「立派な日本人」に同化することが急務であったため、学校教育に「方言札」という制度を導入した。方言札とは、公的な場で沖縄の言葉を発した者に対して首から札を下げさせ、懲罰を与えることで恥の概念と沖縄の言葉に対する負のイメージを植えつけ言語使用をやめさせようとする徹底したシステムだった。戦前は皇民化教育のもと、戦後は「本土に出稼ぎに行く際に差別を受けないように」、「綺麗な日本語」を強制し続けた。
そうした同化圧力の下、Uchinaaguchiの話者は減少し、ついに2006年にはUNESCOによる「消滅の危機に瀕する言語」に属すると指定された。
こうした度重なる抑圧を受けながらも、うちなーんちゅディアスポラ(世界中に住む、ルーツを沖縄に持つ人々)は、あるumui(想い)を共有している。それは《「島人ぬ宝」的言語観》である。そう、それはBEGINが2004年にリリースした沖縄のポップスの「島人ぬ宝」という楽曲に由来する。自らのルーツを大事に思うchimugukuru(心)、次の世代に伝えたいという強いumuiは持っていても具体的に何をどのようにすれば良いのかわからないやるせなさ、それでも故郷を懐かしみ、washiti washiraran(決して忘れることができない)と感じている。こういった感情が見事に表現されている本楽曲は沖縄だけのヒットにとどまらず、うちなーんちゅディアスポラにおいても広く歌われている。
国家を持たない我々の言語は立場が弱く、未だに正書法も定まっていないため、継承活動は非常に難航している。また、公的な場での発話が制限されてきたため、現在の言語復興はあくまでも個々人の趣味レベルでの使用しか想定・許容されていない。沖縄県内での公教育では語学としてのUchinaaguchiの導入がなされておらず、多くの場合、地元住民(各しまくとぅばネイティブ)の好意と強いumuiによってのみ支えられており、その善意がクラブ活動の一環として、無償で利用されている。
そのため、いま沖縄の子どもたちに将来の夢を尋ねると「英語の先生」という答えはあれど「Uchinaaguchiの先生」という答えは決して返って来ない。初めから沖縄の言葉が生きる可能性や選択肢が用意されていないのである。
過去に日本語がもたらした「正しさの暴力」とその傷痕を直視し、清算をする段階に来ているのではないだろうか?もう2019年やで!(琉球併合から140年!)
ということで、ここで琉歌をひとつ…
(8886のリズムに乗せた沖縄の詩)
Washita nmarijima(私の生まれ故郷である)
Uchinaa nu futuba(沖縄の言葉)
Kukuru uchi-awachi(互いに協力し)
Mamuti turasa(守っていこう)
いや、もうひとつ!
Danke njanten(どこへ行こうとも)
Washiti washiraran(決して忘れられない)
Ichigu ichi madin(いついつまでも)
Majun katara(共に話そう)
Deejina nifee yawitan doo ‘waii;)(Thank you for your time to read them all.)