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国際人権ひろば No.148(2019年11月発行号)

人権の潮流

いかなる妥協も容認できない ~英国と付き添いのない子ども難民の歴史的権利~

Dr.ティナ・オットマン
同志社大学准教授

 英国のEUからの離脱交渉に議会の支持を得ることができず、2019年5月24日の金曜日に、英国のテリーザ・メイ首相は首相官邸前に進み出て辞任の演説を行った。その演説で、政治的妥協の重要性を彼女に奨励した人として、選挙区での「ナチ占領下のチェコスロヴァキアから避難の手はずを整えて何百人もの子どもの命を救った偉大な人道主義者であるサー・ニコラス・ウィントン」の助言を持ち出した。ウィントンは「英国のシンドラー」の愛称で、669人の子ども達を救出したとしてたたえられている。彼の行動はキンダートランスポート活動(1938-1939)の一環であった。その活動によってドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキアから約1万人の、主としてユダヤ人の子ども難民を英国が受け入れた。「妥協というのは軽蔑すべき言葉ではないことを決して忘れないように。人生は妥協によるものだ」と、ウィントンが語ったと述べている。だが、この言葉でウィントンが意図したものとメイ首相の理解は、もしかすると異なっているのではないか。

 

 ニコラス・ウィントンに言及した首相の戦略は、人々の苦しみに耳を貸さない、としばしば首相を非難してきたマスコミの反感を買った。ウィントンの娘であるバーバラは父の名前が使用されたことに対して、とりわけ声高に叫んだ。「メイ首相は父の言葉を引用したかもしれないが、父の志を継いでいない」(2019年5月24日付けTimes紙)と題された記事で、バーバラは英国政府と特にメイ首相を批判した。首相が内務大臣の任期中(2010-2016)、(主にシリアからの)保護者の付き添いのない子ども難民に大規模な避難所を提供することなく、移民に対して非常に敵対的な立場を取っていたからだ。バーバラが訪れたフランスのカレーやダンケルクの不潔なキャンプでは、多くの子ども達がたえがたい状況で暮らしている。

 

 バーバラはダブズ計画(労働党の上院議員のアルフ・ダブズ卿が先頭に立って2016年5月に成立した法律で、彼自身がかつてキンダートランスポートの難民であった)に暗に触れて、この計画では少なくとも3千人の子ども難民に英国での定住許可が与えられることになっていたことを気付かせた。しかし、メイ政権はたった480人の受け入れを上限とする決定を下した。政府が約束を守らず、この減少した人数は「世界的に再定住の必要のある子ども達のほんのわずかであり、UNHCRが英国に示唆した負担割り当てよりもはるかに少ない」ことを、バーバラは強調した。

 ダブズ卿自身はもっと率直にテリーザ・メイを非難した。ツイッターでは、「フランス、イタリア、ギリシアからもっと付き添いのない子ども難民を受け入れて、ニッキー(ニコラスの愛称)の名声に敬意を表するよう」に、促している。英国は国連子どもの権利条約の加盟国で、このような保護を提供できる立場にいるが、呼びかけには耳を貸さない。

個人的な関わり

 付き添いのない子ども難民の状況と故意に彼らの人権に対して目をつぶることは、非常に個人的に私の心に響いてくる。私自身がキンダートランスポートで移送された子ども難民の娘だからだ。最初のキンダートランスポート・プロジェクトに関わった多くの団体や個人の努力がなければ、私や弟のサイモン、そしていとこ達も今日ここに存在していない。キンダートランスポート・プロジェクトには「子ども難民の運動」に従事したユダヤ人の複数の救出団体だけではなく、クウェーカー教徒や様々な宗派のクリスチャンが関わっている。1938年11月に「水晶の夜」の暴動が起こり、ドイツ全土でユダヤ人の住居、店舗、シナゴーグが徹底的に破壊され、略奪され、放火された。この事件の後、私の父のハーヴェイ(ヘルマン)・オットマン、兄のソリーとジャック(ヤコブ)、それに弟のモーリス、全てがキンダートランスポートで脱出した。オットマン家の男子は英国で複数の受け入れ家庭に割り当てられ、戦争が終わるまで宿泊させてもらった。戦争終結後、ついに一家は赤十字の助けで再会した。しかし、90%の子ども達は、はるかに不運で自分の家族と再会できなかった。

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グラッドベック(ドイツ)の
オットマン家とカウフマン家前の家族写真
(ここにいる多くがホロコーストで亡くなった)

 

 一方、私の祖母のエスターは叔母と共に徒歩でドイツ国境を超えオランダに逃げた。二人は戦争中、アンネ・フランクのようにオランダのクリスチャンの家庭に隠れていた。そして、息子達と夫(私の祖父)のソロモンと再会することが出来た。祖父も単独で英国に脱出した。英国では直ちに、「敵性外国人」として他のユダヤ人、ユダヤ人ではないドイツ人、オーストリア人、イタリア人と共にマン島の強制収容所にしばらくのあいだ抑留された。これは真珠湾攻撃の後で、日系アメリカ人や日系カナダ人が強制収容所に抑留されたのと同じようなものである。私の一族の多くは、はるかに運に恵まれず、ホロコーストで跡形もなく消えた。

 2019年9月に、父の故郷であるドイツのグラッドベックの市民が、現存している父の実家の外側に、オットマン一家の名前を刻んだ「つまずきの石」を設置して一家を追悼してくれた。その家には2家族が住んでいたが、もう一方の親戚のカウフマン一家の多くは、ヒットラーの「最終的解決」で絶滅した。カウフマン家もしばらくしてから、同様に「つまずきの石」の式典で記憶される。

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2019年9月、ドイツの市民が主にオットマン家を追悼し
記憶するため「つまずきの石」を設置(cKaufmann/Roth)

記憶することは非常に重要だ

 記憶することは、もちろん、非常に重要だ。しかし、即行動することは、はるかに重要だ。主にユダヤ人の子ども難民の救出に多くの危険を冒し、協力した人々は人間性の最善の側面を表しているが、私は英国政府の行動(及び弱い立場の難民のビザをかつて拒否し、今も拒否し続ける多くの政府の行動)に対して多くの疑問がある。キンダートランスポートでの移送は、どうして子どもだけを受け入れたのか?他の大人、両親、祖父母の生きる可能性は、一体どうして拒否されたのか?もちろん、子ども達は異文化に溶け込みやすいと信じられていた。しかし、生きる権利と生き残りたいという願望に年齢制限はない。1万人の子ども達は助かったが、600万人の命は失われた。

 

 過去からの驚きは止むことがない。2018年12月21日に、私はロンドンにある「世界ユダヤ人救済」と名のる団体のレベッカ・シンガーという人物から奇妙なメールを受け取った。その組織は「キンダートランスポートの生存者に関連のある画期的な協定」に関する「英国系ユダヤ人の国際人道主義エージェンシー」とうたっている。メールには、「ドイツ政府はキンダートランスポートで英国に来た子ども難民への補償金の支払いに同意しました。資格のある人は2,500ユーロ(約30万円)の支払いを一回限り受け取れます」と、あった。私にはこの情報を生存している子どもに回して補償金の申し込みを促すように、とのことであった。「私達はこの通知を歓迎しますが、キンダートランスポートの子ども達や家族が耐え抜いた筆舌に尽くし難い経験に対しては、どのような金額でも補償できないことを承知しております」と、シンガーは結んでいる。彼女の言うことは、まさに、その通りだ。私は、驚きで動転した。なぜ、今になって?なぜ、こんなに遅れて?もしもキンダートランスポートの子どもが移送時に赤ん坊だったとしても、その子は今80歳になっている。私の父や父の兄弟のように、多くの子ども達は死亡してしまっている。どうして、妙な、形ばかりの金額がくるのか?

 

 キンダートランスポートの語りは「救出物語」になった。しかしそれは真実に対する不完全な説明だ。子ども達の多くは、最初に移行期間の施設に収容されたが、家族を失くしたショックに加えて、施設のひどい状態に深く苦しんだ。受け入れ家庭への引取りの選択手続きで屈辱的な目にあい、明白な人種差別と隠れた人種差別、文化的無神経、キリスト教への改宗の試みなどにさらされた。中には精神的、肉体的、そして性的にも虐待を受けた子どももいる。受け入れ家庭の一部は無料の家事労働の召使や農業労働者を受け入れたと考えた。都市の子ども達の多くは大空襲の間に、英国人の子ども達と共に不慣れな田舎に疎開して、二重の精神的混乱を受けた。何よりもまず、子ども達は彼らの文化と言語のあらゆる痕跡を忘れるように、と告げられた。私の父は自分の本来のアイデンティティと文化的遺産のあらゆる微量なものを忘れ否定するために、どのように「呼吸をし、夢を見、話すことを、英語のみで行う」か、の指示を受けた思い出を語る。私はこの救出物語の語りを問い直し、世界各地の子ども難民のために真実から学んだ教訓を前進させる時が来た、と信じている。

(翻訳 富岡 美知子)