肌で感じたアジア・太平洋
「高校生になったらネパールに留学にくる?」と質問されて、9歳のRは「うん!」と即答した。Rはちょっとシャイなので、どう答えるかな?と思ったが、今回ネパールに来てよかったなあと思えた瞬間であった。
夏休みを利用し、私と息子2人(9歳のRと6歳のM)、そして私の母(76歳)の三世代4人での「里帰り」。私にとってほぼ10年ぶりのネパール、子どもたちにとっては初めてである。私は長年ネパールにかかわる仕事をしていたこともあり言葉の壁はなく、カトマンズも自分の庭のようなものだと思っていた。しかし10年のブランクに加えて、やんちゃ盛りの子ども2人と母を連れていくということで、出発前からかなりドキドキしていた。ネパールまでは直行便がなく(現在は関空から直行便がある)、乗り継ぎを含めて15時間以上かかる。さらに子連れで1泊以上の旅に行ったことがなかったので、子どもが迷子になったり、事故に遭ったりしたらどうしよう・・・等々不安でいっぱいだった。予想通り(?)現地では色々なトラブルに見舞われたが、久しぶりのネパールは懐かしく、新鮮で、なにより子どもたちにとっては初めての外国であり、ルーツと出会う貴重な旅となった。
今回の旅は、Rの念願だった。小学2年の頃に「ネパールに行ってみたい」と言い出し、担任の先生からも「Rくん、ネパールに行くの本当に楽しみにしていますよ」と何度も聞いていた。ネパール人の父親は仕事で不在がちのため、家での会話はすべて日本語であり、ネパールのお祭りを家で祝うこともなかった。私は自分の職場が在住外国人支援をしているので、アイデンティティを育むことが大切とは知りつつも、一度も子どもたちをネパールに連れて行っておらず、文化に触れる機会も少なく、子どもに対して少し申し訳ない気持ちを抱いていた。その内に、Rはネパール語の文字を自発的に練習するようになった。ノートにびっしりと書かれたネパール語を見て私はやっと決心し、初の「里帰り」が実現したのである。
ネパールに行く直前、Rは「ほっとした。『ネパール語話せるの?ネパール行ったことあるの?』って友達にしょっちゅう聞かれるけど、やっと『行ったことある!』って言える」、と漏らした。そして、今回の旅の目的は、とにかく子どもたち自身が楽しむことを第一にしようと思い、張り切ってスケジュールを組んでみた。野生動物と出会えるチトワン国立公園、カトマンズにある父親の実家訪問、山村訪問、など計画は盛りだくさんで、ドキドキワクワクの出発日を迎えた。
夜行便の乗り継ぎで全員ヨレヨレになりながらも、到着翌日からはネパール南部のチトワン国立公園に移動し、象やカヌーに乗ったりして楽しく観光ができた。ネパールはヒマラヤで有名だが、国の南部にはジャングルが茂り、象、サイ、トラなど野生動物が多く生息している。子どもにはたまらない訪問先かなと思ったが、私の思惑に反して二人とも夢中になったのは、ホテルのケーブルテレビで見られるインドのアニメだった。ヒンディー語は全くわからないはずなのに、二人ともゲラゲラ笑いながら飽きずに見ていた。しかも、数日経った時にはヒンディー語の単語が数個わかるようになっており、子どもの言語習得は早いなあと大層感心した。野生動物も刺激的だったようだが、子どもはアニメがかなりお気に召したようだった。
その後カトマンズに戻り、父親の実家では叔母や叔父、いとこたちなど、大勢の親族の大歓待に子どもたちはびっくり。最初は親族に「子どもはネパール語できないの?『ナマステ』だけしかできないだって?!英語もできないの?」と呆然とされた。ネパールでは3才から英語教育が始まるので、その驚きは無理もない。「ネパール語を教えなくちゃダメでしょ」と私が少々お叱りを受ける。しかしおとなたちの心配をよそに、Rは「現地で仲良くなった子と遊ぶねん」といって持ってきたけん玉で従兄たちと遊んだり、従兄のスマホで翻訳アプリを使ってコミュニケーションをとったり、オセロをして盛り上がっていた。子どもの柔軟性や社交性ってすごいなあと感心することしきりであった。
私の旧友には、日本語が話せる人たちもいる。特に子どもたちは、日本に留学経験があるGさんと仲良くなった。Gさんは弁護士のオジサンだが、自宅で家族との食事に招いてくれたり、一緒に出掛けて子どもたちと沢山話をし、仲良くしてくれた。子どもたちは日本語で話せる人と出会って安心できたらしい。「従兄弟も楽しいけど、Gさんはめちゃ楽しい。今日も一緒にごはんが食べたい」とリクエストされ、結局Gさんやご家族を連日呼び出すことになった。「ネパールに留学しにきたら?」とRに言ってくれたのもGさんだ。子どもたちにネパールの魅力を直接語ってくれたGさんには心から感謝である。
チトワン国立公園で象に乗って4人でジャングルサファリ。
左端が筆者。
道を歩いていた時に、Rが「わあ~電線畑や」と言うので何かと思ったら、電柱に垂れ下がる何十本、百本もあるかと思われる電線のことだった。ネパールは外国への移住労働が盛んになって外貨収入が増加し、地方から首都カトマンズに移住する人たちが増えている。10年前にはなかった道が出来ていたり、中流層が利用するショッピングセンターやマンションが増えていたり、街の外観の変化も著しい。
カトマンズ郊外の村で活動するダリット(被差別カースト)の女性グループにも挨拶をしに行った。以前よく通って、活動に学ばせてもらっていた地域だった。そこもコンクリート造りの家が増えていたり、人々の暮らしは向上しているのかな、と一瞬思わせられる光景だった。しかし現地で話を聞くと、この10年間でグループ活動はなくなり、さらにメンバーの内10人がすでに亡くなっていたことを知った。当時20代から年長者でも40代くらいの女性たちで構成された20名程度のグループだった。「病気になった人もいるけど、夫からの暴力や、本人が酒に浸ってしまって壊れていった女性もいる」と聞いて、辛かった。当時グループのリーダーをしていたAさんにも会えたので、暮らしの様子を聞くと「何も変わらないよ」と一言。Aさんは母子家庭で、小さなレンガ造りの家に娘と二人で暮らしている。2014年の大地震の時に自宅は壊れたが、幸い一命をとりとめた。変わっていく生活の様子と、その波には乗れない人たちとの間にある溝を感じた時間だった。
村の暮らしも子どもたちに知ってほしいと思って二人を連れて行ったのだが、未舗装の道を車に揺られて疲れ、ダウンしてしまっていた。また、日本語で話せないという状況にちょっとストレスを感じていたようで、結局Aさんなど村の女性たちとは会ってもらえなかったのが残念だった。もう少し成長して再訪した時には、ダリットのこと、格差のことについて一緒に考えたりできたらな、と思う。
今回の旅では、ここでは書ききれないハプニングも満載だった。私がバッグを空港で紛失したものの、警察の協力で帰国前日に無傷で戻ってきたり、Mが村で犬にかまれて救急病院に駆け込んだり、母も膀胱炎になって連日病院通いをした。そのため滞在中は、病院と警察で丸二日くらいは費やしたと思う。しかし、そこでも友人たちが時間を惜しまずサポートしてくれた。10年のご無沙汰で不義理をしていたにもかかわらず、現地の親族や友人たちはとても温かく私たちを迎えてくれ、ネパール人の懐の深さを改めて感じた旅だった。
今回の旅では、日本とは違う暮らしがあること、外国にも自分たちと繋がっている人たちがいることを子どもたちが知り、世界の広さ・多様さを肌で感じてくれていたらと願っている。
ネパール再訪の話になる度に、Rは「全部楽しかったし絶対また行くねん」と言う一方、Mは「犬が怖いから、ネパールはもういやや」と騒いでいつも喧嘩をしている。私は私で子どもたちと山歩きをしたいなあと目論んでいる。「次は3年後に来る」と親族や友人たちと約束したので、今から要調整!である。