アジア・太平洋の窓
2019年9月末、大学院で言語科学を専攻する私は修士論文の準備のため現地の視察を思い立ち、グアム先住民のアイデンティティについて学ぶツアーに加わり、常夏の現地へと向かった。総勢11名の小さなスタディツアーであった。
4時間弱のフライトを経てグアムに到着。空港は意外と簡素であった。社会情勢の影響からか日本からの観光客数が減少するなか、諸外国からの観光客は増加しているとのことで、空港では施設の整備工事が行われていた。到着時は夕刻のスコールに迎えられたが、その風景は南の楽園のイメージとは異なっていた。ホテルが林立する通り以外は、かつて訪れたアメリカの幾分寂れた田舎町のような様相を彷彿とさせ、若干拍子抜けした初日であった。
翌朝、時折小雨が降るなか、案内役のモネカさんとともにグアム北部に向けて出発。行き先はグアム国立野生生物保護区であり、その一部には実弾射撃演習場建設の予定がある米空軍基地の敷地が広がる。先住民であるチャモロ人にルーツを持つモネカさんは、土地を守る活動を行う市民団体の共同設立者のひとりであるが、彼女によると、保護区の原生林にはチャモロ人の住居跡と見られるものや、先祖が埋葬されている土地があるという。現地の人々にとってその地は「聖地」であるが、終戦後米軍により接収されており、演習場の建設による自然環境や周辺住民の生活への更なる影響が懸念されているとのこと。
途中、広大な海軍のコンピューター通信基地付近に立ち寄る。沖縄からの海兵隊の移転先でもあり、道路の拡張工事が粛々と進められている印象を受ける。地元の高校生が作成したという環境保護を訴えるプラカードをモネカさんが持参しており、周囲の反応を見るため彼女とともにそれを掲げると、たちまち往来の車から賛同のクラクションを浴び、人々の関心の高さを実感した。
次に米空軍基地の敷地横を通り、島の最北端にある野生生物保護区へと向かう。高台の展望ポイントから眺める原生林にはかつて多種多様な鳥類が生息していたが、戦時中に米空軍基地が設営された後、外来種の毒ヘビが貨物に紛れて上陸し、多くの固有種が絶滅したという。ネイチャーセンターでは再現された鳴き声が流れているが、実際の森林では全く聞こえず不気味なほどであった。また、米軍により接収された土地をかつて保有していたという人々が、その地に入って先祖の慰霊をすることもできないとの説明を聞き、一同やるせない気持ちになった。
遅い昼食をとるため現地のベトナム料理の店へ。素朴な店のしつらえに、東南アジアからの移民も多く住んでいることがうかがえる。午後は島南東部に足を延ばし、旧日本軍による強制収容所跡地へ。現地の人々が日本占領下で物資の不足や強制労働に苦しんだ挙句、収容所では食料も飲み水も与えられないままであった、との説明をモネカさんから聞き、日本軍の存在が大きな脅威であったことに心を痛めながら一日の見学を終えた。
鬱蒼と茂る保護区の原生林を歩く(筆者撮影)
翌日は雨も上がり、美しい快晴。まずはこの日の案内役であるグアム大学准教授のマイケルさんとともに、チャモロ人の人権擁護と文化復興に尽力した議員を記念する公園へ。ここでは彼らの古代文化を象徴するラッテストーンと呼ばれる1.5m程の石灰質の石柱群が展示されている。もともと彼らは文字を持っていなかった上に、スペインによる支配のため古代文化が途絶えたため、石の用途については不明であるが、高床式住居の土台との説が濃厚だとされる。その脇には旧日本軍の防空壕が展示の一部として残されているが、現存のものを目の当たりにし、実際にその地を訪ねることの大切さを痛感した。
さらに徒歩でスペイン広場へ。統治時代の総督邸の大半は大戦中に破壊され、現在は一部が残るのみである。また、カトリック信仰のよりどころである聖母マリア大聖堂がそびえるなど、かつてその一角が中心部であったことが感じられた。
グアムミュージアムでは、スペイン人の襲来まで続いた古代の素朴な暮らしに関する展示を見ながら、16~19世紀にかけてのスペインによる領有、19世紀末からのアメリカによる支配、1941年以降の日本による占領、1944年のアメリカによる奪還、と他国に翻弄された歴史や苦渋に満ちた当時の暮らしに思いを馳せた。
昼食は地元のチャモロ料理が楽しめる店へ。赤魚のような白身の魚をいただき、日本と同じく魚を食する文化があることに親近感を持つ。
午後は太平洋戦争記念館ビジターセンターへ。グアムをめぐる戦いに焦点を当てた展示に、自由を奪われた戦時中の人々の苦悩が感じられた。また戦没者慰霊公園では激戦地を眼下に見下ろす高台の刻銘碑を見学し、鍛冶屋を営んでいた祖父母の名前が刻まれていることをマイケルさんよりうかがう。穏やかな海を見ながら、平和を次世代に受け継いでいくため私たちは何をするべきなのか、マイケルさんを交え意見を交換し合った。
ホテルへの帰り道、街角での市民団体や学生による自然環境保護を訴える活動に私たちも加わる。子どもから大人まで、さまざまな世代が集まりプラカードを掲げると、行きかう車がクラクションで応え、人々が共感しあうような光景であった。
自然環境保護を訴える街角での活動風景(筆者撮影)
次の日は、絶滅危惧種の飼育放鳥を行っている米国農務省の水産・野生資源局を訪問。毒ヘビの繁殖により激減した鳥を近隣の島に放鳥し繁殖を試みるプロジェクトや、固有種を守るための教育活動が続けられており、自然環境を模した飼育ケージなどを見学した。
次に、チャモロの言語や文化にまつわる子ども向けの教育メディアを制作している非営利団体のニヒ・スタジオ注を訪問。創設者のカラさんは、「言葉を通じて我々の島や海や文化を慈しむ心を育み、またアイデンティティを大切にすることを伝えるために始めた」と語った。前日ミュージアム内のシアターで観た美しい紹介フィルムも、こちらのスタジオで監修されたと聞き、一同頷き合う一コマも。
昼食はドライバーのビリーさんの案内で、近くの中華料理の店へ。家庭的な一品ばかりで、現地に住む中国系の家族連れが集まっていたのが印象的だった。
午後はチャモロカルチャーセンターで見学と文化交流。センター副代表のラファエルさんの案内を受ける。このセンターは非営利団体により運営されており、伝統文化の復興・保護活動に力が注がれているとのこと。植民地化政策により途絶えた伝統的なカヌーの製作については、その手法が残る近隣の島で学び直しているという。
また、パンダナスの葉で籠や小物を作る手作り教室や、子どもたちへの歌やダンスの教室、地元アーティストの工芸アトリエがあり、地元固有の薬草を用いたヒーリングセラピーも行われている。古代の歴史を知る術がなく、自分たちの歴史は植民地時代以降のスペイン語による記述にある部分のみであるとの話や、固有の言語を学ぶことについても世代により意見が分かれている、と寂しげに漏らすラファエルさんの言葉が、今も耳に残っている。
夕刻にはスタッフの子どもたちによる歌や踊りを楽しみ、また彼らが自宅で用意したという手料理の数々に舌鼓を打ち、地元の人たちとの温かい交流のひとときを持つ。夜にはすっかり和やかな場となり、別れを惜しみつつセンターを後にした。
最終日の朝食後、浜辺を散策。早朝から金属探知機を手に浜辺を清掃している自治体職員に話を聞く。海の自然と訪れる人々の安全を守るため定期的に行っているという。町ぐるみで海や島の自然環境を守る姿勢がここにも表れているように感じた。
後ろ髪を引かれる思いで帰路に着く。駆け足だったが、消化しきれないほどの学びを抱えての帰国となった。あらゆる場面で人々の歴史や文化に対する熱い思いに触れ、人間が生来持つアイデンティティを追い求める深い探求心を実感するとともに、言語との密接な結びつきについて考えるきっかけを得た、非常に有意義な充実した5日間であった。
https://www.nihiguam.org/mission Nihi!(英語)