特集:日本と台湾の子どもの権利
1993年、国連子どもの権利委員会の初回審査では、一貫して委員会は法律や行政施策に力点をおくことよりも、子どもの現実的な問題解決の手段を重視した(注1。初回審査と比較し近年の審査は、行政措置や近代主義に歩み寄っている点が気になるが、子どもの権利条約自体はとてもラディカルだ。
子どもの実際の声が受け取られた上で(第12条)子どもの最善の利益が確保されなければならない(第3条)。審査後の総括所見は毎回、日本社会にも一定の影響を与えてきた。
たとえば、2010年総括所見は次のようだ。
「高度に競争的な学校環境が、就学年齢にある児童の間で、いじめ、精神障害、不登校、中途退学、自殺を助長している可能性があることを懸念する。」
ところが、社会科学の研究者にこの勧告について話すと思いがけない問いが飛んできた。
「『高度に競争的な学校環境』なんて、ほんとにそうかなぁ?」
教育をめぐる子どもや教員、保護者の現実は知られていないのだ。
現在の学校現場は多忙を極め、倒れていく子どもや教員も少なくない。全体の自死数が減る中、10代後半の子どもの自死数は増えている。構造的な雇用不安が進路不安に繋がり、学校でも家庭でも教育過剰が促進されている。
教員も「生徒指導」に追われている経済的に厳しい地域はとくに大変だ。大阪の教育行政現場からはこんな声も寄せられる。
「職場環境の悪さ、給与等の待遇の不十分さ、教師に対する保護者の不信の目などが複合的に重なり、本当に厳しい現状です。今時、誰が教師になりたいと思うでしょうか。」
現在の学校は、学力向上やいじめ問題、保護者対応という課題が複合的に重なっている。さらに、授業時間数を減らさず、道徳教育やプロミング教育や英語と、新カリキュラムがどんどん入ってくる。目的は、財界と一体化した国家が要請する「グローバル人材養成」である。
2007年には「特別支援教育」が学校教育法に位置づけられ、「全国学力・学習状況調査」も小中学校で実施されるようになった。大阪は全国に先駆け、共に学ぶ運動をリードしてきた歴史をもつが、近年は特別支援学校の増設もあり様変わりした。障害をもつ子どもは普通学級から排除され、自ら去っていった。
不登校関連も2016年に教育機会確保法が成立し、子どもを排除する学校が注目されるのではなく、「必ずしも学校に行く必要がない」という言説で状況が理解された。
「居場所」が社会的に認知されるとともに、不登校ビジネスとして教育産業が参入した。障害児教育ビジネスも。子どものケアは個別に手厚くという、市民も望む「個別最適化」の論理は、企業参入には絶好のチャンスだ。
ところで、冒頭に記したように子どもの権利の理論構成はラディカルだ。子どもの権利研究の重要な概念にマーサ・ミノウの「関係的権利論」がある。ミノウは言う。「形式的平等や自由という法的権利が導入され、各自が国家との関係を持ったとしても、それが現実の平等をもたらすことにはならない。」(注2
裁判所で調査官として実務を重ねていたミノウは、みかけの平等が現実の平等をもたらすことにはならないと述べ、権利は関係的なので、権力関係をうまく調整するために権利の再構成がはかられるべきとする。そのために、「子どもの声」が必要だというのだ。子どもの権利を考える上で、関係を通し、子どもの気持ちを中心に調整する関係的権利論がその核心にある。
しかし、日本では近代以前から流れる自己責任論をベースに、2000年代からは経済的な危機感から、人間関係よりも個別に力をつける論理が強化された。
1990年代、国連子どもの権利委員のバイスさんが訪日した時、彼女は日本がなぜ「学習権」に異常に関心があるかと問うた。関係的権利より、個人の学習権保障を重視する日本では、力をつける論理で権利保障をというメカニズムに、市民運動もまた引き寄せられてきたのである。
今後の問題に、政府が主導するSociety5.0をスローガンにした社会あげての総IT化がある。AIによる分析を学校の指導に生かそうという試みが、各地の教育委員会で始まっている。
大津市はいじめの事例を集めて、どんなケースが深刻化するかをAIで精査する。埼玉県は独自の学力調査や学校の定期試験の結果を解析し、生徒指導に役立てる。学力の将来予測をAIが行い、それを用いた指導により、子どもが心身を統治され追い込まれるこのシステムは、命の危険を伴うことまで「予測」され恐ろしい。紙幅の都合で本稿では、AIいじめ対応について記しておきたい。
「大津の子どもをいじめから守る委員」として、毎週いじめケースに関わった立場から言うと、いじめはAI的マニュアルでは対応できない。6年勤めた「川西市子どもの人権オンブズパーソン」でも、対応の「マニュアル化」は、ケースの個別性を見落とすと経験的に学び、チームで検討した上で避けた。(注3
いじめケースは多様な関係で動くので、徹底的に被害子どもを中心に、信頼関係を築きつつ解決するしかない。むしろそこにこそ、解決の希望がある。知人のICT研究者は「わざわざAIを使う必要はない。首長達がアピールに使っているね」と。人は人により傷つくが、人によってしか癒されない。
個別救済の仕事を担ってきて、個別の人権保障ではすまない大きな社会的な状況を分析し働きかける必要があると、私は強く思うようになった。
子どもの人生に大きく関わる自己責任(能力主義)という思考パターン。それを支える日本型教育システムと経済のつながりを知ろう。近年ますます公教育は資本の従属物の色合いを帯びている。
経済協力開発機構(OECD)は、PISAという世界学力テストの拡大をきっかけに、各国政府に多大な影響力をもつ。とりわけ日本はOECDと親しく、教育戦略を分け合ってきた。筆者も2度参加したOECDパリ本部での教育・雇用会議では「グローバル人材を養成する教育」がその目的とされ、そればかりでは、人々の感性が摩滅してゆくといった各国教育関係者の反論は聞き流されてきた。一方で、日本の教育政策は、道徳やプログラミング教育導入を着々と進め、OECDには優等生とされる。
文部科学省はさまざまな政策や制度の導入を学校現場に任す形をとることが多い。同時に、各自治体首長は教育委員会を用い、学校一斉の取組を求める傾向が著しい。宿題のページ数まで決めている教育委員会まである。ただ、子どもに影響のある各学校や市町村教委が、子どもの未来を想像し、教育政策の選択や反論を行うという可能性は本当はしっかりとある。
そのためには、私たち市民が子どもの現実を知り、過剰な産業生産や金融資本主義を背景にしたグローバル人材養成という状況が地球や社会を滅ぼしつつあると話題にして、公教育を子どものものにすることが重要になる。私たちは子どもをとりまく現実に関心を向け、子どもを通して「子どもの最善の利益」を受け取り、現状への批判知を共有することができるだろうか。
日本だけでなく世界は今、独裁的で、人種差別に満ちた戦闘モードの政治が拡大している。そこで立ち上がる事柄に全く無知であったり、諦めのまま眺めるのではなく、いったい今、日本で、世界で何が起こっているのかを知ることから、子どもに失礼のない未来に目を向けることができる。
注1:拙稿「子どもの権利条約の地平」岡村達雄・尾崎ムゲン編『学校という交差点』インパクト出版、1994年。
注2:Minow,M(1990)Making All the Difference, Cornell University Press:大江洋『関係的権利論』勁草書房、2004年。
注3:拙著『子どもの声を社会へ-子どもオンブズの挑戦』岩波新書、2012年。