人権の潮流
2012年から毎年、スイスのジュネーブで開かれてきた「国連ビジネスと人権フォーラム」は、2019年は第8回、11月25日から27日まで開かれた。筆者は、2016年の第5回からフォーラムに参加してきた。本稿では、この間にビジネスと人権に関する議論にはどのような進展があったのかふりかえってみることにする。
「ビジネスと人権フォーラム」は人権理事会のビジネスと人権作業部会が毎年開く催しである。このフォーラムは、2011年に人権理事会で承認された「ビジネスと人権に関する指導原則」の実施を進め、広く浸透させるために、現状分析と課題の共有を通じて、今後とるべき方策を議論する場とされている。企業、政府、市民社会組織、民間団体、労働組合団体、学会などの関係者が大勢世界各地からこのフォーラムに集まる。フォーラムは、「指導原則」の実施が世界でどのように進んでいるか、企業や政府がどう取り組んでいるか、人権侵害の発生と被害者の救済は有効にされているかなど、現状を知ることができる格好の機会である。
フォーラムは、さまざまな立場の参加者が、対等に議論し合う場であり、決議や合意につながるものではない。その点で、他の多くの国連の会議と異なる。
第8回フォーラムは、いくつかの全体会議の他、2018年と同じく約70の会合が3日間、同時並行して開かれた。参加人数は主催者の発表では約2500人とのこと、過去数年増え続けてきた参加者が、今回は昨年レベルでここで落ち着いたということかもしれない。企業関係者は全参加者の約3分の1、パネルディスカッションへの登壇や講演などはあったが、その存在は前年ほど目立たなかった。
第8回の主要テーマは、ビジネスと人権に関する指導原則(指導原則)の第1の柱である国家の人権保護義務に関わっており、「行動の時、ビジネスが人権を尊重するための触媒(カタリスト)としての政府」であった。そこには、政府がより一層ビジネスと人権への関わりを強め、行動することによってリーダーシップを発揮することに対する期待があった。
第5回のテーマが、「指導力と影響力、グルーバル経済を秩序づけるルールと諸々のアクターの関係に人権を根付かせる」、第6回のテーマが、指導原則の第3の柱である「有効な救済へのアクセス実現」。そして、第7回では指導原則の第2の柱である「企業の人権尊重責任」に関連して、「ビジネスの人権尊重-実績をふまえて」がテーマであった。この流れでこれまで、指導原則の「国家の人権保護義務、企業の人権尊重責任、有効な救済へのアクセス」という三つの柱がすべて取り上げられたことになる。
国のリーダーシップ
第8回フォーラムのテーマに関する会合では、国の人権保護義務が、企業の活動による人権侵害の被害者を守り有効な救済を行うことばかりではなく、企業活動による人権への負の影響を回避し、軽減するために政府が取るべき規制や仲裁、その他の対策など多岐にわたることが議論された。現状では、先進的なリーダーシップを発揮している政府とそうでない政府があり、国によって大きな差があるとされた。全体的に見れば、まだ政府による行動が十分ではない。政府の上層部の真剣なコミットメントが欠かせないと繰り返し語られた。
企業の人権尊重責任を促す政府の行動とリーダーシップに関わる議論の中で出てきたのが、企業の人権デューディリジェンスの取り組みなどを企業の自主的な取り組みだけではない、法的な規制も含めたスマートミックスというものである。これは、自主的なものと法的規制を課するもの、国内的なものと国際的なものを臨機応変に組み合わせていくということである。その背景にはEU諸国などで進む人権デューディリジェンスの法規制化の動きがあり、さらに、いまだに期待したほど進んでいない企業の人権デューディリジェンスへの取り組みの現状がある。この点に関して、ある企業の代表が、これからは、企業は二つのカテゴリーに分かれる。一つは企業として本気で人権尊重責任を果たそうとするもの、そしてもう一つは無関心で押し通そうとするものであると発言したのが印象的であった。
国別行動計画
国の人権保護義務と企業の人権尊重責任を推進するために、これまでビジネスと人権の作業部会が各国政府に求めてきたのが 国別行動計画(NAP)の策定である。第8回フォーラムではアジアで初めてNAPを策定したタイが注目された。日本政府の発言では、NAP草案を確定する予定と草案に盛り込まれる内容が簡単に述べられた。
すでにNAPを持つ国の経験、中でも政策の一貫性を確保するためには政府内部での調整協力のための体制づくりが大切であることなどが語られた。また、ケニア、パキスタン、インド、インドネシア、アルゼンチンなどの政府代表からは自国の国別行動計画(NAP)の策定状況について、策定過程にある、あるいはこれから策定するといった現状説明もあった。
第8回フォーラムの会合の様子
-数人の登壇者の発言の後、参加者との質疑応答や議論の応酬がある。
これまでのフォーラムで常に取り上げられてきた課題がある。
先住民や人権保護活動団体の代表は、政府や企業によって殺人を含む、さまざまな人権侵害に直面している現状を訴えた。世界のあちらこちらで、深刻な状況に大変多くの人々が苦しみ続けている現場がある。企業の法的責任や救済の強化をめぐる議論がなされてきた。
ビジネスと人権に関してジェンダーの視点を強化する必要性の議論もあった。第8回フォーラムでは作業部会が作った「Gender Dimensions of the Guiding Principles on Business and Human Rights(ビジネスと人権に関する指導原則のジェンダー局面)」と題する冊子が紹介された。
また、職場でのジェンダーにまつわる暴力とハラスメントに関して、2019年6月に採択されたILO 190条約が注目された。この条約が画期的なことは、その対象とする人の範囲の広さと場所が厳密に職場に限られないところである。
ビジネスと人権がSDGs(持続可能な開発目標)と密接な関わりは、これまで同じように強調されてきた。SDGsを決めた2015年9月の国連総会決議「持続的開発のための2030年アジェンダ」は人権を基盤として開発目標を提示しており、ビジネスからの貢献と協力を求めている。
多国籍企業の人権尊重責任を法的義務とするための条約起草については、条約起草作業部会からこれまでの議論の進展状況が説明されてきた。第8回フォーラムでは企業活動が問題とされたときの管轄権をどの国が行使するかなど法的な議論が紹介された。エクアドルや南アフリカなどの主導で始まった条約起草のための作業部会には、多国籍企業と先進諸国は積極的な関与を控えている現状がある。
二国間開発協力における資金提供及び直接投資の課題に関して、第8回フォーラムでは、オランダの開発協力銀行の事例や国際金融公社(IFC)パーフォーマンス・スタンダード、さらにESG投資などが語られ、今後さらに、ビジネスと人権に強い影響を持つとされた。
ICTやインターネットに関連する企業による個人情報の取り扱いで人権に負の影響を与えるものに関する対策は、これまで継続的に議論されてきた。法規制を設けて適切な人権保護ができるかという疑問や、引き起こされた侵害を取り除き、損害に対する補償の難しさも語られた。そのほかAI(人工知能)が企業活動に新たな利益をもたらす可能性や課題、誰がAIをコントロールするか、などが議論された。
これまでのフォーラムをたどってみると、指導原則の理解は確実に広がっていることがわかる。指導原則の中の主要なポイントである、「国家の人権保護義務、企業の人権尊重責任そして有効な救済へのアクセス」という枠組み、バリューチェーン全体にわたる企業の人権尊重責任のあり方、人権デューディリジェンス、救済へのアクセスなどは、すでに多くの説明を必要としない。問題はその先である。
指導原則の実施を進め、広く浸透させるということになると、課題が多いのが現状である。2018年の国連総会に提出されたビジネスと人権作業部会の報告書(A/73/163)では、意識の向上や企業方針の宣言にもかかわらず、指導原則に沿って事業活動、経営をする企業が少数にとどまっているという。国の人権保護義務に関しても、指導原則が求めるものと現実のギャップは大きいと述べられている。国際人権基準に沿った立法ができていない、政策面でも、デューディリジェンスや情報開示を義務化する立法はあっても、部分的でまたごく少数にとどまっている。政府の政策実施の一貫性の欠如が大勢を占めていると結論づける。
フォーラムでの企業代表のモデル事例や各国政府代表のNAP策定と実施の紹介ばかりに接していては実態を知ることはできない。指導原則が目指すのは、企業の活動で人権が侵害され、あるいは侵害される危険にさらされる人、企業で働く人、企業活動の影響を受ける地域社会がまもられることである。指導原則に関する知識と、求められていることの認識ばかりではなく、本気のコミットメントと行動がなければ成果は期待できない。
終わりにコミットメントに関して一言。ビジネスと人権に関して様々な提案をしているShift(シフト)という団体は2019年に「尊ぶことを大切に(Valuing Respec t)プロジェクト」注を立ち上げた。企業の経営者・幹部のためにリーダーシップとガバナンスのコミットメント指標を提案している。指標は1. 真剣なコミットメント、2. 明確な責任の所在と責任の取り方、3. 尊重と共感、4. 企業組織として成功と失敗から学ぶこと、の4つの分野にわたる。これはほんの一例で、企業と政府の関わり強化のためにとって役に立つ提案は次々となされてきており、フォーラムは、これらを知ることができる場でもある。
(本稿は、2020年1月、ヒューライツ大阪ウェブサイトのニュース・イン・ブリーフに掲載された記事に加筆したものである。)
注:https://www.shiftproject.org/valuing-respect/