特集:アセアンの移住労働者の権利保障の取り組み
東南アジア出身の移住労働者は現在約2,130万人おり、そのうち680万人は域内で移動している。1997~1998年のアジア通貨危機以降、家計を改善するための家族の現実的戦略として労働移住が注目されている。しかし、低賃金の移住労働者にとって、移住のプロセスにおいて労働の権利や人権の制約に直面する場合がしばしば存在する。出国前には非倫理的な慣行や高すぎる斡旋・採用手数料がはびこり、行先国においては移住労働者は社会的保護およびディーセント・ワークの枠外に置かれることが多い。
何十年もの間、移住労働者を保護するための地域的枠組は不在であった。移住のガバナンスは主に二国間での覚書に依存していた。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の10カ国は、ASEAN経済共同体(AEC)を通して域内の労働移動を拡大し始めたが、域内における「職業資格相互承認協定」(MRAs)は8つの専門職に限っており、明らかに政策上の不備がある。ASEAN域内の移住労働者の90%近くが農業、漁業、製造業、建設業および家事労働などの低賃金/労働集約的な分野に雇用されている現実が考慮されていない。
そのような背景により、移住労働者の権利保護を推進するための地域的取り組みが必要であった。2007年、ASEANは、移住労働者の権利と保護の促進を約束する「セブ宣言」を採択した。第22パラグラフは、その原則を実施するための文書の策定を指示している。しかし、文書がまとまるまでの道のりは、2009年に始まった交渉が何度も滞るなど、困難を極めた。加盟国は(i)文書が法的拘束力を持つかどうか、(ii)非正規移住労働者を含むかどうか、(iii)移住労働者の家族およびASEAN域外からの移住者も含むかどうか、の3つの問題について意見が分かれた。
2017年11月、ASEANはようやく「移住労働者の権利の保護と伸長に関するASEANコンセンサス」(以下、「コンセンサス」)を採択した。しかし、「コンセンサス」は、すべての期待に応えるものではなかった。最大の批判は、条約ではないことから法的な拘束力はなく、道義的拘束力のみを有す文書であるという点だ。
Thuzar(2017)は、「コンセンサス」が、ASEANにおいて「合意に達することのできる性質」の文脈であり、「各国政府が受け入れることができる妥協点」を示していると述べる。
実際、この「ASEAN方式」がいかにして交渉に影響を与えたかに光をあてる報告が多くあるが、文書の策定においてこの「妥協」がなぜ特に顕著になったのだろうか。その点について、「コンセンサス」と、法的拘束力のある文書である2015年採択の「ASEAN人身取引防止条約」(ACTIP)とを対比させると興味深い。東南アジアの文脈において、移住と人身取引は関連が深いのだが、二つの文書において、問題の捉え方が異なるのである。犯罪対策と治安対策を目的としているACTIPは、「コンセンサス」における人権に関する内容よりも、ASEAN加盟国にとってより好ましいと受けとめられているのだ。もっと簡単にいうと、移住労働者の権利保護は地域の課題のなかで優先度が低いのである。
「コンセンサス」の第1章(一般原則)および第2章(定義)は、加盟国政府によって「正規移住労働者および本人の責によらない事情で非正規となった者」に限定した保護の範囲を規定している。第2章は非正規移住労働者の定義をし、第56条・57条において非正規移住労働者に関する確固たる立場を繰り返す。第56条は、非正規移住労働者の事案を解決するにあたって人道的な懸念を考慮し得るが、そのことが在留資格の正規化を示唆するわけではないと明記している。第57条は非正規移住労働者の流入を防止し、削減するコミットメントを確認する。
このように非正規移住の削減に注力する一方で、国の機関を通した合法的な移住が必ずしも安全な移住を意味しないという東南アジアの現実が考慮されていない。この地域では長年にわたり、民間の斡旋業者が常に主要な役割を担ってきたのである。移住労働者は、行先国での給与からの天引きによって手数料を返済している。労働者の負債を通して斡旋業者に必要経費を支払うという、正規ルートにおける「官民のパートナーシップ」が確立されているのである。ほとんどと言えるほど多くの斡旋業者は、「労働者が負担」という方針に基づき事業を組み立てている。そのような慣行のもとでは、多くの移住労働者が非正規の手段を選ぶことは驚くに当たらない。
第3章は移住労働者およびその家族の基本的権利のいくつかについて述べている。低賃金で短期間限定の労働移住に留め置くという制限的条件を改善しようとする内容ではない。労働者として、彼/彼女たちは永住、または市民権への道が認められていないのである。また、家族の統合の権利も認められていない。国際人権諸条約では社会の最も重要な単位としての家族の普遍的保護が認められているが、国家は実務上、優遇された移住者、つまり通常は経済的地位の高い移住者にしか「行先国に家族を連れて行く権利」(Nakache 2018)と定義される家族同伴を認めない。したがって「コンセンサス」は、低賃金労働者の移住で起きている移住者本人およびその家族の権利が二重に否定されていることに対して現実的な救済施策を提供していない。
第4章は、特定の労働の権利、つまり雇用に関連する情報にアクセスする権利、雇用契約を受け取る権利、職場における公正な処遇と報酬の権利、労働組合に加入する権利、苦情申し立ておよび法的措置をとる権利を規定する。これらの権利は進歩的であるが、「ASEAN加盟諸国の現行の国内法、規則および政策に則り享受される」と条件づけている。
第5章は、送出国の主要な義務を述べる。出国前のオリエンテーション/教育プログラムを行う、移住労働者に人権および労働の権利に関する情報を提供する、パスポートや他の関連文書の発行に合理的で透明性のある標準料金の設定と高額請求の禁止、および外国での職業紹介に関する行政手続きの簡素化などである。
第6章に規定される受入国の主要な義務には、基本的人権の保護、およびいかなる者・機関による移住労働者に対する職業紹介または斡旋手数料の高額請求の禁止が含まれる。また、医療およびヘルスケア、並びに法的サービスへの移住労働者のアクセスを拡大しようとする方向も示しているが、これらの権利は正規の移住者に限定される。また、「コンセンサス」は全ての義務が国内の法制度に適合する必要があることを明白に述べている。
第7章は教育/情報、保護、執行、救済および再統合の5分野をカバーする行動計画の策定を求めている。「コンセンサス」の実施を目的に、「移住労働者の権利の保護と伸長に関する宣言の実施に関するASEAN委員会」(ACMW)を通して、「地域行動計画(2018-2025)」が採択されている。しかし、この行動計画のいくつかの事項は「コンセンサス」に挙げられる権利の枠組みにあまり結びついておらず、弱点となっている。
一方、「コンセンサス」の実施にあたり最も推進すべき事項を扱うASEANの分野別機関が存在する。たとえば、移住労働者の子どもの権利に関心を注ぐ「社会福祉開発担当高級事務レベル会合」(SOMSWD)、および移住者の医療保険の適用拡大と、感染症を含む健康リスクに取り組む「保健担当高級事務レベル会合」(SOMHD)である。後者の取り組みは、現在の新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大のなかで非常に重要である。
最後に、「コンセンサス」は理想的な文書ではないが、Koh(2017)は、移住労働者の保護の強化に貢献する限りにおいて有用であり続け、地域内における移住の問題に取り組む人権活動家や市民社会組織の活動に一定の正当性を与えると述べる。第55条は、地域の移住ガバナンスにおいて、情報の共有、建設的対話および協議を通じた協力強化による様々なアクターの参画およびステークホルダーとのより多くの協働を呼びかける。「コンセンサス」は限界がある一方、移住労働者の保護および移住労働者とその家族の権利の実現における協働の取り組みの基盤であり続けるだろう。
(翻訳 岡田 仁子)
<参考文献>
・Koh, Tommy K.S. 2017. “Manila’s parting gift: ASEAN’s next steps on labor migration.” The Diplomat, November 22.
・Nakache, Delphine. 2018. “Migrant workers and the right to family accompaniment: a case for family rights in international law and in Canada.” International Migration. doi: 10.1111/imig.12444
・Thuzar, Moe. 2017. “The ASEAN “Consensus” on Migrant Workers: not Ideal but a basis to continue working.” ISEAS Commentary 2017/68, ISEAS-Yusof Ishak Institute, Singapore, 16 November 2017.