特集:新型コロナウイルス感染症と人権
英国で最初の新型コロナ感染者が確認されたのは2020年1月末だったが、その後しばらくは「遠い国の出来事」という雰囲気だった。3月になり状況が急速に悪化し始めると、政府は23日に法的拘束力を伴う全国的なロックダウンに踏み切った。しかし初動の遅れは明らかで、4月に入ると1日あたりの新規感染者が4千人、死者が千人を超える日が続いた。ロンドンやバーミンガムなどの大都市には仮設病院も設置され、医療・介護現場での個人用防護具の不足も深刻な問題となった。7月下旬時点での累計感染者は約30万人、死者は46,000人にのぼり、総人口6,600万人の英国がいかに大きな犠牲を出しているかがわかる。
新型コロナは社会の様々な格差を可視化、深刻化させているが、英国でも他の欧米諸国と同様に、人種間の不平等が特に大きな問題として浮上した。感染拡大がピークに達した4月上旬、人種によって感染率や死亡率に偏りがあると指摘され始め、感染により死亡した最初の10人の医師全員が人種的マイノリティ1だったと報道されると社会に衝撃が走った。
医療現場においても、アジア系移民をはじめとする人種的マイノリティの医療従事者が、白人の同僚に比べてより感染リスクの高い現場を担当させられ、十分な防護具が与えられていないといった証言がメディアや市民団体などに寄せられた。
イングランド公衆衛生庁が6月に公表した調査報告書によると、人種的マイノリティの感染率・致死率はともに白人の英国人に比べ高く、バングラデシュ系の致死率は2倍、中国系、インド系、パキスタン系、その他のアジア系、カリブ系黒人、その他の黒人では10~50%高いことが明らかになった。
公共交通機関の従業員、清掃員、警備員、介護従事者など在宅勤務ができず不特定多数の人々と接触する機会の多い職業に就く人、貧困地域に住む人、心臓病や糖尿病の基礎疾患がある人の致死率が高く、いずれも白人の英国人よりも人種的マイノリティが該当する割合が高い。当初、市民団体や活動家の間では、政治上の思惑で人種による遺伝的な特徴が原因と結論づけられるのではという懸念もあったが、報告書は構造的な人種差別による社会経済格差や健康格差に原因があると分析した。
英国ではパンデミックをきっかけにアジア人差別や外国人嫌悪が急増した。年明け頃から新型コロナ関連の報道が増え、中国、韓国、日本などでマスクをした人々の映像が終日テレビに流れるようになった。筆者はロンドンで生活していて、その頃から外を出歩くとこれまでにない視線を感じたり、バスや電車で周囲の人々があからさまに離れていくということを経験した。新型コロナを動機とした憎悪犯罪として最初に報道されたのは、2月上旬にタイ人の会社員が強奪され骨折する重傷を負った事件だった。その後、類似の事件が次々と発生し、シンガポール人やベトナム人、韓国人なども被害にあった。アジア系飲食店などが落書きや窓ガラスを割られる被害を受けることも多発した。
情報公開制度を通じて全国45の地方警察とイギリス鉄道警察から得たデータに基づく報道によると、2020年の第1四半期で報告された「中国系英国人/中国人」に対する憎悪犯罪件数は例年に比べ約3倍に増えた。第2四半期のデータを公表しているウェスト・ミッドランズ州警察によると、中国系/日系/東南アジア系の人々に対する憎悪犯罪は第1四半期と比べ2倍増加したという。
憎悪犯罪の急増に対して、東アジア・東南アジアをルーツに持つ2世の若者を中心とした活動家らが、ネットワークEnd the Virus of Racism(人種主義のウイルス撤廃)を組織し、独立した機関による公開調査と人種差別に対する例外を許さない「ゼロ・トレランス方式」の政策実施を内務大臣に求める公開状を提出した。
現在、警察が運営する憎悪犯罪専用サイトでは、新型コロナウイルスに関連する憎悪犯罪について日本語を含む多言語で情報発信している。しかし、国連やWHO(世界保健機関)、国際人権NGOヒューマンライツ・ウォッチなどが各国政府に対して勧告や提言をしている、新型コロナに関連した差別や暴力に対抗するための国内行動計画の策定について、政府は未だ具体的な方針を示していない。
アジア系の人々は言葉の壁などにより憎悪犯罪被害の申告率が低く、被害の実態はより深刻だと言われている。断続的ではあるが10年ほど英国のアジア系の移民コミュニティと関わってきた筆者は、2012年から続く「Hostile Environment」という移民政策にも大きな原因があると考える。この政策は、その名の通り非正規移民に対して「敵対的な環境」をつくり、自発的な国外退去を促すというものである。緊縮財政政策の中で市民に相互監視を行わせ、移民管理のコストを削減する狙いもあると言われている。
家主や雇用主に対して、入居や就職を希望する人の国籍や在留資格の確認を義務付け、在留資格や労働許可を持たない人を受け入れた場合には5年以下の懲役または罰金が科せられる。また、非正規移民の摘発を目的にしたエスニック料理店などへの立ち入り捜査や路上での職務質問などが増え、移民コミュニティの当局に対する恐怖や不信感が増大した。従業員に在留資格や労働許可を持たない同胞を抱える事業主、そのような脆弱な法的地位にある個人の多くは、摘発や強制送還を恐れ、憎悪犯罪などの被害を受けても泣き寝入りする。
非正規移民にとっては医療にアクセスすることも恐怖が伴う。先述の政策の一環として、国民保健サービス(NHS)には緊急の場合を除き患者の在留資格を確認し、非正規移民などの無保険者には、最大150%2の治療費を事前請求すること、要請があった場合は利用者の在留資格に関する情報を当局に共有することが義務付けられた。新型コロナに関する相談や検査、治療は、非正規移民を含め全ての人が無料で受けることができるが、情報は届きにくく、長年植え付けられた恐怖により医療へのアクセスを諦める人は多い。
フィリピン人移民の自助団体「カンルンガン・フィリピノ・コンソーシアム」(Kanlungan Filipino Consortium)がロックダウン期間中に非正規移民を中心とした脆弱な法的立場にある在英フィリピン人約80名を対象に行った調査によると、新型コロナ感染症の症状を経験した13人のうち医療機関に相談した人は1人のみで、12人は「在留資格について当局に通報されることへの恐怖」を理由に相談を諦めている。実際にこのNGOは、感染が疑われるものの医療機関へ相談せずに亡くなった非正規移民を複数名把握している。
調査対象となった非正規移民の中には、難民申請が不認定となった人や人身取引被害者、および英国人の家族も含まれる。2012年以降、外国籍の配偶者を呼び寄せる場合にはスポンサーとなる英国人の年収が18,600ポンド(約250万円)以上あることを証明しなければならず、これに外国籍の子どもが加わると、人数によって収入要件が上がっていく。条件をクリアすることができずに英国人の家族であっても非正規滞在となっているのだ。非正規移民の数は全国で80~120万人にのぼると推測されている。
アジア系非正規移民の多くは、家事労働や飲食業などインフォーマル分野で働いており、56%がロックダウンにより全ての仕事と収入を失ったと答えた。彼らは公的支援の対象にはならず、コミュニティの支え合いによって糊口をしのいでいる。公的扶助制度が手厚いと言われる英国だが、EU圏外出身で永住権を持たない移民は、在留資格があっても基本的に制度の利用はできず、困窮する人々が急増している。
7月にはロックダウンの段階的な解除も進み、経済活動も再開されてきた。しかし、英国のアジア系コミュニティの中でもとりわけ脆弱な立場に置かれた人々は、人種差別のほか健康面や経済面での不安と困難といった長期にわたる課題に引き続き向き合っていかなければならない。これらは多くの移民受け入れ国に共通する普遍的な課題であり、この問題に取り組む人々の国際的な連携も重要である。
1:
Black, Asian and Minority Ethnicを略してBAMEという言葉が最近多く使われている。一方で、この総称について、多様な人々を一括りにしていることから反対する人も多く、使用が避けられる場合もある。
2:
150%負担は専門医による第二次医療(セカンダリ・ケア)が対象。