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国際人権ひろば No.156(2021年03月発行号)

特集:アウティング-「暴露」「さらし」を考える

性暴力被害とアウティング

周藤 由美子(すとう ゆみこ)
ウィメンズカウンセリング京都/フェミニストカウンセラー

 「被害者の恥」になるのはなぜ?

 性暴力は相談しづらく潜在化しやすい犯罪である。内閣府の「男女間における暴力に関する調査」(2017年度調査)では、「無理やりに性交等された」と回答した男女164人に相談先を質問しているが、「どこ(だれ)にも相談しなかった」が56.1%(女性58.9%、男性39.1%)で一番多かった。そして、その「相談しなかった理由」は、「恥ずかしくてだれにも言えなかった」(52.2%)というのが最も多いのである。

 実際、性暴力の相談を受けていて、「恥ずかしい」「誰にも知られたくない」「こんなことは一生話さないと思っていた」などと話されることも多い。それに対して、私たちは「性暴力の被害者が恥ずかしく思う必要はない」「恥ずかしいと思うべきなのは加害者の方だ」と話す。実際、相手が嫌がっているのにそれを無視したり、相手が拒否できない状況につけ込んだり、もしくは相手がどう思っているのかおかまいなしに、相手の尊厳を傷つける行為を平気でできてしまうことこそ、とんでもなく卑劣で「恥ずかしいこと」ではないか。

 しかし、どうやら加害者はそんなことは思わないようである。「こんなことは(恥ずかしくて)とても訴えられないだろうと思っていた」…被害者からセクハラ性暴力を告発されたことを知った加害者が、そのような趣旨の発言をした、という話を聞いたことがある。被害者が誰にも知られたくない、打ち明けられない、というその「弱み」につけ込んで、加害行為を継続させるケースは実際のところ本当に多いのだ。

 なぜ被害者が「恥ずかしくて誰にも言えない」のか、ということをもう少し考えてみよう。それにはジェンダーの問題も関係しているだろう。性的な行動について、男性には寛容で、女性には厳しいというジェンダー規範がある。最近ではずいぶんその規範も緩んできたとはいえ、女性が性的な行動をとることにはマイナスのイメージがあり、被害者であったとしても、(他の)男性と性的な接触があったことは、女性に対する否定的な評価につながっていた。だから、娘から被害を打ち明けられたときに、(母)親が「これでお前はキズモノになってしまった」「こんなことは誰にも言っちゃいけないよ」と口止めをするということもよくあった。被害者である女の子は、被害にあったこと以上にこのような「二次被害」を受けたことが、大きな心の傷として残ってしまうこともしばしばだった。

 一方で、「男性は主体で、女性は客体」「男性は襲う性で、女性は襲われる性」というジェンダー意識もある。そのため、男性が被害にあった場合に「男性なのに襲われてしまった」ということで、自分自身を被害者であると受け止めることが困難になる。また、セクシュアルマイノリティの被害者は差別を受ける心配から被害を訴えにくい状況がある。まさしくこれらはジェンダーやセクシュアリティをめぐる社会の問題といえる。

 #MeToo運動が“常識”を変える

 この「性暴力被害は恥ずかしくて誰にも言えないこと」という“常識”が大きく変わったのが、2017年にハリウッドの映画プロデューサーのセクハラが告発されたことに端を発して世界中に広がった#MeToo運動からである。これをきっかけに様々な被害者たちがSNSを使って声を上げ始めたのだ。

 当初、世界的な動きと比較して、日本では#MeToo運動の盛り上がりが見られない、という声も聞かれた。しかし、それは「なぜ日本の女性(被害者)は活動的ではないのか?」と責められることではなく、声を上げたときにそれに対する「被害者バッシング」がいかに日本社会に根強いのかということではなかっただろうか。「私も被害者だ」と声を上げようと思っても、反応が怖くて声が上げられない、と思ってしまうような社会の「空気」があったのではないか。

 一方で、日本にも、ずいぶん以前から「#MeToo運動」の先駆ともいうべきサバイバーたちがいた。『STAND:立ち上がる選択』の大藪順子さん(2007年)、『性犯罪被害にあうということ』の小林美佳さん(2008年)、『なかったことにしたくない』の東小雪さん(2014年)などが顔を出し、実名で被害を公にされている。さらに『13歳、「私」をなくした私:性暴力と生きることのリアル』の山本潤さん(2017年)、『black box』の伊藤詩織さん(2017年)。しかし、出版当時、伊藤詩織さんに対しては、共感や支援の声も高まった一方で、バッシングもすさまじく、彼女は日本で活動することができず海外に拠点を移さざるを得なかった、というのも日本の現実だった。

 各地で性犯罪無罪判決に抗するフラワーデモが

 2017年6月に刑法性犯罪が110年ぶりに改正された。これで日本における性暴力・性犯罪をめぐる状況が少しでも改善されると期待されたのだが、2019年3月に相次いで4件の性犯罪無罪判決が出される。このままでは被害がなかったことにされてしまう、刑法を再改正してほしい、という切実な危機感から、呼びかけられて始まったのが毎月11日に花や花をモチーフにしたものを身につけて集まろうという「フラワーデモ」である。この「フラワーデモ」で、自然発生的に当事者の人たちが自分の被害を語り始める。この「フラワーデモ」はメディアでも取り上げられ、社会的なインパクトも強く、きっかけとなった4件の無罪判決は、検察が控訴を断念した1件を除いて、3件とも控訴審で逆転有罪判決が出されている。そして、この「フラワーデモ」は裁判所だけでなく、全国の多くの被害者たちに間違いなく大きな影響があった。「こんな被害にあっているのは自分だけではないんだ」「声を上げることで社会を変えることができるんだ」というメッセージを被害者たちに贈ってくれたのだ。

 このように「性暴力被害を知らせること」について、世界的に、また日本でも大きな変化が見られている。

 

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フラワーデモを紹介するチラシ(https://www.flowerdemo.org/)

 「知らせる」「知られる」再考

 さて、それでは「性暴力被害を知らせてしまうこと」についてはどうだろうか?一つには、被害者が被害を相談したり、何らかの形で被害が明らかになった際に、その情報の取り扱いにあたって、被害者の意向を十分に考慮せずに、他の人に知らせてしまう、ということは絶対にあってはならないのは当然のことである。

 それとは少し違う側面の「性暴力被害者であることを知らせてしまうこと」についてはどうだろうか。性暴力被害者に対して、性暴力被害という過酷な状況を生き延びてきた尊敬に値する存在という意味で「サバイバー」という呼び方をすることがある。被害者支援に関わったり、問題や施策について考えたり検討したりする際に、当事者が参加することには大きな意味がある。そういう意味でその人が「性暴力サバイバーである」「当事者である」ということは肯定的にとらえられる場面はあるだろう。そして、関係者にそのことを伝えたいと思う場面もあるかもしれない。それは少しうれしい気持ちがあって、ついつい話してしまう、というような状況であったりする。しかし、それが果たしてご本人にとってどうなのか、ということは常に考える必要があるだろう。

 実は私もそういうことをしてしまったことがある。性暴力被害者であることを公にしている方について、彼女が当事者の立場で参加して場で「彼女はあの本を書いた〇〇さんだよ」と、他の人に自分が話しているのを、その人に聞かれてしまったのである。彼女がどのように思ったのかははっきり確かめられていないし、それほど気にされていなかったかもしれない。しかし、私は、「あ、しまった」と思った。彼女が「公にしていることだから」というのは言い訳にならないし、彼女は「性暴力サバイバーの〇〇さん」ではなくて、「一緒にこの活動をしている〇〇さん」なのだから。彼女は常に「性暴力サバイバー」として生活しているわけではないし、彼女がどのような自分としてその場にいたいと思っているか、ということが大切なのだ。私がそれを尊重していなければ、彼女は私を信頼してくれないだろうし、彼女にとっての安全な場にはならなかっただろう。

 「アウティング」というと、これまで私自身はセクシュアルマイノリティの人たちの問題という印象があった。今回、「アウティング」というキーワードを通じて、「性暴力被害」や「性暴力被害者であること」を「知られる」「知らせる」ことについて、あらためて考える機会となったことを感謝する。