特集:東日本大震災から10年のいま
10年前のあの日、あの時。巨大地震が引き起こした津波のパワーに驚愕したことを今も鮮明に覚えている。自然災害は、そこで暮らす人たちの意思に関係なく、その人たちの人生を強制的に変えさせてしまったのではないだろうか。災害は、多くの人たちの命を奪い、暮らしや財産、文化を飲み込んでしまった。その苛烈な状況は、復旧や復興へ向かうための力をも萎えさせてしまっていたように思う。
未曽有の自然災害を目の当たりにし、被災地域へどのような支援が必要なのか、支援のためにどこにどのように働きかければいいのか、道筋も見えず時間だけが過ぎていった。その時、過去の災害に学ぶことが必要と思い立ち、阪神淡路大震災やその後各地で起きた自然災害の報告書を開いた。そこからは女性たちがさまざまな場面で多くの困難をかかえていたことが浮かび上がってきた。特に、アンケート調査や女性たちからの聞き取り調査では、ジェンダーバイアスが根強く残り、声を上げたくても上げることができない、誰にも相談できない、被害者である自分が責め立てられたなどの生の声が寄せられていた。これらの多くの被害体験が、今後、東日本大震災の被災地でも起こりうると考えられたことから、この事実から目を背けず、特に女性に対する支援にフォーカスしようと意を新たにした。
1.岩手県から始まった内閣府「東日本大震災 被災地における女性の悩み・暴力相談事業」
報告書によれば、被災後、女性たちは、DVや性暴力被害、家族間の人間関係、自身の生き方、今後の仕事や生活などに悩み苦しんだという事実が語られていた。そこで、内閣府男女共同参画局に「フリーダイヤルによる電話相談事業を実施して欲しい」と直接依頼。盛岡市内で2011年5月10日にスタート。
架電される多くの相談者は、「家」という形に押し込められ、生きづらさや苦しさ、辛さ、また、つかみどころのない社会からの抑圧など、かかえる問題は、幾重にも層をなしていた。やり場のない怒りや思いを吐き出したい、「思い」を誰かに聞いてもらいたい、誰かと繋がっている「安心感」を得たい、そのような「場づくり」が必要であった。相談者は、様々な問題をかかえながらも自分自身の中で折り合いを付けることで、今後の人生を自己決定していくプロセスを体感されてきたように思う。
この年の9月には宮城県、翌年2月11日からは福島県と被災3県でこの事業が実施され、足並みが揃ったのであった。
2.物資支援は「こころを届け、繋がる」ことへのこだわり
津波で壊滅的な被害を受けた沿岸地域では、公共交通機関が全線不通となり、物資を届けるには車以外にはなかった。沿岸地域までの距離は、県都の盛岡市から100kmから145kmある。
発災後まもなく、内閣府を通して物資が届けられた。しかし、どこのどなたに物資を届ければいいのか、見当もつかなかった。そこで県内のマスメディア各社に依頼し、物資の受付電話番号を周知していただいた。その結果、早々に物資の希望が寄せられるようになった。物資は、国内外の団体・NGO・NPO・民間企業から大量に届けられた。
物資支援のコンセプトは、「hand to hand」「face to face」とし、送ってくださった皆様の「こころ」を届け繋ぐという意味であった。盛岡市内でも一般車にガソリンが供給されたのは2週間後。沿岸地域には、カーナビを頼りに入ったが、道路が寸断され、目印の建物や樹木もなくなっており、約束通りに届けることができないのではと焦ったこともあったが、互いの携帯電話で連絡を取り合い、場所を確認し、無事届けることができた。
希望物資は、季節や環境によって変化していった。また希望通りの商品が手に入らないときは、支援金を募集し、希望の物資を購入し対応した。このころになると物流が回復、宅配サービスを活用した。
宮古市内の避難所で希望の物資を届け、
新たな注文を受けているところ(筆者提供)
3.女性の就業支援として厚生労働省「緊急雇用創出事業」を受託
沿岸地域への物資配送を始めてしばらくしたころ、幹線道路脇や高台、山間部に仮設住宅が建設された。仮設住宅から商店やコンビニエンスストアへは、かなりの距離があり、高齢者や子育て中の人たち、障がい者、介護者たちが毎日の買い物に困難を極める状況であった。そこで、その人たちのために誰かが買い物を代行する必要があると考えた。報告書では、被災者が仮設住宅に移ってから孤立状態が目立ち、多くの課題や問題をかかえたようであった。また、女性たちの多くは、非正規雇用で被災による解雇の波を真っ向から受けていた。そのような状況下、女性の経済的自立が重要と考え、買い物代行をしながら仮設住宅内の方々に声がけをすることを目的に「買い物代行と安否確認」事業を思いついた。そしてスタッフには、沿岸地域の女性たちを雇用すれば一石二鳥と考え、申請書を提出。委託事業を2011年8月17日にスタート。最終的には、沿岸地域5市町村で実施、20名の女性たちの経済的自立を図ることができた。
地元民たちは、自然の破壊力に打ちのめされ、どのようにして立ち上がればいいのか、不安ばかりが先行していったようであった。地元の復旧・復興は、地元民の力が不可欠。震災によって非日常化した生活を日常に戻すこと、そのために、震災前に口にしていたものを食し、普段使っていたものを手に入れること、そのことが日常化への早道だと考えた。それは日常を取り戻すきっかけとなり、そのことが復旧・復興に必要な地元民のパワーとなるのではないかと思えた。
大槌町「買い物代行と安否確認事業」で注文を受け
買い物をしているところ(筆者提供)
緊急雇用創出事業の終了後、スタッフであったMさんは、結婚以来、長年、夫からのDVに悩み、苦しみ、東日本大震災直前には、自死を考えていたという。他のスタッフたちとの交流の中で、夫との関係性に気付き、それを見直し、夫に別居を提案。現在、夫は戸建ての自宅を自立再建、Mさんは同じ市内の災害復興公営住宅で暮らしている。Sさんは、地元の復旧と復興に女性の意見を届けたいと町の補選に立候補・当選。2年後の本選にも当選し、現在に至っている。Yさんは、本事業の後方支援をしてくれた地元村会議員。岩手県内初の女性村会議員副議長に就任し、現在に至っている。
東日本大震災後の支援にあたっては、若年女性たちへの支援が十分ではなかった。なぜなら「若い」「元気」「復興のシンボル」とされ、若年女性たちは弱音を吐くことができなかったからだ。多くの困難をかかえていたにもかかわらず、相談にも繋がらなかった。発災から3年が経過したころから若年女性たちの問題が表出した。現在、「よりそいホットライン、被災地若年女性専門ライン」事業である電話相談、SNSによるグループチャットを実施している。グループチャットは、テーマごとに自由に思っていることや感じていることをつぶやく。そこにアクセスすることで「自分は一人じゃないんだ」「そう思っていていいんだ」と思える、安全で安心な場として若年女性たちに活用されている。
国や自治体では、過去の自然災害から多くを学び、命を守るための防災・減災に向けた指針やマニュアルを作成している。しかし、その内容には、男女共同参画の視点が十分に取り入れられているとは言えない。指針やマニュアル作成にあたっては、あらゆる場面を想定し、すべてに男女共同参画の理念が反映されていることが重要であり、すでに作成されたものについては、喫緊の見直しが必須である。
支援事業にかかわり、若年女性たちも含め、女性たちが自分自身の人生を自己決定していくというプロセスに出会えた。一人ひとりがエンパワメントし、自分の生き方を手中にした時の笑顔と輝きを忘れることができない。
東日本大震災の支援事業は、国内外の多くの女性たちのネットワークに支えられた。感謝に尽きる。今後も、同じ地続きの女性たちのために、仲間の女性たちとともに、支援活動を継続していきたいと考えている。
注:
筆者は、盛岡市市勢振興功労者表彰委員、盛岡市防災会議委員などを務めている。元もりおか女性センター センター長。