人権の潮流
10年ほど前にカナダのトロント大学オンタリオ教育研究所に在外研究員として数ヶ月滞在した。ちょうど、「ウォール街を占拠せよ」の運動が世界中で展開され、トロントでも「オキュパイ・トロント」が呼び掛けられた。トロントの金融街であるキング通りに緊張しながら向かったところ、すでに通りは警察官によるバリケードで占拠されていた。政治経済の権力が警察を動員し、民衆の声を抑圧する状況を目の当たりにした瞬間だった。一連の占拠運動のスローガンが"We are the 99%"であり、「1%」の高額所得者が「99%」の富を所有し、その格差はますます増大していることへの異議申し立てだった。「1%」の金融街が警察に守られ、「99%」は暴徒のような扱いを受けたのだ。
2021年3月25日、1年延期された「東京2020」オリンピック・パラリンピックの開催に向けて、聖火リレーが福島県のJヴィレッジをスタートした。コロナ禍が収束しないばかりか再拡大の予兆を見せ、福島第一原発事故の「コントロール」も見通せない中での「オリンピック強行宣言」と思われた。主要メディアによるオリンピック開催についての世論調査では、各社が概ね3分の2が中止か延期を望んでいるという結果を公表している。誰のための何のためのオリンピックかと、"We are the 99%"の記憶とダブって見えた。
トロントの金融街で占拠運動のスローガン
"We are the 99%"を掲げる人たち(筆者撮影)
「コンパクトな大会」をキャッチフレーズにした「東京2020」の経費は、夏季オリンピック史上最大規模となり、1年の延期によってさらに増額された。2020年12月の予算計画第5版では1兆6440億円であり、招致段階の2倍以上の額となっている。しかも、オリンピック開催のための直接的な経費以外にも様々な費用がかかっている。例えば、成立したばかりの2021年度スポーツ庁の予算を見ると、予算全体は、前年から3億円増の350億余りとなっている。そのうち、「東京オリンピック・パラリンピック競技大会等の成功に向けた対応」には、全体の3分の1以上を占める128億円が計上されている。この事項以外にも、競技スポーツを中心とした施策や経済活性化のためのスポーツ振興予算が並ぶ。主要事項を見る限り、一般市民を対象とした予算は「運動習慣化促進事業」の1億9千万に過ぎない。しかも、少なくとも過去数年間では競技力向上により比重があり、ナショナルトレーニングセンターの整備、ラグビーW杯関連事業、日本版NCAA(全米大学体育協会)創設に向けた学産官連携、スポーツ産業の促進など、膨大な予算が競技スポーツとこれを利用した経済活性化の事業が予算化された。
一方、一般の人々の運動・スポーツ実施の実態は、生活の中で、道路を歩いたり階段を使ったり、公園や自宅で体操する人々が圧倒的である(「スポーツの実施状況等にする世論調査」スポーツ庁)。これは、やりたくても忙しくお金もかけられないという理由だけでなく、競技スポーツなどやれないし、やりたくもないが、運動不足解消や気晴らしのために、生活密着で運動しようという人々が多いことを物語っている。そして、この傾向は男性よりも女性に強い。いずれにしても、大半の人が「運動・スポーツ」の場として活用する道路は、狭く、デコボコで、自転車も歩行者も入り乱れ、ベビーカーや車椅子、高齢者が安全に移動できるとは言えない道路が大半である。自転車専用レーンもまだまだ未整備だ。
莫大な税金で大半の経費が賄われるオリンピックをはじめスポーツ予算の「99%」は競技スポーツに向けられ、残り「1%」を一般市民「99%」で分け合っているというのが実情だ。これが、スポーツ基本法に「スポーツは、全ての人々の基本的権利」と謳う国の実態なのだ。
「スポーツ」は競技スポーツだけを指すのではなく、散歩やストレッチ、サイクリングなど幅広い運動を含んでいることは言うまでもない。学校期を終えると、多くの人々は競技スポーツに参加することはほとんどなく、圧倒的に健康や気晴らしのためのスローなスポーツ参加になる。自然を満喫するキャンプやスキー、山歩きなども重要な要素になっているだろう。しかし、予算は競技スポーツに偏り、メディアが取り上げるスポーツも競技スポーツであり、競技スポーツこそが価値のあるものという社会の意識形成がなされているようだ。この意味で、「99%」のためのスポーツとは、向けられる予算のことだけを意味していない。
ジェンダー視点から言えば、競技スポーツは、男性優位社会を底流から支えている側面がある。競技スポーツの発祥を辿れば、中世のイギリス社会において、支配階級の男性の教育手段として発祥した近代スポーツを起源とする。支配階級は資本主義と植民地主義の進展を担うための新しい支配のモデルとして、「非暴力の競争」を具現化する近代スポーツに価値を見出し、競技化、記録化、組織化などの特性を装備してきた。近代オリンピックの創始者であるクーベルタンも、イギリスのパブリックスクールにヒントを得たと伝えられている。クーベルタンは、オリンピックでの女性の役割について、「古代の競技大会で行われていたように、何よりもまず、優勝者に栄冠をかぶせること」という考えを終生変えることはなく、社会を支える若い男性のためにオリンピックが開催され維持されるべきことを訴え続けた。
近年では、あらゆる競技スポーツに女性が進出するようになっているが、多くの種目が体格や筋肉の優位さがパフォーマンスに優劣に反映される「男らしさ」競争の性格を持つ。男女別とはいえ、競技の中であらわになる体格・体力の差異やパフォーマンスが繰り返し視覚化され、経験されることが、ジェンダー規範の強化に結びついていることは否定できない。一方、「フェアな競争」のために大半のスポーツが男女別で行われる性別二元制は、女性選手に対し「男性でない」ことを証明するための屈辱的な性別確認検査を強要してきた歴史を持つ。そもそも性別は、性染色体、性ホルモン、生殖器、性自認など多面性を持ち、明確な線引きは難しい。南アフリカのキャスター・セメンヤ選手は、高アンドロゲン症に関する国際陸上競技連盟の規定を巡って係争中である。
一方、近年の傾向としては、素朴な遊びや野外活動が競技化される傾向も目立っている。例えば、子どもの大なわとびは厳密にルール化された団体競技になり、スケートボードは規格化された施設で行われるアクロバティックな競技に変容している。「東京2020」で追加されたサーフィン、スケートボード、スポーツクライミングなどもこの傾向を示している。
このような競技スポーツ主流化の動きは、教育にも影を落としている。大学生に、これまで受けてきた小中高の体育授業を振り返ってもらうと、驚くほど「変わっていない体育」が見え隠れする。その代表格が「技能中心」で展開され、「努力や頑張りが評価されない」ことである。持久走は依然「嫌いな種目」の筆頭で、タイムを競うことが強いられる。器械運動は、苦手な生徒にとっては、恐怖と痛みに耐える種目である上に、できない姿をさらす苦痛の時間であり、何のためにこの種目があるのかわからないと訴える。水泳も命を守る泳ぎよりも「正しい」フォームで速く泳ぐことが何よりの価値になる。多くの学生は、「運動は嫌いじゃない。大事だと思っている」が、「ゆっくり走ったり楽しく運動することは認められなかった」と振り返り、できないから「仕方がない」と諦めている。
体育は技能だけでなく、人格形成や身体形成など多面的な教育価値が謳われているものの、内容としては競技の性格を持つスポーツで占められている。しかも、学校生活には、運動部活動や体育行事など、競技的なスポーツと向き合う場面が多い。生徒自身が種目を選べるはずの選択制も十分浸透しているとは言い難いのが現状である。
「99%」のための体育・スポーツのために、予算や体育カリキュラムのあり方、リーダーの女性比率を改善することは不可欠だろう。一方で、競技スポーツという主流化された文化から目を逸らし、競争や序列から離れ、自然や自己の身体との対話に意味を見出す、もう一つの身体文化の価値に気づく時期だろう。