特集:東日本大震災から10年のいま
私は、2011年3月11日から2ヶ月後のゴールデンウィークに、関西に2人の子どもを連れて県外避難をしてから結果的に10年間ずっと避難を続けています。0歳と3歳だった子どもたちは今、10歳と13歳。福島県民のまま大阪市立の小学校と中学校に通っています。避難元は郡山市。子どもたちの父親をひとり残してのいわゆる母子避難です。
この10年間で、何度も「父親だけ一人残して、よく可愛い盛りの子どもたちだけ連れて母子避難を決断できましたね」と避難先の関西では声を掛けられました。
この国の多くの人が、福島第一原子力発電所の事故により水道水が放射能により汚染されたという事実を知っています。でも、私たち福島原発周辺地域の住民が、放射性物質がたとえ「身体に直ちに影響はない」程度であったとしても、放射性物質が検出された水しか手に入らず、それを飲まざるをえない状況に追い込まれ、飲もうとするたび苦渋の決断を強いられる日々までは想像されていません。また、その水を飲んだ母親の母乳を赤ちゃんに飲ませるという過酷な決断を授乳の度に迫られていたことも知られていません。
私が避難するまでの2ヶ月間は、最も空間線量が高く、子どもたちを屋外に一切出さず室内で缶詰状態、3歳児の外遊びは何時間も車を走らせ県外の公園へ連れ出す、ベビーカーを押して夕飯の食材の買い物もできないなど、「ふつうの暮らし」が奪われていく毎日でした。洗濯物を外に干すか干さないか、この食材は食べてよいのかどうか、と生活全般の細部にわたり、いちいち自問自答し、苦渋の決断を迫られるという経験をしました。しかし県外に出ると、原発事故を経験していない600kmも離れた土地ではその一切が本当に何も知られていないことがよく分かりました。
週末が来るごとに子どもを連れた世帯が引っ越しトラックに乗って県外へ逃れていくのを「被ばくの恐怖」を抱きながら目の当たりにし、「私はどうやって子どもたちを放射能から守っていけばよいのだろう」と人生で最も悩み苦しみました。原子力災害を知らない人々にはこの苦しみはまるで知られておらず、「どうしてお父さんも一緒に避難しないの?」と聞かれ続ける10年でした。
原発賠償関西訴訟の提訴記者会見
(2013年8月、大阪弁護士会館)
そうしたことから、避難したくてもできない人の存在や声は当然誰にも知られていません。
私には一緒に出産した生まれも育ちも福島県民のママ友だちがいました。彼女は被災直後から、他のどのママ友だちよりも避難を切望していましたが、夫も福島県出身、県外に親類縁者もないため、避難のための公的制度がなければ避難は困難です。
せめて「保養」で定期的に子どもを放射能汚染のない土地に少しの間でも出したいと願っても、10年経ってもそのような被ばくからの防護、被ばく低減のための施策や制度は公的には何ひとつ確立していません。保養情報を頼りに関西にやってきた際の数日間、私の避難先に滞在した彼女は、子どもたちが寝た後に、「年に1回、1週間や10日くらい保養に出しただけで放射能から子どもを守れているなんてとても思えない。でもこれが私にできる限界だから…」と涙を流したとき、私はこの声は一体誰が聞き届けてくれるのかと思いました。放射能は無差別にばらまかれているのに、大切なわが子の命は平等には守れていないのではないか、と。
「10年も経ったらそれ、移住だよね」と言われることがあります。放射性物質の半減期や、放射性核種はセシウムやヨウ素だけでないことなどを知らない人は多く、放射能災害の実態がいかに理解されていないかがよく分かります。避難を続ける理由や放射能汚染が撒き散らされた現実と、10年にわたり真剣に対峙している人々の苦労や苦悩が何ひとつ知られておらず、放射能汚染の事実と実態が理解されていないと感じます。
福島県をはじめとする放射性物質が飛び散った被害地では、人々、特に被ばくに脆弱な子どもを育てる世帯がどれほど注意を払い、目には見えない放射能と向き合い続け、必死で被ばくから身を守ろうとしてきたのか、この10年間の経験は、全く共有されていません。
その結果が、福島原発事故はまだ何ひとつ終わっていないし、問題が何も解決されていないのに、福島から遠く離れた九州や関西の原発が、まるで何事もなかったかのように稼働され始めるという現実なのだろうと思うのです。
原子力を国策としてすすめた国が、そして原子力産業により莫大な利益を得る東京電力が、きちんと責任をもって放射線を管理し、管理できない状態になればすみやかにそれを知らせ、状況をつぶさに隠蔽せず公表し、汚染状況を詳細に周知徹底し、危険については警鐘を鳴らし、適切な避難の指示・勧告、そして被ばく防護のための制度と適切な保障を行わなければ、一般の人々は逃げることはもちろんのこと、被ばくから身を守ることは容易ではありません。
高いハードルを越え、避難を決断しても叩かれます。「歩く風評被害」「復興を妨げるな」とSNSやインターネット上には特に「自主避難者」を厳しく非難する言葉が並び、バッシングを受け続けます。事実を語る口がふさがれる様は、言論の自由も奪われるに等しいのです。鼻血が出たから、子どもが体調不良でと避難しても、大丈夫?と気遣うのではなく、「ヒステリック」「ナーバスだ」「放射脳」などと揶揄される。「避難を非難」する社会の歪み、それに付随して差別や偏見が横行し、大人社会の写し鏡のように原発避難の子どもたちがいじめに遭う。これらも原発事故のもたらす重大な人権侵害です。
あの時、どれだけの放射線を浴びたのかも分からない上に(初期被ばく)、私たちは汚染された水を飲み(内部被ばく)、たとえ直ちに影響はなかったとしても(放射能被害の晩発性)、一生涯、自分や子どもたちに出てくるかもしれない健康被害の可能性と向き合っていかなければならないという現実があります。承諾していない無用な被ばくを重ね、持続的被ばくにより「生涯積算被ばく量」を加算させられたのです。それは避難していてもとどまっていても同じです。「不安」だとか「心配」とか、そのような軽微な形容で言い表されるものではありません。明確な命や健康に対する基本的人権の侵害が、あの日から間断なく続いているのです。現実に起きた「被ばく」が原子力災害の問題の本質であり、そこから目をそむけてはいけないし、被ばく問題をタブー化してもいけないのです。
責任を問われる側が被害を矮小化するための「線引」により賠償や支援に不条理な格差・差別を持ち込んでいますが、被害者同士が分断させられてはならないと思います。避難する・しない、帰還する・しないの選択は、本来私たちが「強いられ」て選択をするのではなく、客観的事実に基づいて、正確な情報が開示されることによってはじめて判断が可能となり、尊厳をもって自己決定することができるのです。
そしてどの選択をしても、全ての人に無用な被ばくをしない権利、命を守る権利、健康に生きる権利が、基本的人権としてあるのです。「被ばくからの自由」は、福島原子力惨禍の被害者だけでなく、地球上に存する全ての人にある普遍的な権利として存在するのです。「放射線被ばくから免れ健康を享受する権利」は、誰にでも等しく与えられるべき基本的人権です。人の命や健康よりも大切にされなければならないものはあるのでしょうか?無用な被ばくから免れ、命を守るという権利を手放さないという一点でしっかりとつながり、避難した人、とどまる人、帰還した人それぞれが必要な施策の実施、例えば避難した人は避難の権利を、とどまる人は健康モニタリングを定期的・継続的に受ける権利や最高水準の医療を受ける権利、帰還した人は定期的な保養の権利などを訴えていくことで、きめ細やかに被ばく防護の対策を網羅することが可能となり、一人ひとりの大切な命が実質的に守られると思うのです。そういう社会に変えていく使命と責任が、3.11後を生きる私たちすべての大人にはあるのではないでしょうか。「誰の子どもも被ばくさせない」、そんな未来を子どもたちに手渡したいと思います。
注:
筆者は、「原発賠償関西訴訟原告団代表」と「原発被害者訴訟原告団全国連絡会共同代表」を兼務。著書に、『災害からの命の守り方-私が避難できたわけ-』(文芸社、2021年)、『母子避難、心の軌跡』(かもがわ出版、2013年)など。