特集:東日本大震災から10年のいま
東北は、外国人人口が少なく、散在している地域である。結婚移住女性たちの日常生活は、日本人の家族と日本人の近隣関係の中で営まれており、彼女たちが公的に家族・親族以外の日本人と交わるコンタクト・ゾーンとしては、地域の日本語教室が唯一であるといっても過言ではない。しかしながら、この日本語教室が全ての市町村にあるわけでもなく、なかには物理的に日本語教室が遠方であるとの理由の他に、家族の了承や協力を得られなくて教室に参加できないという人も多くいた。
他方、同国出身者との付き合いは二面性を持っていた。移住女性が現金収入の働き手にならなければならない場合、仕事の紹介やお金の貸し借りまで同国出身者ネットワークに依存しなければならない。その過程で、トラブルも多く、世間にその問題が知られることによって、結婚移住女性たちへの偏見につながる結果になることも多かった。
そのような偏見から逃れるためにも、他の同国出身者とは距離をおく女性も少なくない。閉鎖的で同質性が強い東北で、結婚移住女性としての成功は、すぐに地域に馴染んで、早く「日本の嫁」になることであり、そのために外国人として目立つことを避け、同化するという「戦略的不可視化」を選択して生活する移住女性も多くいた。
ところが、東日本大震災の発災直後には、不可視化されていた移住女性たちの所在を把握し、安否確認することの難しさなどが課題として浮き彫りになった。出身国の大使館や行政側は移住者の本名で安否確認を行うが、周りの人々、場合によっては日本の家族でさえも本名を知らないということで、確認が取れないというケースもあった。外国人被災者の支援活動においても、外側から見えない外国人を探し出すのは難しく、結局、地域のキーパーソンとされる移住女性の情報に依存せざるを得ない支援となった。そのため、そのネットワークに入っていなかった女性たちから、支援から外されたという不満の声があったほどである。
震災後の復旧の段階になると、結婚移住女性の乏しい文化資本および社会関係資本が大きな課題だった(1。滞在期間に関係なく、全体的に低い日本語能力であること自体、日本社会がいかに移民に対する社会包摂の取り組みがなかったのかを物語る。結婚移住女性たちの日本語習得や就労など社会参画に必要な資源の獲得は個々人の力量に委ねられてきた。それ故、多くの移住女性たちは日本で生活する上で必要とされる資本を十分身につけていない。主に、日本人の配偶者に依存して生活するか、水商売や非熟練労働など限定的な職種の仕事に就くしかない。震災は、それらの問題点を浮き彫りにしたのである。
このような事情の中、東日本大震災後の移住女性からの主なニーズは、再就職に向けての就労支援であり、その希望を受けた多くの支援団体が震災後、就労のための日本語教室を開いた。特に、介護のホームヘルパー2級(初任者研修)の資格を得る事業は、被災地ほぼ全域で行われた。震災後の外国人支援の中身は、移住女性が抱えていた就労への脆弱性を改善するための事業に集中していた。
地域の経済基盤の弱さと移住者を包摂する政策が不十分なことが、東北で生活する移住女性をステレオタイプ化してきた。そこに、介護職への就労機会は、地域社会に貢献する女性という新たなイメージづくりにもなると期待が寄せられたのである。震災によって、これまでの仕事ができなくなったことが、むしろ移住女性たちが新たな道を模索するきっかけになったということである。
特にそれを後押ししたのは、外部から入った支援組織であった。地元では、「外国人」と「日本人」を分けるという支援は難しいとされていたなか、一般の日本人と比べ日本語力や情報力、そして人々との関係性づくりの能力が乏しい結婚移住女性たちに、外部からの団体が行った「外国人向け特別支援」はそれまでは手掛けられなかった東北の移住女性たちへの支援として新しい進展のきっかけとなったといえよう。
そして、何よりも大きな変化は、外部の支援団体の受け皿として、結婚移住女性たちが組織を作ったことである。これまでの親睦目的の集まりを越え、支援物資の分配や就労支援の情報提供、外部団体との橋渡し役として、さらには被災地でのボランティア活動、同国出身者同志の自助活動、地域の多文化事業に関係するという社会活動の団体として、移住女性たちのコミュニティ活動が開始されたのである。
2015年4月にEIWAN(福島移住女性支援ネットワーク)が開いた
「福島子ども多文化フォーラム」(主催)。
移住女性たちが子どもへの継承語教育について語った。(筆者撮影)
しかし、このような肯定的変化が明るい未来に直結するとは残念ながら言えない。震災から10年の間、移住女性たちのコミュニティ活動や新たなステップアップのチャレンジが地域社会で受け入れられ、根付いたかどうかは大きな疑問が残る。また、ネットワークにつながることができず、今でも孤立した状態の移住女性も少なくない。
震災前、地元でキムチの商売をしていた移住女性Aさん(66歳・韓国出身)は、震災後地元を離れて食堂を開いたが、持続できず4年で店を閉めた。その後、職業斡旋業者の紹介で、千葉、神奈川、福島、長野を転々としながら飲食店や水商売の厨房で働いた。いずれも2ヵ月を越える職場はなかった。今は知人の紹介で地元に戻って仕事をしているが、コロナ禍のなかで、もし放浪しなければならない状況がずっと続いていると思うとゾッとすると言う。
石巻で被災し、家を流されたBさん(52歳・韓国出身)は、震災後仮設住宅で学び始めた小物作りに新たな自分の才能を見出し、将来に希望を抱き、被災地で行われた手仕事の工房などにも通いながら活動をしていた。しかし、相次ぐ人間関係のトラブルに耐えられず、周りとの関係を絶ってしまった。彼女より15歳ほど年上の夫は退職したので、生計に役立てようと掃除の仕事をしていたところ、ヘルニアを発症し、今では家に閉じこもった生活をしている。
移住女性たちのコミュニティ活動であるが、いくつかはすでに活動を停止、あるいは休止している。「震災復興バブル」が消えたことで助成金を得ることができず活動をやめたケースもあれば、行政からのバックアップもないなか、全ての運営がコミュニティリーダーの力量に任される状態となり、活動そのものに限界を感じている人もいる。なかには分裂してしまった活動もある。一時的な外部支援団体による「外国人向け特別支援」が震災後5年、そして10年という節目で幕を下ろしているなか、残された移住女性の課題は、以前のように個人の選択と責任となっていると言わざるを得ない。
東北の復興は、進んでいるように見える。社会基盤の整備という名の下で、三陸の津波被害地域では次の津波を防ぐとされる巨大防波堤が作られ、地盤沈下した沿岸部のかさ上げが進み、その上に公園や商店街が立つようになった。原発事故による帰還困難区域は次々と避難指示が解除され、住民の不安と葛藤をよそに「人が住めない町から住める町」へと政府による復興が進められている。
しかし個人個人にとっての復興は、社会のパラダイムを変えない限り公平に訪れることはない。人によって、被災の影響と感じ方が違うように、人によって復興の能力も違う。特に社会で生きるために必要な能力の獲得、また利用できる制度や法律などに自力でアクセスすることが難しい人々には、手厚いサポートができる仕組みが必要で、その仕組みこそが将来的に減災対策になるということも忘れてはならない。そして、政治や行政が弱い立場の人々をどうバックアップするのかという議論は、外国人のみならず日本人に対して、どのような社会を目指すのかを問う問題でもある。仕組みなしで、個人の努力に頼る社会は、結局、弱肉強食社会でしかない。
現実、人口減少が激しい被災地はもちろん日本全体に外国人住民の数は増え、彼らの労働力に頼る社会になりつつある。ともに地域社会を支え、災害時に互助するためにも、外国人住民の社会参画を正当化する移民政策が必要であることは何度強調しても足りない。
本稿で文化資本とは、言葉の使い方や振る舞い方、学歴、音楽や絵の文化的素養などに関する資本を指し、社会関係資本は社会組織やコミュニティなど社会の中での信頼関係を含む人間関係を指す。