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国際人権ひろば No.158(2021年07月発行号)

特集:対談「人権はあなたのもの、わたしのもの」-今こそ人権教育を問い直す

対談「人権はあなたのもの、わたしのもの」 -今こそ人権教育を問い直す

馬橋 憲男(フェリス女学院大学名誉教授)
× 阿久澤 麻理子(大阪市立大学大学院教授、ヒューライツ大阪理事)

「日本の人権に対する理解や人権教育は現状のままでいいの? 教育者や研究者はどう考えているの?」
この問いに対し、国際基準の人権教育の推進を重点目標にしてきたヒューライツ大阪として、共に考えるための対談を企画しました。
国連広報センター職員を経て、また大学で人権教育に携わってきた馬橋憲男さんと、人権教育の専門家として大学の教壇に立ち、またヒューライツ大阪の事業に協力いただいている阿久澤麻理子さんとの対談です。伝えるべき人権の「肝」は何か、そのために必要な制度や視点が何かについて熱い議論が交わされました。教育に携わる人たちに議論のボールを投げたいと思います。

(ヒューライツ大阪事務局)

《司 会》
 まず、お二人の印象に残る「人権との出会い」を教えていただけますか。

《馬 橋》
no158_p4-9_img2.jpg 東京にある国連広報センター職員だった1981年に、国際障害者年の事業を担当しました。所長はニュージーランド人で、車イスが手離せない障害者。この経験で私の障害者のイメージががらりと変わりました。海外からたくさんの多様な障害者の代表が来日しました。世界保健機関(WHO)によれば、障害とは心身の機能の不全ではなく、それを理由に差別する社会にこそあります。「障害者のために」という善意の名のもとに当事者の意向を聞かずに決めてしまう日本のそれまでのあり方に疑問を持ちました。

 国際社会においても、世界中の障害者がDPI(障害者インターナショナル)という「障害者の、障害者による、障害者のための組織」を結成しました。2006年に障害者権利条約が国連で採択され、「私たちを抜きに私たちの事を決めないで」(Nothing About Us Without Us)をスローガンに障害者自身がその条約の制定過程に参加するなど画期的でした。

 これが私の人権の「原点」です。人権や人権条約は「飾りじゃない」。残念ながら、日本の人権教育の多くは、この域を出ていないのではないでしょうか。本来、人権や人権条約は自分の身をまもるツールになるべきだと思います。

《阿久澤
no158_p4-9_img1.jpg 私は1985年のプラザ合意で円高が進み、日本がバブル期に向かう中、大学を卒業しました。国際協力に関心があり、国際関係法学科に入学しましたが、法解釈の世界になじめず、世界人権宣言も国際人権規約もみっちりと教えられたものの、そこに書かれているのは自分の権利だという実感がわくような学びを経験しませんでした。そんな学生時代の経験の後に、社会人となって、人権に出会いなおしました。

 最初のきっかけは、神奈川県国際交流協会で、移住労働者の相談を受ける経験をしたことです。売春を強要された女性、製本工場で裁断機に手を挟まれた労働者など、たくさんの相談を受けました。日本で弱い立場におかれている彼/彼女らが、権利侵害に対して、仲間と一緒に声をあげたり、デモをする姿も見たりしました。人権とは「その人」が尊厳ある存在であるための、「その人の権利」であって、侵害されたら回復を求められること、権利を知っていることは、エンパワメントだということが、ストンと落ちて理解できたのです。それは、決して「可哀そうな人への思いやり」などではない、と気づかされました。

 また、国際識字年(1990)のイベントに来日していたインドのゲストが-この人は、先住民の権利を守る活動をしていたのですが-帰国して、すぐに逮捕されたという連絡がありました。今ふり返ると、アジアの多くの国々では民主化運動が広がっていた頃で、人権のために運動をすると、そういう目に遭うのだということにも驚きました。

権利を教えない・学ばない人権教育に疑問

《司 会》
 なるほど、人権は具体的な権利で、侵害されたら回復を求められる、ということですね。でも、学校現場では、そういう教え方はあまりされていませんよね。

《馬 橋》
 それを懸念しています。日本では、人権とは、思いやりや仲良くすること、目上の人に敬意を払うことと説明されるが、大きな疑問符がつきます。その一方、学校でのいじめや教員間の暴力、教員による暴言や体罰も報道されるなど教育現場の人権侵害が問題となっています。多くの教員は忙しすぎて疲弊しているし、そもそも教員は人権についてキチンと学んできていないので生徒に教えられないのではないでしょうか。人権を教職課程の必須科目にすることが大事です。
 ところで、子どもの権利条約の一番の重要なポイントは自分の意見を表明していい、周りはそれを尊重するということです。今、厳しい校則(ブラック校則)見直しの動きが出ています。地毛証明書や肌着の色まで統一することに関して、実際に生徒たちから声が上がり始めています。大阪では元女子高生が、茶色の地毛を黒く染めるよう強要されたとした裁判で、2021年2月に大阪地裁は大阪府に対し賠償命令をくだしました。福岡弁護士会なども独自に校則を調査し、学校や行政に改善を要請し、またいくつかの県の教育委員会が実態調査をして改善を図ろうとしています。

《阿久澤》
 人権の概念がどのように理解(または誤解)されているかを調べるのが私の研究テーマですので、ここで20年ほど前の調査を、紹介したいと思います。ちょうど「国連人権教育の10年」の頃で、1999年~2000年、東京から福岡まで1,736人の学校教員や社会教育の担当者を対象にアンケートを実施し、その中で「人権とは何か?あなたの言葉で定義してください」と自由回答方式できいたのです。すると「人が生まれながらに持っている権利」とか、「思いやり」、「やさしさ」「いたわり」といった回答が最もよく見られました。アンケートは教員研修の会場で実施したので、続く研修会では、「人が生まれながらに持っている権利が人権である」と答えた人に手をあげてもらい、「あなたはどんな権利を持っていますか」と聞いてみました。すると、「自由」「平等」「差別を受けない」などは挙がるものの、回答がほとんど広がらないのです。また、聞いてもいないのに、「権利ばかり言って勝手な人が増えている」という意見が出たり・・・。学校で人権教育を実施する立場にあり、「人権は大切だ」と教えていながら、先生方自身が、実は自分がどんな権利を持っているか、わからない、考えたことがない、という状況や、人権を「思いやり」などの抽象的価値観と同一視していることに、改めて気づきました。

《司 会》
 そうした状況はその後、変化があったのでしょうか?

《阿久澤》
 いまも各地の市民意識調査でも共通する傾向が見られます。人権に関する諸課題をどのように解決したいのかをたずねてみると、法や制度をつくって解決したい、という意見には支持が少なく、皆が思いやりを持つことや、個人の権利主張より義務を大切にすること・・・など、人間関係の改善や徳目的な態度によって解決すべきだ、という意見に支持が多くみられます。しかし、周囲への配慮が高じると、一方で「空気を読み」すぎ、自分のことを自分で決めることができなくなってしまうのではないでしょうか。
 それから、日本では社会権の保障-例えば格差や貧困問題を解決し、生活保障を実現すること-には比較的関心が高い一方で、自分の思想・信条の自由といった自由権に関する関心は相対的に弱いと感じています。

国内(国家)人権機関の不在が大きな問題

《司 会》
 ところで、日本の人権教育が直面している課題の背景には、何があるとお考えですか。

《馬 橋》
 日本に国内人権機関がないことが人権教育の推進にも大きなマイナスになっています。この国内人権機関をご存じですか?英語ではNational Human Rights Institutionです。「国内人権機関」と訳されることが多いですが、私は、「国家人権機関」と呼ぶことを提案しています。今回はヒューライツ大阪に合わせて、国内人権機関と言います。国内人権機関というとNGOの一つにすぎないような印象がありますが、それは国立であり、実質的に国の人権の最高機関に準ずるものだからです。国内人権機関は総称で、その名称は国によって〇〇委員会、○○オンブズマンなどまちまちです。
 国内人権機関はすでに約120カ国に設立されていて、その役割をずっとウォッチしています。いわゆる先進国で無いのは日本と米国です。アジアでは日本と中国にはありません。私は、国連が各国の人権状況について、国内人権機関抜きで審査するのはほとんど実効性がないと思います。それは政府から独立した、客観的な評価と情報が不可欠だからです。

《阿久澤》 
私も、国際基準の人権を浸透させていくには、国内人権機関が重要だと思います。それは国内人権機関が、人権侵害の調査や、国の政策に対する勧告を行う場合に、国際人権基準をベースにするからです。公的機関でありながら、第三者機関として国家から独立した位置から、やっていきます。

《司 会》
 国内人権機関が本当に政府から独立しているか、どのようにチェックするのですか。

《馬 橋》
 その国の自己申告ではありません。国内人権機関の世界組織である国内人権機関世界連盟(GANHRI)が人員構成、予算、活動などについて厳しい基準を設けており、それに沿って5年ごとに審査をします。これで「A認定」を受けた国内人権機関は国連人権理事会や各条約委員会に出席し、発言する権利が与えられます。ちなみに隣りの韓国、それに後で出てくるスリランカもA認定です。日本政府は法務省下の人権擁護組織をもって国内人権機関と説明していますが、国際社会では受け入れられていません。

《阿久澤》
 日本でも国内人権機関がほしいとの思いで、2000年代の始め、海外の調査をしたのですが、その一つがフィリピンの国内人権機関である「国家人権委員会」でした。国連に提出されるフィリピン政府の報告書はすばらしいことが書かれているけれど、草の根の人びとは、自分の国が締約国となっている人権条約をどのように学び、理解し、また自分の暮らしをよくするためにそれを「使って」いるのか、興味があったからです。私が5カ月滞在した地方人権委員会で見たのは、本当に山奥の村々までジープに乗って「人権セミナー」の研修にでかけていくスタッフの姿でした!もちろん、1回訪れただけで国際人権基準が浸透するわけではありませんが、皆で集まることの楽しみも含め人々が人権基準を積極的に学ぼうとしている場面に立ち会う機会を与えられました。

《馬 橋》
 国内人権機関は学校や市民に対し、人権について幅広い活動をしています。子どもたちを含め、人権侵害された人たちの相談の受け皿として調査をし、必要があれば政府や自治体などへ勧告をします。裁判での救済は時間やお金がかかるから、身近で準司法的な機関として設けたのです。日本はこの国内人権機関を設立するように、国連から勧告を何十年も受けています。アジア・太平洋地域の25カ国の国内人権機関がAPF(アジア太平洋国家人権フォーラム)を結成しています。

《阿久澤》
 日本は、まだ国内人権機関がないので、APFのような地域的な機関からの情報が入ってきません。ASEAN(東南アジア諸国連合)内でも人権の取り決めがあり、国を越えて協力しながら人権保障に取り組めることも大きいと思います。ハッキリ言って日本は、そうしたネットワークから脱落しています。

人権教育と人権救済は両輪の輪

《阿久澤》
 それから、日本では今のところ、人権侵害の救済は裁判所です。人権の擁護(プロテクション)と促進(プロモーション)は車の両輪ですが、擁護・救済のシステムがきちんと構築されなければ、いくらプロモーションとしての人権教育を進めても、人権は「絵に描いた餅」になってしまいます。人権教育を推進すれば、市民は権利の主体としての意識を高め、侵害された権利の回復を求めて声をあげるようになりますが、そこには救済機関としての国内人権機関がないからです

《馬 橋》
 人権の保護と人権の促進(人権教育はここに含まれる)は補完的な関係です。その人権教育では国内人権機関が大きな役割を果たしています。あくまでも人権が普遍的であるということ(いつでも、どこでも、誰でも人権がある)に鑑みた形で人権を教える。そのためにGANHRIやAPFでは、国連と協力し、各国の国内人権機関スタッフのために毎年研修を行っています。人権教育の教え方や問題点について情報交換し、経験を共有しています。
 しかし、日本には国内人権機関がありません。そのときの政府の意向や思惑ではなく、日本をはじめすべての国連加盟国で作成した国際基準に基づく人権教育の実施を目指し、地方自治体に子どもの権利擁護機関として「子どもオンブズマン」、或いは「子どもオンブズパーソン」と呼ばれるシステムを作る動きが出てきました。1999年の兵庫県川西市からスタートし、今では約35の自治体でできています。これらの機関は「第三者機関」としてやはり自治体から独立し、予算・人材等は自治体の方で提供します。ここでも学校や市民対象の人権教育をやっています。学校でいじめなどの人権問題があればいつでも相談できます。そして調査して必要があれば、解決を図ります。この動きが全国に広がるよう期待しています。

《阿久澤》
 言わば、オンブズパーソンのシステムが、人権教育・啓発・研修と、救済の両方を担っている点で、国内人権機関のない日本では先進的な取り組みと言えますね。

「人権はあなたのもの、私のもの」という実感が持てる教育を

《阿久澤》
 ようやく設立されたオンブズパーソンに、子どもたちが相談を寄せるようになるには、子どもたち自身が、権利の主体としてエンパワメントすることが必要で、人権教育はそうした役割を担っていますよね。
 このことに関わって私は、これまで日本で行われてきた同和教育をはじめとする反差別の教育が、重要な役割を果たしてきたと考えています。それは、こうした教育が、マイノリティの子どもたちに、「君たちは一人の人間として大切な存在で、差別を受けることは不当なことだ」と教え、権利の主体としての意識化と、エンパワメントを行ってきたからです。
 また、同和教育をはじめとする反差別教育は、徳目的であるとの批判もありながら、繰り返し「差別はいけない」ことを教え、差別は「差別する側の行為」を問題だという視点を社会に定着させました。国際人権条約でも、差別は「人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と記されていますが、「妨げ」「害する」のは、差別「する側」です。こうした理解を進めて行けば、差別禁止法(差別「する」側の行為規制)への道筋ができると思います。

《司 会》
 かつて大阪府の東部にあった私の学校では被差別部落やコリアンへの差別意識を持つ人たちが少なくなかったです。大人社会の写し鏡ですね。同和教育が進展する中で、侮蔑的な言葉に直面することが激減。反差別教育の成果です。
 でも当時は、他の人を差別してはいけないことと同時に、自分もまた差別されない、人として大切にされる存在であるというメッセージが十分ではなかったように思います。
 「学校と人権」にかかわっては、まだまだ課題がありますが、変化の兆しがありますか?

《馬 橋》
 若者が集まって作った、ある一般社団法人が実施したアンケート調査によると約7割の児童生徒が、「自分たちが声をあげても学校は変わらない」と回答しています。こうした中で従来、教員、保護者がもっぱら決めていた校則の見直しと運営に少しずつ子どもたちの声が入り始めたのではないでしょうか。
 先に取り上げた校則のような身近な問題を自分たちで決められない、決めてこなかったということが大人になってから影響してくると思います。このような実践的な経験を積み重ねてこないので、どうも選挙に行ってもあまり変わらない、意味がないということで低い投票率になったりとか、一番心配されるのは日本の若者の自己肯定感が外国に比べてきわめて低いことですね。

《阿久澤》
 そのために必要なのが「Rights Based Approach-権利基盤型アプローチ」で、私たちが人権の主体だということを根本にすえよう、という考え方です。あなた自身が権利の主体で、それを行使できるのだと、教える必要がありますよね。当時16歳のスウェーデンのグレタ・トゥンベリさんが、2019年に「気候危機は、子どもの権利危機」として国連子ども権利委員会に救済を訴えましたが、それは彼女がそういう教育を学校で受けていたからです。
 でも、人権教育は単に、「強い個人」として自分の権利を主張できるようになることだけをめざすのではない、とも思います。自分の生きづらさや、しんどい、弱い部分も含めて、語り合ったり、共感しあえるつながり...「べてる流」の-北海道浦河市にある「べてるの家」の活動の理念である-に言うところの「弱さの情報公開」ができる関係性、それが人権実現に向けた協働の歩みにつながるのだと思います。

先生へのメッセージ:社会の現状をもっと確かな視点でみること

《司 会》
 議論したいことはまだまだあるのですが、「締めの言葉」として、教育に携わっている読者に、今これだけは伝えたいというメッセージを

《馬 橋》
 今起こっている問題を「人権」の視点から、子どもと一緒に考えていただきたい。入管法の改定-改悪だと言われているが-、それが廃案になったというニュースを最近聞きました。入管収容施設でスリランカ出身の女性が死亡したという事件が起き、SNSでもリアルでも市民社会から大きな抗議の声が上がったことが、その大きな要因だと思います。こうした入管行政のチェックは、本来なら国内人権機関の役割です。拷問等禁止条約でも政府から独立した監視機関を設けよといっています。ちなみにスリランカには「A認定」の国家機関があり、入管施設や刑務所などの視察を定期的に実施し、その結果をホームページで発表しています。
 外国人技能実習生の問題もニュースを読んであまりの悲惨ぶりに衝撃を受けました。「技能実習」とは名ばかりで単純労働で低賃金、劣悪な労働環境、生活環境に置かれ、自殺者など多くの犠牲を出しています。これをわれわれが放置していることが気になります。
 校則見直しのうごきについては、国際社会の監視、SNSの動きが連動しています。国連気候行動サミットでも、グレタ・トゥンベリさんが大人たちの責任として温暖化対策を訴えた。これに呼応して世界中の若者が立ち上がり、気候変動に関する世界的なネットワークが作られた。日本でも「Fridays for Future Japan」が設立されています。
 そして森前五輪組織委員会会長の女性蔑視発言です。この発言は大きな社会問題になりましたが、はじめはすぐに世間から忘れさられるだろうなという懸念を持ちました。そうしたところにドイツ、フィンランド、スウェーデン等のヨーロッパ諸国の駐日大使館、それに国連機関が、「沈黙しないで」(Don't Be Silent)という言葉と「ジェンダー平等」(Gender Equality)のメッセージをツイッターで流したことが、ずいぶん後押ししたと受け止めています。
 人権は普遍的で、すべての人に保障されているということ、あなたの人権はその国だけではなくて、国際社会全体で見守っているということ。そして、自分の意見を言葉や行動で表明するのはあなたの大切な権利であるということを子どもたちにぜひ、ぜひ伝えていただきたい。

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《阿久澤》
 対談の冒頭で、日本の人権教育は、「良き人間関係」や徳目的価値を教えることと混同されてきた、と話しました。人権教育というのなら、権利を教え、それが学ぶ人のエンパワメントにつながるものでなければなりません。権利を教えない人権教育なんてありえない。
 しかし、このことすら十分浸透しないうちに、さらにひどい「人権誤解の変異株」が生まれています。その一つが「現代的レイシズム」とよばれるものです。これは、あからさまな偏見を表現する「古典的レイシズム」-例えば「〇〇人は能力が低い」などといった、あからさまな表現-とは違い、政治的主張を装いながら、「差別なんて、もうない」「問題があるとすれば、それはマイノリティの努力不足のせいだ」「それなのに、マイノリティは差別があると言っては過剰な要求を行い、不当な特権を得ている」というような言説を展開します。現代的レイシズムは、正当な権利の主張を「特別扱いの要求」だと揶揄し、抑圧します。
 また、海外では、かつてのミドルクラスであった白人労働者階級が-本来なら白人は「特権」を持つマジョリティのはずですが-、グローバル化や産業構造の変化によって、経済的・社会的なはく奪感、政治的影響力の喪失感を強く感じるようになった状況を、ジャスティン・ゲスト(<参考>参照)は「新たなマイノリティ」と表現しています。彼/彼女らは、「福祉制度は移民にばかり得をさせる」といった差別的な考え方のために、本来は自分の暮らしを守るはずの福祉制度をも批判し、ダメにしてしまうというのです。「新しいレイシズム」は、こうやって人権の根っこを掘り崩していってしまうのです。
 変異株と言いましたが、こうした「ねじれた」人権観が、私たちの社会を侵食しはじめています。そして、インターネットがこうした声を拡散しています。ネットの世界は、新型コロナ・パンデミック下でますます影響力を強めています。
 そんな中で、私たちはどうやって「権利」を正面から教え・学び、また仲間の感覚を育み、人権の実現のために一緒に行動することができるのか、そしてねじれた声に立ち向えるのか...それが、今の人権教育に問われていると思います。

<参考>

  • 馬橋憲男「日本の人権はどこへ行くのか-国際標準の『国家人権機関』設置と『個人通報』容認を-」、国際交流研究(フェリス女学院大学国際交流学部紀要)第22号(2020年)
  • 馬橋憲男『国連とNGO-市民参加の歴史と課題』有信堂高文社(1999年)
  • 阿久澤麻理子「第12章 グローバルスタンダードとしての人権教育の展開-国際社会における人権教育の原則とは」『人権論の教科書』(学問へのファーストステップ4)ミネルヴァ書房(2021年)
  • ヒューライツ大阪 編/金子匡良・白石 理 著/ippo. 絵 『人権ってなんだろう』解放出版社(2018)
  • ジャスティン・ゲスト著/吉田徹他訳『新たなマイノリティの誕生-声を奪われた白人労働者たち』弘文堂(2019年)
  • 「人権とはなんでしょう」ヒューライツ大阪ウェブサイト https://www.hurights.or.jp/japan/learn/

※記事に挿入されたイラスト3点は、
 上記の『人権ってなんだろう』の絵(作者/ippo.(田中 一歩))から転載

対談を終えて

 「人権教育とは何か」という問いに対しては、 「人権×教育」のいろんな側面からの答えがあるでしょう。しかし、 「人権とは何か」の答えは共通に持つべきだと再確認しました。国際社会で共通に理解されている人権の考え方と人権条約をはじめとする人権基準、そして人権保障のシステムを学んでこそ、今、生きている社会で自分の人権が守られる一歩になります。「国内人権機関」は残念ながら、まだ知らない人が多いです。そして、社会を視る視点を研ぎ澄まし、子どもたちと一緒に考えることが大事だという指摘はすべての大人が聴くべきメッセージですね。
 さらに対談では、障害者、女性、子どもの現状や人権実現への取り組みが紹介されましたが、社会で周縁化されている人たち(=マイノリティ)の人権は当事者が声をあげ、アクションを起こす中で前進しました。
 その一方、阿久澤さんがふれているように、世界の各地で-日本も例外ではなく-マイノリティの主張や差別の存在自体を否定するような「新しいレイシズム」が拡がっています。次の企画で議論したいテーマです。
 新型コロナ・パンデミック下で、ますます時代に即した人権教育の必要性を痛感します。教育に携わる人たちと継続して議論を交していきたいものです。ぜひ皆さまの感想をお待ちしています。

(ヒューライツ大阪事務局)