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国際人権ひろば No.159(2021年09月発行号)

特集:反人種主義を議論した世界会議「ダーバン会議」から20年

ダーバンの輝きはどこへ行ったか-反差別の闘いを再構築するために

前田 朗(まえだ あきら)
朝鮮大学校講師

ダーバンへの道

 2001年8月31日から9月8日、南アフリカのダーバンで国連人権高等弁務官主催の反差別世界会議(ダーバン会議)が開かれた。正式名称は「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に反対する世界会議」である。
 国連史上最大規模の反差別会議で、1万人とも2万人とも言われる人権活動家(人権NGOメンバー)が侃々諤々の大激論を闘わせ、「ダーバンNGO宣言と行動計画」注)を策定した。政府間会議には世界約200カ国の代表が参集し、「ダーバン宣言と行動計画」をまとめ上げた。
 メアリ・ロビンソン人権高等弁務官(元アイルランド大統領)は開会式において、アパルトヘイト(人種隔離政策)を撤廃して人種差別を克服する世界史的な挑戦をリードしている南アフリカのダーバンで反差別世界会議を開催する意義を高らかに宣言した。
 国際社会は人種主義と人種差別に苦しんできたが、1993年のウィーン世界人権会議において改めて人種差別の撤廃を呼びかけた。3度の「人種主義及び人種差別と闘う10年」を踏まえて、「国連・文明間の対話の年」、「世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化の10年」、及び「先住民族の国際10年」と並行しながら、ダーバンへの道を歩んだ。ストラスブール、サンティアゴ、ダカール、テヘランで開催された地域会議、及びジュネーヴの国連欧州本部での準備会議を通じて、ダーバン会議の輪郭と青写真が次第に浮き彫りになっていった。ダーバンに反差別の諸思想が奔流のごとく流れ込み、互いにぶつかり合い、新たな理念と希望を紡ぎ出すフィールドが現出した。
 それから20年の歳月が流れた。国連人権理事会はダーバンから20年の歩みを振り返り、「ダーバン・フォローアップ作業」を再点検し、次へ向けてのステップを議論している。
 だが、ダーバンで燃え上がった反差別の炎は必ずしもその後の国際社会をリードしたとは言えない。国際社会は当時よりも深刻な人種差別に喘いでいる。日本ではダーバン会議の意義が十分に認識されないまま20年の歳月を徒過してしまった印象も否めない。

ダーバンの闘い

 世界各地の反差別運動のエネルギーがダーバンに注ぎ込まれた。ありとあらゆる国、地域、人種・民族からの代表がダーバンで論戦の火花を散らした。言語、宗教、皮膚の色、世系を越えて、性別や性的指向・性的アイデンティティを越えて、反差別の運動論と法理を鍛え上げるアリーナである。
 最終的に採択されたダーバン宣言は122項目、ダーバン行動計画は219項目の長い文書となった。国際社会が抱える人種主義と人種差別の主要問題が集約され、分析され、対策が練り上げられた。「約束の土地」が垣間見えた瞬間である。数々の論争点のうち主要なものを確認しておきたい。
 第1に、植民地支配と人道に対する罪をめぐる論争が最大のテーマとなった。1990年代前半、国連国際法委員会が「植民地支配犯罪」概念を提起した。1990年代後半、旧ユーゴスラヴィア国際法廷とルワンダ国際法廷は、ジェノサイド(集団殺害)や人道に対する罪の有罪判決を次々と出した。これを受けた議論の中で、かつて植民地主義の犠牲となった「第3世界」諸国は「植民地支配は人道に対する罪であった」と主張した。欧米諸国を中心とする旧宗主国側は防戦に徹した。結局、植民地支配そのものではなく「植民地時代の奴隷制は人道に対する罪であった」ことが認定された。
 第2に、被害者の認定である。アフリカ人とアフリカ系人民、アジア人とアジア系人民、及び先住民族を筆頭に、移住者、難民、難民申請者など国民でない者に対する外国人排斥問題が掲げられた。さらに若者、女性、被害を受けやすい集団が確認され、貧困、低開発、周縁化、社会からの排除、経済不均衡が俎上に載せられ、武力紛争と人種主義の関係が指摘された。
 第3に、奴隷制、奴隷取引、大西洋越え奴隷取引、アパルトヘイト、ジェノサイド等の悲劇の犠牲者への謝罪と尊厳の回復、及び補償の道義的義務を認めたが、法的義務には言及がない。個別の具体的な差別被害には補償の法的義務が確認された。
 個別の論争点の中でも特に焦点となったのは、第1に、ホロコーストの理解であった。ホロコーストとはユダヤ人が被った史上最大かつ唯一の被害なのか、それとも世界各地で多様なホロコーストが起きたのかをめぐって論争が繰り広げられた。第2に、イスラエルによるパレスチナに対する「侵略」と「差別」をいかに認定するかも激しい論争を巻き起こした。結局、アメリカとイスラエルがダーバン会議を途中ボイコットすることになった。

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ダーバン会議の全体会場(筆者撮影)

ダーバンからの道

 当初予定よりも一日遅れて9月8日にダーバン宣言・行動計画が採択された。立場により評価は様々であるが、国連史上初めて「奴隷制は人道に対する罪」と認め、謝罪と補償に言及した意義は甚大である。
 閉会式で、ズマ南アフリカ副大統領は「ダーバン宣言は到達点ではない。ここからの道をいかに歩むかが問われている。私たちは人種差別との闘いという最大の課題にこれから挑戦するのだ」と、闘いの始まりを宣言した。
 舞台は世界中に広げられた。地球そのものがダーバン宣言の主要舞台となった。政府も企業も人権NGOも反差別のために多様な取り組みを始めた。旧宗主国でも植民地における過去の残虐行為の再調査と謝罪が始まった。
 その集約作業はジュネーヴの国連人権高等弁務官、国連人権理事会、各種人権条約に基づく委員会(特に人種差別撤廃委員会)に委ねられた。人権高等弁務官はあらゆる機会をとらえてダーバンの成果を召喚し、人権理事会は「ダーバン・フォローアップ作業」を毎会期の優先課題とした。人種差別撤廃委員会は相次いで一般的勧告をまとめ上げ、人種差別との闘いを加速させた。
 だが、ダーバンからの道は平坦ではなかった。アメリカとイスラエルはダーバンの成果を非難し続けた。ダーバン宣言採択から3日後の9.11(同時多発テロ)は世界を暗転させた。「テロとの戦い」と称する「人種差別戦争」が仕掛けられ、アフガニスタン、イラク、シリアをはじめ戦場が拡大し、宗教対立、資源紛争、地域紛争が激化した。旧植民地宗主国(西欧諸国)も「ダーバン・フォローアップ作業」に十分取り組んだわけではなく、西アジア・中東・アフリカ北部からの難民問題が事態をさらに複雑にした。ブラック・ライブズ・マター(BLM)、イスラムフォビア(イスラム嫌悪)、アジア系差別が語られ、ミャンマーのロヒンギャ迫害やパレスチナへの空爆が続く。

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会場敷地内で日本の戦争責任・植民地支配を問う
韓国のNGOによるアクションに合流する筆者(左から2番目)

そして、日本のわたしたち

 日本の人権活動家も「ダーバン2001」というネットワークをつくり、ダーバンに乗り込んだ。それ以外にも多くの人権活動家や研究者がダーバンの熱気を体験した。日本の具体的状況に即してダーバンからの道をいかに歩むか、それぞれの格闘が始まった。だが、ダーバンからの道は細く険しく、たどたどしい歩みを余儀なくされた。
 主要な差別被害者は在日朝鮮人、アイヌ民族、琉球民族、被差別部落出身者、難民・難民申請者、移住者、「技能実習生」など多様であるが、第1に、日本政府が最大の差別者として立ちはだかった。朝鮮学校の高校無償化除外問題、排外的で人権無視の入管問題に見られるように、政府が差別政策を推進している。第2に、ヘイト・クライム/スピーチの悪化と増加である。朝鮮人に対するヘイト・クライムには長い歴史がある。インターネット上のヘイト・スピーチ(オンライン暴力)は猖獗(しょうけつ)を極めている。ヘイト抑止の闘いは始まったばかりである。第3に、多様な差別が交差する複合差別の被害が意識されるようになった。
 国連人権理事会における普遍的定期審査(UPR)や、人種差別撤廃委員会の日本報告書審査に際して「人種差別撤廃NGOネットワーク」などのNGOが努力を続けているが、差別撤廃に向けて国家と社会を変えることは今後の課題である。反差別の闘いの再構築が急務である。



注:

ダーバン会議の宣言と行動計画の翻訳テキスト
https://www.hurights.or.jp/archives/durban2001/(ヒューライツ大阪)