特集:難民条約の加入から40年の日本
1975年にベトナム戦争が終結した。南北ベトナムは、現在のベトナム社会主義共和国へ統一し、旧南ベトナム政権関係者の弾圧や南部の急進的な社会主義政策の導入を理由に、多くのひとたちが難民として海外に脱出した。さらには1970年末のカンボジア・中国との関係悪化、西側諸国からの経済制裁によって不安定な社会・経済状況が継続する。このような情勢のなかで、新天地を求め難民としてベトナムを脱出する人たちが相次いだ。難民の流出は、1990年代まで続き、その総数は約140万人にのぼるという。漁船による密航は、途中で嵐や海賊の襲撃など、命を落とすおそれもある非常に危険なものだった。
難民のなかには、海上漂流中を商船などに救助され、日本の港に降ろされたひとたちもいた。西側諸国、とくにアメリカからの要請もあり、日本はこれらベトナムからの難民と同時期に難民が発生していたラオス・カンボジアを含んで、79年に「インドシナ難民」として定住を認める。インドシナ難民の受け入れを契機として、日本政府はようやく内外人平等を旨とする国際人権規約と難民条約を受け入れたのであった。インドシナ難民が「第二の黒船」(田中2013)とよばれる所以である。とはいえ、日本の難民受け入れ政策や支援は十分とはいえず、就労や日本語教育、こどもたちの進路保障など多くの課題を抱えている。しかし、慣れ親しんだ土地を離れ、異文化社会に生きながらも人々は、生活を再建し、次世代を育んできた。ベトナム難民が受け入れられて約43年。ゼロから日本での生活をはじめた難民たちが、異文化社会で「居心地のよい空間」を創造する過程を食べることに関わる営みから捉えたい。
新しい土地で生活を営むには、生計をたて、次世代を育み、移住先の他の住民たちとの「共生」が課題となる。移住先の社会に影響をうける一方で、自身の文化に基づいた生活習慣を維持できることも、自身の身体と精神の安定には肝要だ。
食文化の違いは、自然環境と食材の流通システムが異なっていることと同義であり、自然環境や流通システムの差異が大きければ大きいほど、故郷の食材の入手は難しくなる。自分が食べたい食材や料理を提供してくれる食材店やレストランがない場合もあるし、あったとしても高価で日常的な購入はできないかもしれない。そのため、人びとは無意識的か意識的かに関わらず、食べ慣れたものを食べたい欲求を抱えながら、妥協し、日本での新たな生活に対応しながら、自分なりの食生活を組み立てていくことになる。
本稿では、筆者がベトナム難民の受け入れ施設が設置され、現在も多住地域の一つである兵庫県姫路市にて断続的に実施してきた調査の結果に基づき、その食材調達の変化から人々が食べるために紡いできた関係性について述べる。
ベトナム人たちが日本での生活をはじめた1980年頃は、東南アジアの食材店は少なく、まして姫路市やその近郊には皆無だったといってもよい。移動手段も限られているため、近くのスーパーで日本の醤油を買って、炒め物を味付けしたり、袋麵に野菜をトッピングして食べたりしていたようだ。
神戸市に南京町があることが次第に知れ渡ると、定期的に買い出しに出かけ始める。ベトナムと中国の食文化には類似した食材があるからだ。例えば、ビーフンのような米粉にタピオカ粉をまぜた麺、魚醤や、八角などのスパイスは南京町にいけば調達できる。ベトナム人のなかには華人もいて、その人たちが南京町の存在を他のベトナム人たちに伝えたようだ。自動車免許を取得し、車での移動が可能になると、行動範囲が広がり、乗り合いで定期的に買い出しいくこともあったようだ。
さらに、1986年にベトナム本国がドイモイ政策へ転換し、市場経済が導入されると外貨獲得を視野にいれて難民を含む在外ベトナム人の一時帰国が奨励されるようになる(古屋2009)。一時帰国によって離散した家族が再会すると、そのことにより他国に受け入れられた親類たちとの交流も活発化していった。ある世帯は、アメリカの親類に日本製の毛布を送る代わりに、魚醤や砂糖漬けのフルーツなどベトナムの食材を送ってもらっていた。アメリカはベトナム人をはじめとして、アジア系移民のコミュニティが形成されている。そこで生産・流通している食材が、親族ネットワークを通して日本の難民家族の元に届く。ベトナム料理に用いられる食材だからといって、必ずしもベトナムから取り寄せる必要はないのだ。
一方、日本での食材調達の方法も拡充していく。例えば、ベトナムでは豚の足やホルモンなどを食べる文化があるが日本ではあまり一般的ではなかった。そのため、それらの食材を扱う姫路の朝鮮食材店にいって購入したり、神戸市長田区の徳之島出身者が経営する多様な部位を取り扱う精肉店で購入したりする人がいた。同地域もベトナム人が多住地域であり、知り合いから聞きつけたのだろう。もっと身近な場所では、姫路の食肉センターで働くベトナム人がセンターで安く購入した肉を知人にお裾分けすることもあった。類似した食文化をもつ他のエスニシティの人々が経営する食材店を利用したり、親族や知人のネットワークを駆使したり、または職場で日本人などの他の地域住民と関係を結ぶことで必要な食材を手に入れていたのだ。
近年ではグローバル化のなかで日本とベトナムの関係も変わり、在日ベトナム人の人口が増加するとともに食材店の店舗数も増え、インターネット販売などによって必要な食材を手軽に輸入できるようになってきた。しかし、40年の生活を顧みると、自分たちの望む食生活を実現するために、生活再建のなかで国内外に結ばれた人とのかかわりを通じて必要な食材を調達してきた人々の営みが浮かびあがった。
ただ購入したり、誰かからお裾分けしてもらうことだけが食材調達の方法ではない。なかには、潮干狩りにでかけたり、クレソンなどの山菜を摘みにいったり、自宅でニワトリを飼育したり、プランター栽培で必要な香草を育てたりすることを楽しむ人もいる。プランターで物足りない人は、許可をもらって隣人が所有する農地で南国野菜を育てる菜園づくりに励んでいるようだ。
ベトナム人家庭では男性が担う家事の割合は日本の一般家庭よりは多いように思うが、それでも料理などはやはり女性の仕事という見方が一般的だ。しかし、日頃は台所に入りたくない男性たちのなかに、菜園の世話のために自分の時間を費やすことを厭わない人がいる。男女ともに、植物が芽吹き成長する過程を「おもしろい」「かわいい」と愛で、楽しみ、異国で自らの「居心地のよい空間」を創造し、楽しんでいるのである。
食材調達の方法から芳醇なベトナムの食文化を、ほんの一端でもご紹介できただろうか。生計、就職や住居の差別、次世代の進路保障。本国社会との良好な関係構築。難民受け入れから40年以上が経過する現在においても、ベトナム難民の法的地位や生活の諸問題が解決したとは言い難い。「共生」という言葉が叫ばれて久しいが、わたしたちの生きる社会の多様な資源を共有することが「共生」であり、その資源のなかに食を育む自然が含まれていることへの想像にはまだまだ至ってない。それは、日本社会がまだかれらを「よそ者」として眼差している証左なのかもしれない。一皿の料理に詰まった多種な食材の調達方法とその変容は、その40年の生活再建の創意工夫と日本社会が取り組まねばならない課題について示唆を与えてくれる。
< 引用文献 >
古屋博子2009「アメリカのベトナム人-祖国との絆とベトナム政府の政策転換」明石書店。
田中宏2013「在日外国人-法の壁,心の溝(第3版)」岩波書店。