特集:多様性(ダイバーシティ)が実現する社会とは
コロナ禍での東京オリンピック・パラリンピックが今年9月に終わった。「多様性と調和」はこの大会の一つの基本コンセプトであったが、この理念を象徴するかのように東京オリンピックの開会式で演出されたのが、LGBTQ(レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシュアル(B)、トランスジェンダー(T)、クィア(Q)の頭文字を取った略称)のシンボルカラーであるレインボーを連想させる豪華なドレスを着て君が代を歌ったMISIAであった。
MISIAはLGBTQからも大変人気のある歌手である。1998年に大流行した「つつみ込むように...」や「陽のあたる場所」は、家族や友人、社会からの疎外感を感じるLGBTQの心情と重なる部分があり、ありのままを肯定し生きる勇気を与え、特にゲイクラブシーンではよく流れていた曲である。まだ今ほどLGBTQが社会から着目されていなかった時代、MISIAのライブではドラァグクイーン(派手な衣装や化粧をしてパフォーマンスを行う女装家)がバックダンサーとして登場するなど、彼女はLGBTQの良き理解者だった。
そんなMISIAがお茶の間でLGBTQと明確に結び付けられて登場したのが、2019年のNHK紅白歌合戦である。大トリを務めたMISIAは、この時大きなレインボーフラグを前にして「アイノカタチ」を歌った。会場の共演者たちもレインボーフラグを持ち彼女を応援した。国民的イベントでもある紅白歌合戦でのMISIAの演出は、多くのLGBTQに歓迎され感動をもたらした一方、その演出の意図を理解できなかった一般視聴者もいたかもしれない。
そして、2021年東京オリンピック開会式でのMISIAによる国歌斉唱である。紅白歌合戦での大トリを務めるほど、MISIAはすでに国民を代表する歌手となっていた。その歌手が、レインボーを連想させるドレスを着て君が代を歌っている姿を見て、私は少し戸惑いを覚えた。その時すぐに思い浮かんだのが、国家によるダイバーシティの流用であった。LGBTQのアイコンと国家が結び付けられ表象された。東京オリンピック組織委員会は、この大会が「多様性と調和」の大会であり、LGBTQも国家に包摂されているということを主張したかったのだろうか。
この東京オリンピック・パラリンピックが、多くの差別問題に彩られた大会であったことは、すでに様々なところで述べられているとおりである。女性蔑視発言による組織委員会会長辞任にはじまり、開会式の演出家たちによる過去の障がい者いじめ問題やユダヤ人に対するホロコーストの揶揄など、驚くほどの差別問題が、それも開会式の直前になって噴出した。「多様性と調和」は外向きの単なるスローガンにすぎず、その中を見てみれば「多様性と調和」など組織委員会は全く理解していなかったのではないかということが露呈されてしまう形となった。右派政治家にとってオリンピック・パラリンピックという国際的メガイベントは日本の国威発揚の絶好の機会であり、企業にとってはビジネスチャンスでもある。東日本大震災からの「復興五輪」をスローガンに2013年のオリンピック招致には成功したものの、蓋を開けてみれば被災地は蚊帳の外に置かれたままだった。何兆円のカネがたった1ヶ月間のイベントで使われたが、このカネをコロナ対策に使っていれば、どれほどの人たちが救われたであろうか。
2020年の開催予定がコロナ禍によって1年延期となり、開会式自体も当初予定されていた内容とは最終的に大きく異なってしまったようである。しかし変更を迫られたからこそ、逆に組織委員会がオリンピックの「多様性と調和」に対する理解度が分かりやすい形で表面化することとなり、あのような演出となってしまったのだろう。開会式全体の演出は、一貫性がなくチグハグ感が否めないものに最終的には仕上がっていた。
では大会の開催までに、政府はどれほど本気になってこの「多様性と調和」を実現しようとしてきたのだろうか。日本はLGBTQ施策に関して、世界的に見てもその対応は決して進んだ国とはいえない。特に、LGBTQの人権擁護に関する法律はまだ制定されないままである。2021年のオリンピック開催前の通常国会で、「LGBT理解増進法」は結局成立が見送られた。LGBTQのアイコンでもあるMISIAに君が代を斉唱させることで対外的には日本はダイバーシティを推進していることをアピールしたかったのだろうが、その内実はほとんど追いついていないのが現状である。
国会議員がLGBTQ施策に具体的に動き出したのは、2015年3月である。このとき、超党派による「LGBT議員連盟(正式名称:LGBTに関する課題を考える議員連盟)」が発足した。こうして、自民党をはじめとする与党から共産党などの野党まで、LGBTの抱える課題に関心を寄せる国会議員が集まって活動を開始した。
まず、LGBTQ関連の法案制定に動き出したのは野党側であった。2016年5月、民進党などの野党4党は「LGBT差別解消法(正式名称:性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律)」を衆議院議長に提出した。法案の内容としては、行政機関や事業者における性的指向・性自認を理由とする差別的取扱いを禁止し、また雇用の分野や学校現場での差別の解消を推進するというものである。
野党による法案提出と同時期に、政府与党の自民党も動き出していた。「LGBT理解増進法(正式名称:性的指向・性自認の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律)」案は、2016年2月に「性的指向・性自認に関する特命委員会」が政務調査会の中に設置され、議論されるようになった。この特命委員会での議論をふまえ、2016年5月24日に「性的指向・性自認の多様なあり方を受容する社会を目指すためのわが党の基本的な考え方」として取りまとめられた。当時の安倍政権下で、この法案が国会に提出されることはなかった1。
だが、東京オリンピック・パラリンピック開催が1年延期となった2021年の菅政権下で、LGBTQ法の国会成立に向けた動きが一気に盛り上がる。この法案の担当が内閣府に決まり、与野党での調整が進むこととなった。5月14日には与野党間の取りまとめ案が成立したが、その後自民党内の保守派からの法案に対する異論が噴出した。結局、党内の意見を集約することができず、5月末に法案成立の見込みは難しくなったと発表された。
それまで保守政党としてLGBTQについてほとんど議論をしてこなかった自民党は「ジェンダーフリー」教育に反対する議論を積極的に展開しており、夫婦別姓についても伝統的な家族の価値観を壊しかねないと一貫して否定し続けていた2。LGBTQの課題については、保守の看板を掲げる自民党であれば関心の薄いものであったといえる。
では、なぜ自民党がこの課題に取り組み始めたのだろうか。一つは、選挙対策であろう。党としての考え方を示した2016年は、同年7月に参議院議員選挙が行われる年であった。自民党は公約のなかに、この特命委員会のとりまとめをふまえたうえで、将来的に党独自の議員立法を行うと明記した。したがって、LGBTQ層の票が野党側に流れることを食い止めようとしてこの政策を掲げたと見ることもできる。
ここ数年間での自民党議員による差別発言の数々は、枚挙にいとまがない。そのような発言の数々をあえてここで繰り返すことは避けるが、まずは与党内政治家のLGBTQに対する理解促進がそもそも必要なのだろう。そして、選挙対策や対外的イメージアップのためにLGBTQを利用しようとするのであれば、そのような魂胆はすでに当事者たちから見透かされているであろう。結局、東京オリンピック・パラリンピックが、LGBTQへの人権を法によって保障できないまま終わってしまった点が残念でならない。
1:
その背景として、この法案を担当する省庁が官僚たちによる権限争いでなかなか決まらなかったことなどを、当時の特命委員会の事務局長を務めた橋本岳議員が自身のブログの中で述べている。橋本岳「自民党における性的指向・性自認の多様性に関する議論の経緯と法案のないようについて」、http://ga9.cocolog-nifty.com/blog/
2:
山口智美・斉藤正美・荻上キチ(2012)『社会運動の戸惑い』勁草書房.