特集:多様性(ダイバーシティ)が実現する社会とは
差別の心理学を教える授業で大学生が書いた数百人分のリアクション・ペーパーをじっくり読み、分析したことがあった。その中から見えてきたのは、学生が想像する差別とは、「マイノリティが傷つくような言動をうっかりしてしまう」ことであった。「自分は気づいていないだけで、マイノリティの人たちを思いのほか傷つけてしまっているのではないか」といった感想がとにかく多いのだ。
このような言葉からは「私はひょっとしたら『いい人』ではないかもしれない」といった自分の「いい人」像が崩れることへの不安や恐怖も垣間見える。一方でマイノリティへの差別が人権侵害の問題であるとか、マイノリティが経験する差別は制度・構造・歴史に基づいたものである、といった視点が限りなく少ないのである。
差別の問題を「情緒」や「気持ち」の問題として捉えることしかできない薄っぺらな想像力は、日本社会全体の問題であろう。学生に「差別について学校や家庭の中でどのようなことを学びましたか」と聞くと、「差別をしてはいけないと学びました」と学生は口々に言う。「差別はいけない」ことは皆しっかりと学んでいるようだが、この学生が学んでいる「差別」とは何を指しているのだろうか。
私の専門である心理学の分野では、「差別」には三つの形態があると教育する。
一つ目は、個人のレベルで行われる直接的差別で、つまりは差別的またはヘイトのような言動や、その人の属性を理由に他人を排除したりする行為を指す。この直接的差別は、個人から個人へなされる差別なので、イメージしやすい差別と言えるかもしれない。
二つ目の差別の形態に、制度的差別がある。制度的差別は、法律、教育、政治、メディア、医療制度、企業といった制度の中で行われる差別行為で、悪意がなく、個々が中立的な判断をしても結果的にある集団が不利になるといった影響を与える。人権が守られているのか、資源へのアクセスが保証されているのかといった決定権のある多くの権力に結び付いており、制度や構造は強固でなかなか変わりにくいため、その影響力は大きくかつ長期に及ぶ。
三つ目の差別形態は、文化的差別といい、社会で広く共有されているステレオタイプ、固定観念や社会規範などが含まれ、「郷に入っては郷に従え」、「人間はみな努力すれば成功する」、「差別について語ること自体がタブー」といった、明文化されていないが、多くの人々の間で共有されている数々の規範を意味する。こうした規範は、マイノリティにとっては抑圧的に働き、空気のように掴みどころがない上、人々の中に深く浸透しているため、こちらも根強く変えにくい差別であるといえよう。
日本の教育では、おそらくこの三つの差別形態のうち、「直接的差別」の側面しか教えていないように思う。直接的差別は確かにわかりやすいし、教えやすい。「人を傷つける、悪い人になってはいけません」といったメッセージ自体は大切だ。しかし、個人の資質を超えたより大きな差別構造を教えないことは非常に深刻な問題である。なぜなら、構造やしくみを教えないことは、根本的な差別の解消が難しいだけでなく、差別を永続させることを逆に保証しているからである。
同じように、昨今の「多様性」や「ダイバーシティ」を奨励し、推進するといった企業や自治体の多くの取り組みを見ていると、まったく同じ問題点が見えてくる。つまりアンコンシャス・バイアス(個人が抱える無意識の偏見)といった直接的差別をなくすための取り組みや研修はしても、根深い制度的差別や文化的差別を生んでいる構造自体を変革するといった実践がなされていないのである。
日本社会において、「多様性」や「ダイバーシティ」という取り組みは、様々な異なる背景の人々を尊重しよう、認めよう、という心のあり様を中心に広まった。「みんな違ってみんないい」はとても好意的に捉えられているスローガンだが、差異を尊重する一方で、背景にある構造的な差別には言及しないという意味では、有害ですらある。
よく、「違いはその人にとっての個性である」という言い方がされるが、「自分らしさ」「価値観」「持ち味」を大切に互いに認め合おう、というのは、背後にある差別構造をないこと (※「ないこと」に黒点) にしており、根本的な差別解消にはつながらない。「障がいは個性だ」というのも同様である。制度的・文化的差別などの構造的差別をないことにして、健常者も障がい者も対等で、ユニークな存在である、という考え方には、マイノリティ側である障がい者が苦しめられるそもそもの原因を作っている構造的差別を解消しなければならない、という視点がすっぽり抜け落ちている。
なぜ、差別の問題を構造的な問題として捉えることが、私たちにはこれほどまでに難しいのだろうか。ここでいう「私たち」はマジョリティ性を多くもった人々という意味で使っている。私たちは概ねマジョリティ性とマイノリティ性の両方の属性を持っている。人種・民族、性別、性的指向、性自認、学歴などの属性を見たとき、より権力を持っている側の集団に属している人たちを「マジョリティ性を多く持った人々」や「マジョリティ側」と呼んでいる。マジョリティ性を多く持った人たちは、自らの特権に無自覚であり、社会における構造的な不平等についても無自覚であることが多い。
「特権」は、あるマジョリティ側の社会集団に属していることで労なくして得る優位性、と定義される。努力の結果ではなく、たまたまある社会集団の一員として生まれたことで、自動的に受けられる恩恵を意味する。特権を「自動ドア」にたとえるとイメージしやすいだろう。特権を有しているマジョリティ側の人間は、目的地に向かって進もうとすると自動ドアが次々に開いてくれるので、それがその人にとって「ふつう」「当たり前」となり、ドアが開いてくれている状態が構造的なしくみとして優位な立場にしていることに本人は気づかない。その一方、マイノリティには、これらのドアの多くは自動では開かず、自らの手で一つ一つこじ開けたり、時には開けるための鍵を取りに走ったりしなくてはならず、遅れをとる。あるいは、何をしても開いてくれないこともある。実際、自動ドアを開閉しているのはドアの上にあるセンサーだが、このセンサーこそが直接的・制度的・文化的差別である。このセンサー自体を変えないことには、マジョリティへの優遇と、マイノリティへの抑圧の構造を変えることは不可能だ。
「健常者特権」を例にとってみよう。健常者は自分たちが「ふつう」で「規範的」であると思っており、障がい者に対して「配慮」してあげている (※「あげている」に黒点) と考える人が多い。しかし実際のところ、建物や設備の設計など社会のあらゆる場面がすべて健常者側が効率的に動けるように「配慮」されている、ということにはなかなか気づかない。こうしたマジョリティ側への配慮は通常可視化されないため、マジョリティ側は見えていないことが多くあることに気づかず、配慮されていることをないこと (※「ないこと」に黒点) にして生きていける特権があるのである。
では、構造的な変革を実践するにはどうすればいいだろうか。まずは組織内の意思決定の場にマイノリティ性のある人々を置くことである。少なくともマイノリティ性の多い人を組織の中でメンタリングし、育成し、昇進させるサポート体制を整えなくてはならない。これは容易ではないが、最も長期的にインパクトのあるやる方である。自分の職場を見渡したとき、意思決定権のある立場は、マジョリティ側の人間で固められてはいないだろうか。それこそが、真の多様性を妨げている構造である。なぜマジョリティだけがトップにいるのか、といった構造と向き合い、既にトップにいる人が発言権と決定権を行使し、率先して変えていく必要がある。差別を生んでいる社会構造を、マジョリティ、マイノリティがともに異なる視点から見つめ、対話を重ねることで、個人レベルの差別だけでなく、構造的差別の撤廃へと日本社会全体が進んでいくことができるといえるだろう。