特集:「ビジネスと人権」をめぐる最新の動向
2020年10月に発表された日本政府の「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」(NAP)は、2011年の国連「ビジネスと人権に関する指導原則」(指導原則)実施のロードマップとなるべき政府文書である。指導原則は法的拘束力のない文書であるが、国家は国際人権法上、人権を保護する義務を負っており、よって、指導原則を承認した各国政府は指導原則を実施する国際法上の義務を負う。なお、執筆時点で、世界29カ国がNAPを策定しており、直近ではパキスタンが策定した。
日本のNAP策定に参加したステークホルダー一同は、NAPに含むべき事項について共通要請事項書としてまとめ、これを2019年11月21日と2020年6月2日の二度にわたって提出した。これは、経済団体、労働団体、市民社会、弁護士、国際機関といった多様なステークホルダーが合意した内容であり、NAP策定プロセスにおいて特筆すべき成果物であった。しかしながら、NAPにおけるその反映状況は必ずしも十分ではなく、この点は依然として課題である(「ステークホルダー合同コメント~ビジネスと人権NAP公表にあたって~」)。
NAPはliving document(生きた文書)とされ、常に現状を的確に反映しているか、必要な施策は検討されているか、継続的に見直していくことが求められている。そのために、NAPのレビューとモニタリングは重要なステップであり、この点はNAPでも言及されている。しかしながら、実際には、NAP策定後、現在に至るまで、関連するステークホルダーや省庁で構成された円卓会議の開催はわずか1回であった。せっかくその策定過程で幅広いステークホルダーが参加できる場を設定したのだから、これを存分に活かし、より良い次のNAPに向け、すぐにでも議論を始めるべきである。新型コロナウイルスという誰にも予想できなかった事態が起きたことを踏まえてもなお、最初の1年を有効に活用できなかったのではないかという思いは拭えない。
(1)具体的施策と政策の一貫性
NAPでは、今後行っていく具体的な措置について担当官庁が明記された。しかし、NAP策定から既に1年以上が経過したにもかかわらず、各官庁における取り組みは必ずしも明らかではない。NAP策定時において重要なステップであるギャップ分析、すなわち、現状の施策の実効性と指導原則が求める国際人権基準との間にあるギャップの特定を日本政府はあえて実施しなかった。そのため、現在のNAPに記載されている施策が、現実の様々な人権課題に対する取り組みとしてどれだけ機能しているかが十分に検討されていないという課題がある。したがって、次のNAPに向けてこのギャップ分析を実施することは大前提である。
これに加えて、NAPが記載する「具体的」な措置自体も、「努めていく」「推進していく」といった抽象的な表現が散見され、結局のところ、指導原則が中心とするライツホルダーであるところの権利の主体の人権に対する具体的な施策は乏しい。
このようなNAPのあり方ゆえに、指導原則の実現に向けて重要である政策の一貫性の担保も十分ではない。指導原則は、あらゆる関連する政策について国家の人権保護義務がその基盤となり、必要な研修等を実施することも求めている(指導原則8)。確かにNAPでは、SDGs(持続可能な開発のための2030アジェンダ)の実現に向けた取り組みの一つとして位置づけるとしている。しかしながら、SDGsが各ゴールで示す具体的な人権課題と指導原則との関連性については、個別の施策において十分に示されているとは言えない。
例えば、気候変動とビジネスと人権は、現在、国際社会において広く議論されているテーマの一つである。気候変動による人権侵害にとどまらず、気候変動緩和事業による人権侵害、例えば電気自動車のバッテリーの原材料となる鉱物の採掘現場での強制労働、児童労働にも企業として取り組みが求められている。さらに、脱炭素社会への移行において、既存の産業構造の変革が求められるが、この移行も「公平」なものでなくてはならないという「ジャスト・トランジション」も、指導原則に沿った考え方である。しかし、現在の気候変動政策において、このような人権の観点は全くといっていいほど触れられていない。
あるいは、上記共通要請事項に含まれた項目の一つである公共調達についても、まさに事業活動を行う国として真っ先に取り組むべき課題であるにもかかわらず、未だ進展が見られない。
さらに、現岸田政権下で目玉施策の一つとして議論されている「新しい資本主義」について、その提言に「人権」の文字はわずかに見えるものの、指導原則の理念を反映しているとは言い難い。指導原則それ自体が、既存の資本主義経済による格差の助長に対する批判から生まれたものであり、仮に、「新しい資本主義」としてこのような格差の是正に真剣に取り組むのであれば、まずもって指導原則が示す事業活動のあり方がその基盤となるべきである。
(2)顕在化している人権リスクへの対応の必要性
現在のNAPにその記載がなく、だが顕在化しているテーマの一つが、紛争影響地域におけるビジネスと人権である。2021年2月1日にミャンマーで発生したクーデタは1年が経った今でも状況は変わらず、軍に抵抗する多くの市民が命を奪われれている。このような軍による人権侵害行為の財源ともされる軍閥系企業との取引は人権侵害に加担するとして批判されている。国連ビジネスと人権ワーキンググループも、紛争影響地域であることを反映し、事業活動と人権リスクとの関係性について、強化した人権デューディリジェンスの実施を求めている。
ミャンマーには数多くの日本企業が進出しており、クーデタ前からロヒンギャ等少数民族に対する殺戮行為をはじめ、人権侵害行為を批判されている軍との事業関係を指摘されている企業もあった。クーデタを受け、そのリスクは一段と強まり、複数の事業がNGOなどから指摘を受けている。極めてセンシティブな状況であり、企業が対応について逡巡することは当然だとしても、日本企業の多くが、自社の事業活動と人権リスクとの関係性について、ミャンマーの現状を反映した上で求められる人権デューディリジェンスを実施しておらず、あるいは実施したとしてもそれを公開していない。企業として取るべき対応が即座に明らかになるものではないとしても、顕在化している人権リスクへの取り組みとしては不十分である。こういった紛争影響地域における企業の人権尊重の支援が指導原則でも求められている(指導原則7)。NAPで具体的施策には触れていないが、だからこそ課題として認識し、取り組むべきである。
何のためのNAPであるべきか
NAPは企業の指導原則に対する認識を一定程度高めたものの、社会全体における認知度は依然として低い。さらに、経済安全保障、とりわけ対中政策における人権問題といった特定の政治的課題と結びついてしまい、人権デューディリジェンス自体が非常に矮小化された概念として広がっていることが懸念される。「欧米での法制化への対応として必要」「ESG投資で聞かれるから進める必要がある」「取引先から求められるのでやらないといけない」など、どちらかと言えば受動的なリアクションが多いように見受けられる。NAPを通じて、企業に対する指導原則に沿った「正しい」メッセージを伝えるべきである。
人権デューディリジェンスは、本来、サプライチェーン・バリューチェーン上に関連する人権リスクを見つけ、対応していくことで社会全体の人権リスクを少しずつでも軽減し、それによって持続可能な社会を目指すことにその意義がある。換言すれば、「どこまでやればいいのか」という発想ではなく、むしろ見えていない人権リスクはどこにあるのか、能動的に探しにいくことが企業にも求められている。
日本のNAPそのものが、目指すべき社会や人権の実現のありようといった根本的なビジョンを十分に共有できていないことが大きな課題ではないだろうか。既に2年目に入ったNAPをどう活用するか、これまで以上にステークホルダーの役割は重要であり、常に指導原則の趣旨に立ち戻った議論と実践が何より重要である。