人権の潮流
私には、今でも忘れることのできない1冊の本がある。
先天性緑内障のために12歳で失明し、様々な可能性が失われてしまったように思い込んでいた私だったが、中学2年生のある日、図書館で、偶然、『ぶつかってぶつかって』(竹下義樹著、かもがわ出版)という点字本に出合ったことでその後の人生が大きく変わった。
この本には、私と同じように全盲の障害を持つ筆者が弁護士を志し、司法試験に9度挑戦して夢を実現するまでの物語が描かれていた。私はこの本を読み、全盲になってしまったことで可能性が失われたというのは私の思い込みに過ぎず、私の目の前にはまだ様々な希望が残されているのだと気づかされた。そして、大人になったら私も弁護士になりたいという憧れを持ったのである。
読書というのは、時として、このように人生を大きく変えることもある特別ないとなみだ。しかし、現在もなお、視覚障害者が読書をする機会は健常者に比べて大きく制限されている。
私たちが読書をする方法は、大きく分けると2つある。
1つ目は、点字図書館等に所属するボランティアが制作してくれた点字図書、録音図書、テキストデータ化された図書を読む(あるいは聞く)方法、もう1つは、アマゾン社のキンドルなどの電子書籍を、スマホに搭載された画面読み上げソフトを用いて聞く方法だ。
しかし、全社の点字や録音、テキストデータについては、制作に相当な労力と時間を要するため、そのタイトル数は決して十分ではない。総務省統計局が発表している「書籍新刊点数と平均価格」によると2018年の書籍新刊点数は71,661点となっているが、全国の点字図書館等で点字や録音、テキストデータが制作されるのはその1割にも満たないといわれている。
また、キンドルなどの電子書籍については、視覚障害者が使う画面読み上げソフトに対応していないものも少なくないことに加え、視覚障害者の中には、スマホの操作をマスターすることに相当な困難を感じる方も少なくはなく、スマホで読書をする視覚障害者はまだまだ少数派だ。
近年、このような視覚障害者の読書環境を改善すべく、いくつかの法整備が進められてきた。国際的には「マラケシュ条約」という条約が採択され、これを受けて、わが国でも「読書バリアフリー法」という法律が作られた。以下でこれらについて紹介する。
(1)マラケシュ条約について
マラケシュ条約は、その正式名称を、「盲人、視覚障害者その他の印刷物の判読に障害のある者が発行された著作物を利用する機会を促進するためのマラケシュ条約」といい、モロッコのマラケシュにおいて2013年6月27日に採択された条約で、日本は、これを2018年4月25日に批准している。
この条約の目的は、視覚障害者、文字の読み書きに困難のある学習障害者、寝たきりや手が不自由な身体障害者等に対し、発行された著作物を利用する機会を促進すること、つまり障害があっても多くの本を読めるようにすることである。
そして、この目的を達成する手段として、条約は、締約国に対して、次の2つの義務を課している。
すなわち、①著作権者に許諾を得ることなく点字、録音、テキストデータなど、視覚障害者等にアクセシブルな書籍を作成し配布できるよう、国内法で著作権の制限や例外規定を設けること、②海外の締約国とアクセシブルな図書データの輸出入を可能にする規定を整備することである。
しかし、この条約の日本へのインパクトはそれほど大きなものではなかった。
なぜなら、日本では、すでに著作権法37条において、点字図書館や一般図書館等が、著作権者に許諾を得ずに点字、録音、テキストデータなどの図書を作成、配布することが認められていたため、大きな現状変更の必要がなかったからだ。また、英語圏などと異なり、日本では、外国の図書館等とアクセシブルな書籍のやり取りができることになったとしても、その恩恵を受けられる視覚障害者自体が少ないこともその理由だ。
(2)読書バリアフリー法について
次に、マラケシュ条約を受けて作られた法律である「読書バリアフリー法」について紹介する。
この法律の正式名称は、「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律」といい、2019年6月28日に施行された。
法律の目的は、「視覚障害者等の読書環境の整備を総合的かつ計画的に推進し、もって障害の有無にかかわらず全ての国民が等しく読書を通じて文字・活字文化の恵沢を享受することができる社会を実現すること」であり、この目的を達成するため、以下のような基本的な方針が定められている。
これまでボランティアなどの善意に頼ってきた視覚障害者の読書環境の整備を、行政の責務とし、政府に対して財政上の措置を義務付けたことには重要な意味がある。また、出版関係者等も含めた協議機関を設け、継続的に視覚障害者等の読書環境の整備のための方策を検討していく仕組みが作られたことにも期待ができる。しかし、全体としては理念法という色彩が強く、法施行後3年が経過した現在、視覚障害者の読書環境が劇的に改善したという実感はないというのが正直なところだ。
筆者が司法試験の受験生であった頃、受験勉強に必要な書籍がほとんど点訳や音訳されておらず勉強を始めようにも始められない時期があった。そんな時、ある司法試験予備校がテキストや問題集のすべてをテキストデータで提供するという英断をしてくださった。これによって受験勉強の能率は格段に向上した。前述したような法整備には様々な課題があるが、出版社などによる電子データの提供が、視覚障害者の未来を開く鍵の一つだと私は考えている。
誰もが、真に「文字・活字文化の恵沢」を享受できる社会を実現するためには何が必要なのか、皆さんも一緒に考えていただけたら幸いである。
注:
DAISY(デイジー):活字図書を読むことに障害がある人が利用しやすいデジタル図書の国際標準規格