人権の潮流
水平社設立から今年で100年。水平社宣言を読まれたことのある方も多いと思う。その宣言が創立大会で読み上げられたときの様子を、『水平』は次の様に報じている。
(宣言を朗読する)駒井氏の一句は一句より強く一語は一語より感激し来り、三千の会衆皆な声をのみ面を俯せ歔欹(きょき)の声四方に起る、氏は読了ってなほ降壇を忘れ、沈痛の気、堂に満ち、悲壮の感、人に迫る、やがて天地も震動せんばかりの大拍手と歓呼となった。
(『水平』第1巻1号、1922年7月、( )とルビは筆者)
聴衆の感動が伝わってくるようである。この大会に参加した福岡の田中松月は、かつてNHKの番組で次のように語っている。当時、部落出身者にとってその事実は隠すことが当たり前であり、それを公表して大会を開くという水平社に対して「嬉しいような恐ろしいような」気持ちがあったと。つまり100年前は、部落出身であることが明らかになると差別されることは当たり前だったのである。水平社宣言は「エタであることを誇り得る時が来たのだ」と、それを公表しても差別されない社会を目指すと宣言したのであり、部落民衆にとって大きな勇気となる画期的なものであった。会場に満ちた「沈痛」や「悲壮」が「大拍手と歓呼」へとなったように、田中松月の不安な思いも大会に参加して晴れたという。
実は大学生になって部落出身であることを親から告げられたわたしが、真っ先に手にしたのも水平社宣言だった。そこには「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ...」と、祖父母の生業である屠畜業を髣髴とさせる一節もあり、読み終えたときには涙が溢れたことを思い出す。また、部落の外で暮らす部落出身者であるわたしたち家族にとって、その出身を隠すことはごく当たり前のことであり、とくに両親のびくびくしながら生きる姿を目の当たりにしていたわたしにとって、「隠さずに堂々と生きていけ」と背中を押してくれるようでもあった。わたしも、水平社宣言に勇気を与えられたひとりといってよいだろう。ただし、「隠さずに生きていく」というのは、インターネット上に被差別部落の地区名や個人名が一方的にアウティングされるような状態を意味するのではない。宣言にもある「尊敬」すべき(されるべき)ひとりの人間として、また地域として、安心して生きていける状態である。
その後も折りにつけ読むことになる宣言だったが、やがて気になる部分が出てきた。これまでも多くの人が指摘してきたように、宣言が呼びかける対象が「兄弟」だけになっていること、そして敬意を表すべき先人として挙げられるのも「男らしき産業的殉教者」であることだ。
そういう時代だった、という意見も多いだろう。しかしそれでは「仕方がなかったこと」と済ませることになり、未来を変えることはできないのではないか。そのような問題意識で、わたしは宣言が部落女性を不在とする意味について指摘したことがある(宮前千雅子「ジェンダーの視点から水平運動を問う」『部落解放』822号、2022年6月)。
当時の部落女性も、宣言に自らの存在が含まれていないことを自覚していたのではないだろうか。たとえば「部落婦人の立場から」という一文を『水平新聞』に投稿した「ケイ」と名乗る女性は、部落女性に対して「兄弟(けいてい)姉妹(しまい)」や「姉妹(きょうだい)」と呼びかける(『水平新聞』第3号、1924年8月20日)。関東で活動した松下實子は、同じルビでも「兄弟(きょうだい)」「姉妹(きょうだい)」を使う(『自由』第1年代4号、1924年11月1日)。さらに前田はな子は「姉妹(きょうだい)」「兄弟姉妹(きょうだい)」と呼びかけていく(『愛国新聞』第8号、1924年5月11日)。自分たち部落女性も運動の主体であるとの表明のように、わたしには読めるのである。
創立大会の翌年、1923年の全国水平社第2回大会で、奈良の部落女性である阪本数枝が婦人水平社設立を提案、そして可決される。水平運動高揚のなか、部落女性は自らの抱える困難を「二重、三重の差別と圧迫」や「二重三重の鉄鎖」などと表現して声を上げた。それは多くの部落女性の経験を表象するシンボルとなり、その主体的な立ちあがりを促すものとして機能していった。
では、その「二重、三重の差別と圧迫」とは何を指すのか。さきほども例に挙げた「ケイ」は、彼女らの抱える困難を「三重の苦しみ」として、具体的に次のように記す。
...それは申すまでもなく、一 部落民であるが故に(男性よりも遥かに侮蔑を受けています)、二 生活の自由がない故に(殊に部落民は職業の自由を奪われている為に、たいていプロレタリヤで経済上に搾取されています)、三 女性であるが故に(これは部落婦人に限らず一般社会的に男子より奴隷的扱いを受けています)苦しめられている事です。
しかしながらこれらは、人の力でどうする事も出来ない自然の約束ではなく、人間が人間を支配する為に勝手にこしらえた道徳や、長い間の間違った因襲なのです。...
(ケイ「部落婦人の立場から」『水平新聞』第3号、1924年8月20日)
部落出身者として、経済的困窮者として、そして女性として、それらが交差する生を生きる者が社会に対してあげた抵抗の声、それが「二重三重の差別と圧迫」であったといえよう。またその困難の背景には日本社会に根付いた規範や制度があることも、ケイは見抜いている。ちなみに「ケイ」は、婦人水平社設立を提案した阪本数枝ではないかとされる人物である。
ここ近年、交差性や複合差別という概念が提起されている。それは個人に内在する複数の社会的カテゴリーを読み解き、交差する差別や抑圧を明らかにすることによってこれまで周縁化され、不可視化されてきたその存在を照射しようとする営みでもある。100年前の部落女性の声は、彼女らがそれを実践しようとしつつあったことを教えてくれる。
また交差性・複合差別は、多様なマイノリティの連帯をすすめるための概念でもあるといわれる。この視点からも、当時の部落女性たちを中心とする動きを紹介しておきたい。
福岡で婦人水平社の創立大会を開催した際の中心人物であった菊竹トリは、県内の部落女性が参集したその大会の感想を「かくも多くの頼もしき姉妹があるのだ!」とし、それは「日本の社会運動中の婦人の運動の中での一進歩、一威力であらねばなりません」と述べる(『水平月報』第11号、1925年7月1日)。彼女の視野がひろく女性運動に開かれていることがわかる。彼女らは、左派の女性運動と連帯しようとしていたのである。
左派女性を包括的に組織しようとした関東婦人同盟は活発に運動を展開し、大阪をはじめ全国50か所以上に地域支部の設立準備会も誕生して、全国組織結成の準備委員会まで発足していた。実際に全国組織が結成されることはなかったが、それに向けた会議で決定された綱領の要求項目22のひとつには、「六、水平社婦人に対する一切の賤視観念の撤廃」も含まれている(5番目には「植民地婦人の一切の差別待遇の廃止」)。当時の左派女性の連帯が、十分ではなかったかも知れないが、マイノリティの女性たちを視野に入れて進められようとしていたことがわかる。
実は関東婦人同盟と婦人水平社は、1928年に相前後してその存在が潰えてしまう。その背景を詳細に説明する紙幅はないが、男性が主導する左派社会運動の動きがあったとだけ述べておこう。
100年前の部落女性たちの運動は、彼女らの苦悩や困難から生まれた抵抗の実践そのものであった。「二重三重の差別」という表現も、そのなかから生み出されたものである。その表現を、ふたたび戦後の運動のなかで部落女性たちが使い始めるのは1950年代のことである。水平運動から部落解放運動へと 人的な継承はなかったものの、100年前の部落女性から送られた大切なバトンといえるだろう。未だ色あせないそのバトンを使って、どのような連帯を構築して未来を切り拓いていくのか。100年前の部落女性の声やその運動に、学ぶべきことは多い。