人権の潮流
2022年3月上旬、「戦火を逃れたロマの難民が避難先の国で差別を受けている」との見出し記事を英字新聞のオンラインサイトで見つけた。報道には、ウクライナから戦争を逃れてきた犠牲者であるにも関わらず、「見た目」によって食糧・居住場所の支援などを受けられないロマ民族の状況が伝えられていた。ロマとは、インドを起源とする民族で10世期頃(時期には諸説ある)にヨーロッパへ移動を開始したとされている。ヨーロッパ各地にその居住地域を広げているが、生活様式、言語、肌の色の違いなどから長年に渡って差別と迫害を受けてきた。現在、ヨーロッパ全土で約1000万人、ウクライナには40万人が住んでいると言われている。
貧困状況にある家庭も多く、路上の物乞い、スリというイメージがヨーロッパで広くステレオタイプとして浸透している。日本でもヨーロッパ関連の旅行雑誌に「ジプシーのスリに注意!」と書かれているものを見たことがある人もいるかもしれないが、その「ジプシー」とはロマのことである。(現在、「ジプシー」という呼称は蔑称として使用が控えられているが、本文では、差別的な意図で過去に用いられた場合に限り、括弧付きで「ジプシー」として表記している)。
民族と経済的な貧しさを結びつけるような刷り込みは根深く、そのために、ウクライナから避難しているロマ難民が避難先で支援物資の列に並んでいると、物乞いと誤認され、追い払われるというような状況が各地で起きてしまっているのだ。
ロマと犯罪を結びつける思想が極端に先鋭化し悲劇を生んだのは、第二次世界大戦のさなか、ナチスがホロコーストで「ジプシー」を虐殺した時であった。ナチスは「ジプシー」が「遺伝的に犯罪的資質を受け継いでいる劣等人種」として強制収容し、虐殺した。ユダヤ人の大量虐殺がなされたポーランドにあるアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所において、ユダヤ人、ポーランド人の次に死者数が多いのがロマの人々である。これら、ナチスをはじめとする数々の歴史的迫害の影響は、現在のロマの生活にも深い影を落とす。2018年にはウクライナで極右団体がロマの集落を襲う事件も起きている。
私は戦時下のロマの実態を取材すべくリサーチを始め、2022年6月、チェコ共和国を訪れた。2022年6月末時点で、チェコでは38万人のウクライナ難民が政府の庇護を受けるための登録を行った。そのうちのおよそ16万人が成人女性で13万人が未成年の子どもである。登録によって、チェコ国内での短期滞在、就労・就学支援を含む、行政サービスを受けることが可能になるが、その時点で既に7万人が雇用されているということだった。ウクライナ難民の雇用環境に対し、EUの識者から改善の必要性を指摘される中、しかし、ロマ難民の実態を聞くと、その登録すらままならない状況が垣間見えてきた。
取材コーディネーターを務めてくれたチェコ出身でロマの人権活動家であるイヴァンカが状況を説明してくれた。「難民であるロマの人々は、当初から庇護のための登録すら出来ない状況があった。理由の一つは、ロマであるということを理由にホテルの宿泊やアパートでの居住が許されなかったから。登録には住居の証明が必要だが、彼女らにはその住居がなかった。結果として、ロマの人々は路上で生活するしかなく、駅では沢山の子ども、女性が地べたで避難生活を送っていた。それを見かねた政府は、駅から彼女たちを排除し、バスに乗せ、別の地域に送った。しかし、別の地域でも受け入れを拒否されれば、また他の地域へというようにロマ難民はたらい回しにされた。彼女たちは人間としてではなく、権力を持つ人たちの好きか、嫌いかによって、モノのように動かされた」。
チェコ、第二の都市、ブルノ市の鉄道駅から徒歩10分ほどの場所にあるロマ難民のための一時避難所を訪れた。小さな広場にあるのは、軍に支給されたテント二棟と簡易トイレ、そして、飲み水の入った大きなタンクである。子どもたちは、タンクに備え付けられた大きな蛇口から出てくる水をシャワーがわりに浴びている。テントの中に入ると地面にマットレスがひかれ、20名ほどの人々が暮らしていた。少しだけ開けられた天窓が非常に高いところにあるが、雨が降ればそこから水が漏れてくるという。夕方、個人のボランティアが車で食事を運び、炊き出しをおこなっていた。避難所のゲートを一歩出れば、美しい中世の街並みが広がっている。都市の一角で、ロマ難民は孤立状況のまま、十分な支援を得られない状況が4ヶ月も続いていた。
ウクライナからチェコに避難したロマ難民の避難施設の入り口。
非正規移民の元収容所で有刺鉄線に囲まれている。
2022年6月、オストラヴァ郊外にて筆者撮影。
次に訪れたのはチェコ第3の都市、オストラヴァである。非正規移民を収容するために使われていた旧収容所施設がロマ難民の避難場所となっていることを聞き、訪問を決めた。地域のNPOで活動し、ロマ難民の支援をウクライナ戦争開戦直後から行なっているクマールが、支援物資を届ける際に、私も連れて行ってくれることになった。市内からハイウェイを走り、郊外へ向かうこと1時間、農村にある小さな集落を進
み、山間の細い道を進むと、小高い丘の上に有刺鉄線に囲まれた元収容所があった。私たちは守衛にパスポートを見せて、ゲートを通過した。ロマ難民も許可を得れば、施設の出入りは自由に出来るということであったが、徒歩で買い物に出かけられるような場所に元収容所は建設されていない。ほとんどの難民が収容所施設内で時間を過ごすということだった。敷地内に入ると有刺鉄線と3メートルほどのフェンスで囲まれた二棟の建物が見えた。フェンスのゲートは開いているがその威圧的なフェンスの中で戦争から逃れた難民たちが避難生活を送っている。
クマールが持ってきた支援物資を一通り配り終えると、子どもたちに建物の中を案内してもらった。施設に入るとまず、廊下と玄関を区切るように大きな鉄格子の柵と扉が見えた。テレビ部屋というものがあり、簡易ベンチと、移動できないように天井に固定されたテレビがある。それぞれの部屋にはベッドが並び、窓の下にはヒーターが設置されている。一見、普通の宿舎のような印象を受けるが、窓枠には鉄格子がはめられている。一通り見て回ると、そこで生活する男性が言った。「初めて連れてこられたときは逮捕されたと思ったよ」。ベビーカーを押しながら、鉄格子を横切る男性が、私の顔を見ながら、鉄格子を指差して、おどける表情を見せた。
避難施設内のロマ難民の子どもたち。
2022年6月、筆者撮影。
ロシアのウクライナ侵攻から約1ヶ月後、私はウクライナ難民を取材するためにポーランド各地の難民キャンプを巡った。UNHCR、国際赤十字、食糧を提供するWorld Central Kitchenなどの大規模テントの他に中小のテントが軒を連ね、それこそ世界各国から支援者が集まっていた。医療的な支援体制も整えられ、ウクライナ難民を孤立させないという強固な意思がそこには強く見られた。しかし、ロマ難民は必ずしもそれらの避難所で受け入れられたわけではなく、より社会から見えづらいところへと移送されていった。
侵攻開始から100日以上が経過した取材当時、ウクライナ難民支援は緊急支援から中長期的な支援に移行しつつあった。就労・就学支援だけでなく、地域住民の一人としての役割を担い、新たな地での生活基盤を取り戻すための様々な試みが行われていた。しかし、ロマ難民に対しては、地域社会が中長期な支援を拒んでいるように思えた。共生ではなく、排除の力学が働く中、ロマの尊厳は傷つけられ、その現状からの回復する力を奪っていく。ロマの数世紀に渡る受難の歴史はいつ終焉するのか。今まさにウクライナ戦争へ国際社会が注視する中、表面から見えないロマ難民の存在にも目を向けていかなければいけないのではないか。