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国際人権ひろば No.171(2023年09月発行号)

アジア・太平洋の窓

亡命者から見たチベットの人権問題

小川 真利枝(おがわ まりえ)
ドキュメンタリー作家

来日した奇跡の亡命者

 2017年12月25日。クリスマス休暇で賑わう米国に、ひとりのチベット政治囚が降り立った。このニュースは、ニューヨークタイムズを皮切りに驚きをもって世界中を駆け巡った。監視の目をかいくぐっての奇跡の亡命劇。家族とは10年ぶりの再会だった。

 政治囚の名は、ドゥンドゥップ・ワンチェン。中国の西、青海省出身のチベット人だ。2008年、北京オリンピックが開催される直前にドキュメンタリー映画『恐怖を乗りこえて』の映像を撮影し、「国家分裂扇動罪」で中国当局に拘束された。懲役6年。けれど、彼の作品は世界中に広まり、2012年には獄中にいながらにして米国ニューヨークのジャーナリスト保護委員会から国際報道自由賞を授与された。彼は、2008年から盛り上がりをみせた「フリー・チベット運動」のアイコンのような存在になった。

 その奇跡の脱出から6年を経た2023年初夏、現在米国で難民として生活するワンチェンさんが来日し、全国7カ所で講演会を行った。なぜ米国に暮らすチベット亡命者が、日本で講演会をしたのか。それは、2009年まで遡る。


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米国にて10年ぶりの再会をした家族 ©Filming for Tibet

チベット亡命者の町インド・ダラムサラ

 くねくねとした崖道を抜けると、山肌にへばりつくようにその町はあった。インドの首都デリーからバスで約10時間、標高1700メートルほどに位置するインド北部の町ダラムサラだ。ここはチベット亡命者の旅路の果ての終着点で、一時滞在施設がある。亡命者たちは、この地でインドの在留資格を得て、チベット亡命政府の指示で職業や年齢に応じて学校や僧院などへ送られる。1959年、中国の脅威から逃れるために、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命したのがはじまりで、いまでは亡命2世、3世も生活拠点を築いている。ときには「チベットらしい教育を受けるために」と、幼い子どもがたったひとりヒマラヤを越えてやって来ることもある。2008年までは年間3000人ほどが亡命していたけれど、2008年を境に監視が厳しくなったなどさまざまな理由で激減し、いまでは年に数十人程度になっている。

 この町で、わたしはワンチェンさんの妻ラモ・ツォさんと出会った。2009年の夏の終わり、町の中心にあるチベット仏教の寺院を朝ぼらけに巡礼していたときのこと。道ばたにぽつねんと座り、パンを売っていた。端正な顔立ちにつぶらな瞳。真っ直ぐに見つめるその力強いまなざしは、彼女の芯の強さを物語っていた。甘い香りに誘われて1枚購入すると、チベット東北部の伝統的な食べ物だという平べったい丸いパンは、もちもちと歯応えがあった。

 ラモ・ツォさんが"ワケあり"だと聞いたのは、それからすぐのことだった。夫が映画を撮影し不当に逮捕されていること、希望する弁護士をつけてもらえず音信不通であること。そんな苦難を抱えながら、彼女は女手ひとつ、ダラムサラで子ども4人を養っていた。聞けば、彼女は学校へ通ったことがなく読み書きができなかった。そのためパンを売って生計を立てていた。

 彼女と出会った2009年から、わたしは彼女と家族にカメラを向けた。政治囚の家族がどんな思いで生活し、どのように生きていくのかを映像に収めたかったからだ。当初、"可哀想な難民"だと思いながら撮影していたわたしは、その浅慮を恥じる。なぜなら、ラモ・ツォさんや家族は、この受難を軽やかなユーモアで笑い飛ばし、前を向いて生きていたからだ。「中国人全員を責めてはいけない。政府や制度に問題があるのだ。誰かを恨んでも仕方ないのだから、いまを生きるしかない」。慈悲を大切にするチベット仏教の心が、彼らの根底にあった。そして、知人や友人を頼りにインドからスイス、米国へと渡り、生活を切り拓いていった。もちろん彼女の夫が政治囚として有名だったから、支援の手が多かったということもあるけれど、米国で車を乗り回す彼女の逞しさには、目を見張るものがあった。週7日、休みなくハウスキーパーの仕事をする彼女。早朝には、経を唱えながら五体投地(チベット仏教の礼法)で祈りを捧げる。わたしはそんな彼女の魅力に引かれ、気づけばワンチェンさんが中国から脱出し、米国で家族と再会を果たす瞬間に立ち会っていた。その縁から、今回、ワンチェンさん家族を日本に呼び、彼の経験を語ってもらうツアーを企画したのだった。


no171_p10-11_img2.jpgインドのダラムサラでパンを売るラモ・ツォさん
(撮影:中原 一博)

ひとつの宇宙を守るために

 「人権という概念を知ったのは、亡命してからだった」。講演で、ワンチェンさんは何度となくこのことを口にした。じつは、ワンチェンさんは映画を制作する前、17歳(1991年)のときに一度インドへ亡命していた。そのとき、はじめて自分が生まれ育ったチベットが直面している現実を知った。人権という概念だけでなく、チベットの歴史、チベット人が慕うダライ・ラマ14世について、信仰について、自由について。それは、雷に打たれたような衝撃だったという。自分がこれまで目にしてきたこと、耳にしてきたことは何だったのか。そうして彼は決意をした。再びチベットへ戻って、自身が目の当たりにした真実を、チベットに暮らす同胞にも伝えたいと。彼はチベットへ戻り、中国では発禁とされているような歴史書や自由や民主主義に関する書籍を発行したり、秘密裏にさまざまな活動をする。そして、北京オリンピックを控えた2007年からチベット人100人以上に「五輪をどう思うか?」「チベットに自由はあるか?」などインタビューした映像を撮影した。「たとえ自らの命が犠牲になろうとも、チベット人の切実な思いを世界に訴えたい。それが、チベット人としての使命だと思う」。険しい表情で語るワンチェンさんの姿からは、映画を撮影し投獄されたことについて、後悔の念はないようだった。

 ワンチェンさんの講演で衝撃を受けたのが、労働改造所(「再教育」を目的とした労働強制収容所)での体験だった。早朝から深夜まで、囚人たちはグループに分かれて、海外の軍服、日本で使われる予定の注射針、服や子どものおもちゃなど多くの商品を膨大な時間と労働量で製造させられていたというのだ。ワンチェンさんはその製品がどこに発送されているのか、荷物の宛先を見たこともあったという。そこに書かれていたのは中国の大手企業の名だった。

 来日中、ワンチェンさん家族と一緒に買い物をしていると、「Made in Chinaは絶対に買わない」という固い意志に触れた。それは、"嫌中"などという理由ではなく、その製品の背景に、ワンチェンさんと同じ境遇のひとたちの顔を思い浮かべているからだった。講演中、彼が何度も心残りだと語ったのは、いまも自分と同じ境遇の囚人が、労働をさせられているということだった。自分だけが中国から脱出してしまったこと、同じように労働を課せられた仲間たちが、いまも苦しい思いをしているだろうことに胸を痛めていた。

 もうひとつワンチェンさんが何度も訴えていたのが、チベットの文化が衰退してしまうことへの強い懸念だった。とくに、幼児教育の中国化(保育士が漢人であるため漢語を話す)や教育の寄宿学校化(学校は漢語が標準語。家族と過ごす時間が減り、チベット語や文化に触れられなくなる)、18歳未満による宗教研究への参加の制限(18歳未満の出家が禁じられ、少年僧がいなくなる)など子どもへの教育についてだ。教育が近代化しただけといえるかもしれないけれど、この近代化の中でチベット語が取りこぼされていることに、ワンチェンさんは危機感を抱いていた。

 チベット語は、チベット仏教と切っても切り離せない関係にある。そしてまた、チベット仏教は、チベット人の心に深く関わり、身体に染みついている。もしチベット語が消滅してしまったら、それはひとつの、慈悲深く、深淵な世界が消えてしまうことになると、わたしは思う。ある言語学者が、「ひとつの言語が消えてしまうことは、ひとつの宇宙が消えることと同じ」と言った。ワンチェンさんは、それに抗おうといまも静かに闘っている。


注:筆者は、2009年から8年の歳月をかけてドキュメンタリー映画『ラモツォの亡命ノート』(2017年劇場公開)を制作。また、アメリカでの一家の再会、ドゥンドゥップ・ワンチェンさんの獄中生活と亡命に関する独白取材を含む、ラモ・ツォさんと家族10年の軌跡を綴ったノンフィクション『パンと牢獄?チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』(集英社クリエイティブ、2020)を出版。