人権の潮流
わたしは日本の識字問題について研究している。識字問題を個々人への教育で解決するのではなく、社会環境をバリアフリーにしていくことで解決したいと考えている。そのような理念をわたしは「ことばのバリアフリー」や「言語権」という用語をつかって議論している。
社会言語学という研究分野では言語権の議論が活発である。そしてその理念はある程度社会的にも共有されているように感じられる。日本語が(あまり)わからないひとに多言語情報を提供すること、言語継承を支援することが重要だと認識されつつある。しかし一方で、言語権の侵害をうみだす「言語差別」を問題化する議論は主流になっていない。つまり、言語権の理念は多くの場合、多言語支援や母語教育支援のように「マイノリティ支援」という位置づけで理解されている。言語の不平等、規範主義、書きことばのハードルなど、支配的な価値観をゆさぶること、多数派の特権を問うような問題意識が共有されていない。その背景には、言語のもつ性質、そのなかでも言語の排他性や規範性が認知されていないことに原因があるのではないか。
言語は、ひととひとをつなぎ、まとめあげる。言語には求心力がある。言語が継承されるのは「おなじことば」を共有することに、よろこびがあるからである。ひとは、おなじことばを共有することで、一体感をもつ。ひとは知らず知らずのうちにコミュニティのなかにとけこみ、同化してきた。「自分のことば」というものは、出会いと交流の産物である。
言語はひとつではない。集団ごとにちがう。つまり、言語は一体感をうみだすと同時に疎外感をうみだす。人間は、すべてのひとと言語を共有したいとは思っていない。だからこそ、ひとは言語でだれかを他者化し、とおざける。言語には排他性がある。
言語のもつ求心力は、多くのひとを同化させる。言語のもつ排他性は、異化する方向にむかわせる。ほかの集団と言語を異化することで自分たちの同一性を確保することがある(おなじ日本語話者のあいだでも業界用語などのように、自分たちだけで通じる表現をつかって結束することがよくある)。言語の歴史とは、ことばで結束し、ことばで仲間はずれをつくる、その結果として形成されたものである。
社会のなかで、ある言語はインフラのように機能している。そのような言語を大言語や主流言語などと名づけることができる。大言語は、ことばの用法が整備され、教育され、マスメディアで発信され、文字情報として流通している。一方で、そのような地位にない言語は日常の話しことばとして使用されている(たとえば日本手話)。その結果、支配的言語を自由に使用できるひとが社会のなかで特権的な地位をもつことになる。なぜなら、ふさわしい場面でふさわしい言語を使用することができる、そのような言語能力をもっていると認定されるからである。そのような価値観が社会のなかにあるからである。多数派が自分たちの都合で「ふさわしい言語」を規定している。一方で主流言語があまりできないひとは、公共空間から排除されてしまう。情報・コミュニケーションの権利をうばわれてしまう。
権利をうばわれることは、くやしい。そのため、多くのひとは大言語や主流言語を学習しようとする。なかには言語学習に成功するひともいる。成功とは、複数の言語の話者になることである。一方で、うまく身につかないひともでてくる。あるいは、自分の言語を維持できなくなるひともでてくる。たとえば外国にルーツのあるこどもは学校などで主流言語に接することで親の言語のほうが苦手になりやすい。また、話者が減少するばかりで言語の継承が困難になっている言語もある(たとえばアイヌ語や琉球諸語)。
そこで重要になるのが言語権という理念である。言語権の理念は、ことばによる排除を問題視し、多言語に対応するように社会の体制をととのえるとか、わかりやすいことばで表現するとか、文字情報を印刷物だけでなく電子テキストや電子書籍も用意するとか、音声や動画による情報を提供することを要求する。同時に、大言語や主流言語の特権的な地位について問題提起し、その不平等をゆさぶろうとする。とはいえ、支配的な価値観に異議をとなえることのほかに、できることはすくない。
言語差別がやっかいなのは、言語の規範性と弁別性が強固なものであり、のりこえがたいハードルとしてたちはだかるからである。
それぞれの言語を観察してみると、その使用法には規則性があり、その言語ごとに特徴がある。そういった特徴はほかの言語にも見いだせることがほとんどである。だが、自分の言語と主流言語(あるいは学習したい言語)の特徴がうまく合致(類似)しているとはかぎらない。自分の言語にはない発音(子音や母音)があるとか、アクセント体系があるとか、文法の特徴があるとき、うまく身につくものもあれば、ほとんど身につかないものもある。発音できないとか、区別できないものが当然のこる。そして、そのことに気がつくのは学習者本人よりも第一言語話者のほうである。日本語を第一言語とするひとは、「おじさん」と「おじいさん」の発音のちがいに敏感である。一方で、「「キムチ」じゃなくて「キmチ」です」といわれても、よくわからないかもしれない。そもそも朝鮮語の「キム」も「チ」も日本語の文字では表現できない。
あべ やすし 著 『増補新版 ことばのバリアフリー
ー情報保障とコミュニケーションの障害学』
(生活書院、2023年10月10日)
そのように言語には規範性と弁別性があり、その弁別性によって第一言語話者であるかどうかも「弁別」している現実がある。日本語学習者がはなす日本語をわざとカタカナで表記することがあるのは、日本語としての不自然さを感じとっているからである。しかし、異言語を学習すること、やりとりすることのむずかしさを理解していれば、そのようなカタカナ表記はできないはずである。うまくはなせない「もどかしさ」を経験していれば、他者が日本語を学習して会話していることをわらいものにするようなことはできないはずである。そのような差別行為をしてしまえるのは、日本語が通じることがあたりまえの社会に安住し、多数派としての特権を当然視しているからである。
言語について、日本語のありかたについて、議論するべき話題は豊富にある。しかし、自分にとってはあたりまえすぎて、なにか問題があること、議論がされていることに気がつきにくい。だからこそ、ふとした疑問や違和感を大事にして、言語や日本語についての議論に参加してほしい。たいていのことは、だれかが議論している。文字のある言語の特権をつかって検索してみてほしい(文字のない言語では検索はできない。そのことを優劣の価値判断をせずに表現することはできるだろうか。できないだろうか。こんなところ=この文章にも言語差別を見いだすことができる。たとえば、日本語ではなく英語で検索すればもっとたくさんの情報にアクセスできる現実があり、その現実が英語の威信と求心力をたかめている)。
<参考>