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国際人権ひろば No.173(2024年01月発行号)

特集:植民地主義の克服のあり方を考える

コリアン・ジェノサイド論素描

前田 朗(まえだ あきら)
朝鮮大学校講師

 1999年、筆者は在日朝鮮人に対する差別と暴力のヘイト事件を国連人権委員会(当時。現在は国連人権理事会)に報告し、1923年の関東大震災朝鮮人虐殺を「コリアン・ジェノサイド」と命名した。2023年、多くの人々がジェノサイドという言葉を用いるようになった。だが大虐殺をジェノサイドと呼び変えることに意味があるのではない。国際法に照らして検証する必要がある。

 第1に事件を1923年の関東に限定せず、朝鮮植民地支配全体に位置付ける。日本軍による朝鮮人民虐殺は植民地化過程の全体を通じて確認できる。

 第2に事件を現代史における世界のジェノサイドと対比することで関東大震災朝鮮人虐殺の世界史的位置を検討する。本稿では以上の2点について論じる。

 なお第3に国際刑法における上官の責任の法理に照らせば、最高権力者の責任が明確になる。1923年9月、大正天皇が病床にあったため皇太子裕仁が摂政に就任していた。研究史では、陸軍や警察による虐殺や流言流布の国家責任と、虐殺に手を染めた民衆の責任を論じてきた。摂政裕仁の責任は不問に付され、全く言及されない。100年に及ぶ強烈なタブーである。この論点につき、前田朗「ジェノサイドと上官の責任-関東大震災朝鮮人虐殺のタブー・摂政裕仁の責任をめぐって」『人権と生活』57号(在日本朝鮮人人権協会、2023年)参照。

ジェノサイドとは

 ジェノサイド概念は、1944年、ポーランドのユダヤ系刑法学者ラファエル・レムキンがナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を裁くための刑法規定として考案した。親族を殺害されてアメリカに亡命したレムキンは、特定の集団(国民的、人種的、民族的又は宗教的集団)を破壊する犯罪をジェノサイドと呼んだ。ジェノサイドの定義は次のとおりである。

 「国民集団の文化や、言語、国民感情、宗教、経済の存在を解体したり、その集団に属する個人の人身の安全、自由、健康、尊厳や生命を破壊することである。ジェノサイドは、統一体としての国民集団に向けられ、その行為が個人に向けられるのは、その個人の特性によるのではなく、その国民集団の一員であることによる。」

 1946年、国連総会は「ホミサイド(殺人)が人間個人の生命権の否定であるように、ジェノサイドは全人間集団の存在権の否定である」と決議した。1948年、国連総会はジェノサイド条約を採択し、1951年に発効した(日本は未批准)。

 戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドなどの国際重大犯罪の裁判は第一次大戦後のイスタンブール裁判やライプチヒ裁判に始まった。イスタンブール裁判はオスマン・トルコの軍人による犯罪を人道に対する罪として裁いた。ライプチヒ裁判はドイツ帝国軍人による戦争犯罪を裁いた。いずれも不十分な裁きだが、軍隊の行為を戦争犯罪や人道に対する罪とする最初の法廷であった。戦争犯罪の裁きは第二次大戦後のニュルンベルク裁判・東京裁判で本格化した。1990年代、国連安保理事会の決議に基づいて「民族浄化」を対象とする旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷、及びツチ・ジェノサイドを対象とするルワンダ国際刑事法廷を経て、1998年の国際刑事裁判所(ICC)規程につながった(前田朗『戦争犯罪論』青木書店、2000年)。

 2002年、ICCがハーグ(オランダ)に設置され、捜査と裁判を始めた。ICCは戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド、侵略犯罪を裁き、被害者救済も図る。ICCは普遍的管轄権(地球上すべての場所での戦争犯罪等を裁く権限)を持つ。現在、ウクライナ戦争についてロシア大統領のプーチンに逮捕状が発布されている。ガザ攻撃についてイスラエル首相のネタニヤフをICCに告発する国際的取り組みが始まっている。

世界史におけるジェノサイド

 国際法廷によるジェノサイドの適用第1号は1998年のルワンダ国際刑事法廷によるアカイェス事件判決である。タバ市長だったジャン・ポール・アカイェスはツチ虐殺とツチ女性の強姦を煽動し、容認したとして有罪になった。その後もカンバンダ事件、ムセマ事件、カイシェマ事件、セルシャゴ事件をはじめ数多くのジェノサイド事件が国際法廷で裁かれた。ハーグのICCの裁判実務も相次ぎ、ジェノサイドの法解釈は急速な発展を遂げた(前田朗『ジェノサイド論』青木書店、2002年)。

 歴史学におけるジェノサイド研究にも豊かな蓄積がある。歴史学では、個人による犯罪よりも、政府や軍隊や準軍事組織などによる大規模犯罪に焦点を当てる。国際法におけるジェノサイド概念と必ずしも同じではない。

 社会心理学者のネイル・クレッセルはジェノサイドとテロルを「大憎悪」と表現して、①旧ユーゴスラヴィアの「民族浄化」、②ニューヨークにおけるムスリム過激主義、③ルワンダのジェノサイド、④1930~40年代のナチス・ドイツのユダヤ人虐殺を分析対象に据える。

 政治学者でウィスコンシン大学准教授のマイケル・ジェシンスキーは、①トルコによるアルメニア人虐殺(1915~18年)、②ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺、③ポーランドやハンガリー等東欧におけるユダヤ人迫害(1930~40年代)、④スターリン時代のソ連における虐殺、⑤1970年代のクメール・ルージュによるカンボジア・ジェノサイド、⑥ルワンダ・ジェノサイドを論じる。

 イェール大学国際人権研究所副所長だったジョージ・アンドレプーロスの編著『ジェノサイド』は、①ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺、②アルメニア・ジェノサイド、③イラク等によるクルド・ジェノサイド、④カンボジア・ジェノサイドを分析する。

 また2017年に悪化したミャンマー(ビルマ)におけるロヒンギャ人に対する迫害がジェノサイドに該当するか国際的に議論されている。2021年、ドイツ政府は1905年頃の植民地ナミビアにおけるヘレロ人殺害がジェノサイドであったと認めた。

 日本による朝鮮植民地支配下でのコリアン・ジェノサイドはこうした世界史的文脈で理解する必要がある。

コリアン・ジェノサイドとは

 コリアン・ジェノサイドの主要な局面は次の4つである。

 第1に植民地ジェノサイド。暴力的な征服による植民地化や、人民が抵抗運動を組織した時に、軍事的手段によって鎮圧が図られ、ジェノサイドにつながる。「植民地支配犯罪」の一環としてのジェノサイドである(前田朗「植民地支配犯罪論の再検討」『法律時報』87巻10号、2015年)。朝鮮植民地化過程では1894年の甲午農民戦争における民衆虐殺が注目される。1875年の江華島事件、82年の壬午軍乱、84年の甲申政変、92年以後の東学教徒の活動を経て、94年の甲午農民戦争に至る。96年の第1次義兵運動、1910年の韓国併合、そして三一独立運動、間島事件への弾圧が続く。

 第2に関東大震災ジェノサイドは軍、警察及び民衆(自警団等)の協力によって実現した。大震災発生の9月1日、早くも横浜では「朝鮮人暴動」のデマが流れ、朝鮮人虐殺が始まった。9月2日、横浜や東京の各地で虐殺が激化した。政府は「朝鮮人が暴動を起こしている」という未確認情報に基づいて戒厳令を出し、虐殺を煽った。戒厳令に基づいて出動した軍隊が朝鮮人を虐殺し、警察が各地でデマを流布し、自警団の結成を呼びかけ、横浜、東京、千葉、埼玉、群馬の各地で虐殺事件が多発した(前田朗『増補新版ヘイト・クライム』三一書房、2013年)。

 第3にコリアン文化ジェノサイド。植民地支配において被支配民族の民族性を剥奪する文化・教育政策が採用された。朝鮮語使用の禁止、日本語使用の強制をはじめとする文化と教育の変質である。文化ジェノサイドは植民地支配終了後も続いた。略奪文化財問題はその一つである。在日朝鮮人に対する差別的な在留管理・外国人登録体制、奪われた民族性回復のための民族学校に対する差別と弾圧をはじめ、文化ジェノサイドは今日まで続いている。

 第4に歴史の事実を否定・歪曲するホロコースト否定。西欧諸国では「アウシュヴィツのガス室はなかった」「ユダヤ人迫害は良かった」といった発言を公然と行えば犯罪となる。「慰安婦はなかった」「関東大震災朝鮮人虐殺はなかった」といった歴史修正主義は、被害者の歴史的アイデンティティに対する新たな攻撃である(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究要綱』三一書房、2021年)。

 以上の全体を念頭に置くことによって、関東大震災ジェノサイドの世界史的位置を理解することができる。