特集:植民地主義の克服のあり方を考える
この夏、カナダに3週間ほど滞在した。ウィニペグ、トロント、モントリオールを訪問した。目的は、多文化主義を政策として掲げている国の雰囲気がどのようなものかを知ること、そして先住民族たちの歴史と現状を知ることであった。
ウィニペグの中心から車で約1時間、ポーテイジラプレーリー(Portage la Prairie)という町があり、寄宿学校博物館(Residential School Museum of Canada)はここに位置している。この地はカナダ全土で630を超える先住民族コミュニティーのうち、ロングプレイン(Long Plains)と呼ばれる居留地で、オジブワ(Ojibway)とダコタ(Dakota)の人々の土地である。カナダでは1830年代初頭から1996年まで寄宿学校制度が実施され、何千人ものファースト・ネイション、イヌイット、メティス(メイティとも言われる、先住民族とフランス系住民のあいだに生まれた子)と呼ばれる先住民族の子どもたちを白人・ヨーロッパ文化に同化させようとして寄宿学校に通わせた。寄宿学校の多くはキリスト教ローマカトリック教会によって運営された。博物館は実際に使われていた学校の建物である。
寄宿学校博物館
誰かいるだろうと思って予約もせずに訪問した。一人の女性が事務室にいて、快く迎えてくれた。パメラという名前で、博物館スタッフとしてはまだ研修中とのこと。館長がランチ休憩で不在だからと、パメラさんが館内ツアーをしてくれた。「案内するのはまだ二回目」と少々緊張した面持ちだった。彼女の父は寄宿学校に通ったが、自分は通わなかった最初の世代だと言ったので、私は少々驚いた。寄宿学校は1975年まで開いていたというのだから、それほど昔の話ではないのである。
博物館はまだ作りかけであり、展示の多くは手作りであった。最初の部屋を入ると、寄宿学校の略史と、「なぜ9月30日にオレンジのTシャツを着るのか」という展示があった。カナダの(一般の)小学校では9月30日にオレンジのTシャツを着るイベントがあるという。これは、6歳の女の子が寄宿学校への入学の日に新しいオレンジのTシャツを取られて制服を着せられたという話に起源をもつ。毎年この日は子どもたちが寄宿学校に送られる日で、「一人ひとりの子が大事(Every Child Matters)」というメッセージを全てのカナダ人が心に刻むようこの日に設定された。
寄宿学校以前の先住民族の暮らしの展示のあと、寄宿学校時代の展示室があった。家族から引き離されて連れて来られた子どもたちはまず体を洗浄され、髪の毛を切られ、女の子は顎の長さのおかっぱ、男の子は坊主頭にされる。
髪を切られた女児
殺虫剤(DDT)をふりかけられ、制服を着させられる。もともと持っていた名前は奪われ、ヨーロッパ風の名前を付けられる。時に腕の内側に番号を入れ墨されるケースもあった。小さなベッドと薄い布団、食事は質素どころか腐ったものが出てきたりして、多くが栄養失調になった。民族の言語で話せば罰せられ、兄弟姉妹が同じ学校にいても話すことを禁じられた。労働に従事させられもした。性暴力を受けた女児・女性も多く、神父の子を妊娠した場合、産まれた子は元気でも殺された。多くの子どもが亡くなり、家に帰ることなく学校の敷地内に埋められた。2021年に学校跡から多くの遺骨が発見されて大ニュースになった。
パメラさんはご両親の話をしてくれた。父は寄宿学校に通った。父は14人兄弟姉妹で、一番下の子は、生まれたとたんに学校に奪われて戻って来なかった。父の両親は取り返そうと闘ったが叶わなかった。母は寄宿学校に行かなくて済んだが、その兄弟姉妹たちは通った。母の両親は子どもたちがその頃の年齢になると、奪われないように家財道具と子どもを抱えて草むらに逃げたという。数年間はそれで大丈夫だったが、しかし奪いに来る側もそれに気づいて、草むらから帰ってくるところを待ち伏せしていた。
卒業後の子どもたちは、そのまま主流社会に留まることが多かったという。故郷はすでに居心地の良い場とは思えなかったようだ。
館長のロレインさんは、民族名(の英語訳)をイエロースカイという。寄宿学校のサバイバーで、1970年の大阪万博のカナダ館に、グリークラブの一員として来ていたそうだ(寄宿学校にはグリークラブがあり、あちこちで公演していた)。珍妙な塔があったね(太陽の塔のこと)、みんなで抜け出して温泉に行った、と楽しそうに語ってくれた。
博物館は始まって2年ほどにしかならず、多くの資料を集め、調査・研究を進めている。将来的には建物全部が博物館になる予定とのことだ(現在、他のフロアは先住民族の警察等が事務所として使用している)。
ウィニペグにはカナダ人権博物館(the Canadian Museum for Human Rights)がある。レッド川とアシニボイン川が交わるザ・フォークスという場所で、古くから交通の要所として栄え、現在は公園やショッピングセンターなどがある市民の憩いの場である。2014年に開館したピカピカの豪華な建物は、全8階、世界の人権の歴史から始まり、カナダの固有の人権問題、マイノリティの人びとの闘いなどが展示されている。さながら罪の博物館のようで、カナダ社会における植民者やマジョリティ集団が、各種マイノリティ集団-ファースト・ネイション、女性、黒人、イヌイット、日本人(収容所)、中国人(鉄道労働)、労働者、性的マイノリティ-をどのように抑圧してきたのか、それが当事者や人びとの闘いによってどのように変化してきたか、が展示されている。もちろん、先住民族に関する展示も充実していた。展示の一つは、吊り下げられた数枚の赤いドレスだった。
博物館の赤いドレス
赤いドレスはカナダで行方不明となっている先住民の女性たちを象徴している。これは「REDressプロジェクト」と言って、その不正義を心に刻むためのインスタレーション・アートである。1980年以降およそ1,000人以上の先住民族女性が殺されたり行方不明になったりしているという。カナダの人口のうち先住民族は約4%に過ぎないが、殺人被害者となるとカナダ国内の全女性被害者の16%に達する。なぜそんなに多いのか。人種主義によって、先住民族女性はいなくなっても殺されても「誰も気に留めない存在」とされていると考えられているからである。ウィニペグ(マニトバ州)は失踪も含めて特に多いという。
人権博物館の裏には、テントを張って抗議行動をしている人たちがいた。周囲には赤いドレスが風に揺れている。横断幕には「私たちはゴミじゃない。私たちは人間だ。」「私たちは先住民族。なぜここにいるのか聞いてみて。この火は神聖だ。私たちの女性も神聖だ」と書かれていた。真ん中には薪で火が焚かれている。2021年にウィニペグ近郊で先住民族女性4名が殺害されるという事件が起こった。連続殺人犯は逮捕されたが、遺体をゴミ廃棄物最終処理所(埋立地)に捨てたという。州政府と警察は、費用がかかりすぎるからと捜索をしない。これに対する抗議行動である。「遺体が白人の女の子だったらすぐに捜索したんじゃないか」とカナダの友人はつぶやいた。
先住民族に対する過去の扱いは、現在の先住民族たちの文化や暮らしに多大な影響を与えている。女性たちはとりわけ過酷な状況に置かれている。植民者がずっとそこに居座っていて、しかも彼らの方が社会の支配層である。そういう社会で一緒に暮らさねばならないとはどういうことか。ロレインさんに聞いてみた。「カナダ政府が先住民族に対する虐殺について、ローマ教皇が寄宿学校について謝ったけれど、あなたや先住民族の暮らしに変化はありましたか」。「これから具体的に何をしていくのかが重要」という答えが返ってきた。
抗議行動の立て看板。後ろにそびえたつのが人権博物館
ウィニペグという都市についていろいろと教えてくれたブライアン・ヴォケロス氏、その兄で博物館まで車を出してくれたマイケル・ヴォケロス氏に感謝する。
<脚注>
・寄宿学校ウェブサイト https://nirsmuseum.ca/
・カナダ人権博物館ウェブサイト https://humanrights.ca/