特集:ビジネスと人権の現在地
2023年7月24日から8月4日の日程で、国連ビジネスと人権作業部会の訪日調査が行われた。最終報告書は本年(2024年)6月の国連人権理事会に提出されるが、調査最終日に発表されたステートメント(1では、人権を尊重する企業の責任に関して、「バリューチェーンの上流と下流で人権リスクを監視、軽減する能力を含め、さまざまな問題で大きなギャップが残っている」との指摘があった。この点は、2024年1月に公表された経団連調査(2からも読み取れる。人権リスクを認識する企業活動として、調達(87%)、生産(68%)というバリューチェーンの上流での取組みに対し、下流では流通(53%)、顧客・消費者による製品・サービスの利用(59%)、リサイクル・廃棄(46%)と取組みのギャップを確認することができる。そこで、本稿では、指導原則の現在地として、バリューチェーンの下流における企業の人権尊重責任について考察する。
本稿で取り上げる「下流」とは何か。これまで「ビジネスと人権」と言えば、中国新疆ウイグル自治区での強制労働問題など、原材料調達や生産委託といった製品・サービスまでの取引関係(上流)における児童労働や強制労働などの人権侵害に関心が向けられてきた。一方、製品・サービスが最終消費者へ、さらにはその先(廃棄やリサイクルなど)へとつながっていく取引関係はどうだろうか。例えば、自社の製品・サービスが過度に対象を絞ったマーケティング戦略のもとで売られている場合、自社の製品が顧客により人権侵害の手段に使われている場合、また金融機関が投融資したプロジェクトにおいて人権侵害が発生した場合などである。このような場合、企業は消費者や地域住民につながる下流においても人権尊重責任があるのだろうか。
指導原則では、企業には人権を尊重する責任があり、それは防止と救済、すなわち企業が他者の人権を侵害することを回避(=防止)し、関与する人権への負の影響に対処(=救済)することである(原則11)という。防止はもちろん、救済について、自社の活動を通じての負の影響だけでなく、取引関係の結果として生じた負の影響も当該企業の責任の対象となり(原則13)、この「取引関係」には、取引先企業、バリューチェーン上の組織、企業の事業、製品またはサービスと直接関係のある非国家主体・国家組織が含まれる。自社の原材料の調達といった製品・サービスにつながる上流の取引関係だけでなく、自社の製品・サービスを通じた下流の取引関係も当然責任の範囲となる。
では、下流の取引関係において企業はどのような責任を負うのだろうか。(3指導原則が求める人権方針、デューディリジェンス(以下、DD)、是正・救済というプロセスは変わらないが、例えば、これらプロセスの前提となる人権課題の特定において、製品設計や営業方法、マーケティング戦略、最終廃棄過程などにおける人権リスクを検討することが必要となる。また、製品・サービスがどのように使われているかについて人権影響評価を含めDDを実施したり、下流の取引関係のなかで生じた人権侵害の被害者が相談窓口にアクセスしやすくしたりするなどの対応を行う。
以下では、下流における企業の人権尊重責任を考えるにあたって重要となる事例として、EUコーポレート・サステナビリティDD(以下、CSDD)指令案と紛争影響地域の問題を取り上げる。
2022年2月に欧州委員会が指令案(4を発表し、欧州理事会および欧州議会における議論、そして三者協議を経て、2023年12月に指令案の暫定的な合意が成立した。交渉における争点のひとつが、バリューチェーンの下流におけるDDの義務化であった。
2022年欧州委員会案第3条(g)では、バリューチェーンを上流および下流のビジネス活動としており、例えば第6条では、加盟国は企業が「既存および潜在的な負の影響の特定」を確保するために適切な措置をとらなければならないことを規定しているが、その範囲はバリューチェーン上も含まれている。
しかし議論の過程で、複数の加盟国政府から、指令案の対象を狭める提案、すなわち、バリューチェーンの上流に焦点を当てるべきで、下流は対象とされるべきではないという意見が示された。なぜならば、下流を対象とすることで、複雑な司法上の問題に直面しうるというのである。
欧州理事会では、製品使用やサービス提供などは指令の対象から除外されるべきであるとして、バリューチェーンという用語使用自体の修正が提案された。一方、欧州議会による修正案では、バリューチェーンの定義から下流の文字は消えたものの、物流や営業、流通といった具体的な取引関係を示す修正にとどまった。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻から2年が経とうとしており、残念ながら終結が描けない状況が続いている。さらに昨年10月からパレスチナのガザ地区においてハマスとイスラエルの間での軍事衝突も続く。このような深刻化する武力紛争とその被害を受けて、なお一層、紛争影響地域における企業の人権尊重責任がさまざまな形で問われてきた(5。具体的には、企業は紛争影響地域でのビジネス継続または撤退を通じてその地域の人々の人権にどのような影響を与えうるのか、また武力紛争地域において自社の製品・サービスがどのように使われているか(人権侵害を引き起こし、助長していないか)といった問いである。
この点に関連して、2021年、国連人権高等弁務官事務所は、NGOのDanwatchからの要請で、テック企業による軍事ソフトウェアの輸出に関して、誰がどのように自社製品を使用するのかについて、当該企業は指導原則上DDを実施する責任を負うのかという問いに回答した(6。作業部会は、指導原則13・17を援用しながら、自社製品の使用という取引先の行為についてもDDの対象となること、そして武力紛争下は、企業が優先的にDDを実践すべき状況であるとした。
ガザ地区の悲惨な状況に加え、ヨルダン川西岸地区では、イスラエル政府による入植活動によるパレスチナ人の深刻な人権侵害が続いてきた。入植活動は企業活動に支えられている。具体的には、住居や農地、ビニールハウス、オリーブ畑などを破壊するための機材の提供、入植地や壁等の建設・拡大のための機材・物資の供給、検問所のための監視及び識別機器の供給、入植地での活動を開発・拡大・維持するための投融資事業などである。これらが入植活動を助長しているとして、2020年には入植関与企業112社(うちイスラエル企業以外は17社)のデータ(7が公表された。イスラエル企業以外の企業には旅行会社の名前が目立つが、入植地において自分たちが提供するサービスがパレスチナ人の人権に与える負の影響について責任が問われた。
三者協議の結果は最終案の発表を待つしかないが、欧州理事会の発表によると、下流の取引関係についても流通やリサイクルなど部分的には盛り込まれたようである。
指導原則上、企業はバリューチェーンの下流の人権課題に対して防止および救済の責任を負っているが、責任の内容や実施方法についての議論はこれからというのが現状である。引き続き、展開を追っていきたい。
<脚注>