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国際人権ひろば No.174(2024年03月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

アートがつなぐ子どもと社会~インド・スラムの教室のチャレンジ

阪口 史保(さかぐち しほ)
特定非営利活動法人ボーンフリーアートJapan 共同代表

なぜインドへ?

 私が初めてインドに来たのは2001年、学生時代にバンジージャンプに挑む思いでインドのNGOに飛込みインターンとして受入れてもらった。その1年後、私と同様にインドに独り身で乗り込んできた日本人女性、中山実生さんに南インドのバンガロールで偶然出会った。日本に帰国した後も彼女が立ち上げたNGO「ボーンフリーアートスクール」(以下、BAS)(注を幾度となく訪れた。私と同じように日本からインドのBASを訪れて感動した人々が他にも多くおり、日本に戻った後もBASとつながり何かしたいという仲間が集まり、特定非営利活動法人ボーンフリーアートJapanを設立した。

 2016年、大阪で勤めていた私に「バンガロールで調査の仕事してみないか」と偶然にも当時勤務していた会社から声がかかり、これは「チャンスは前髪でつかめ」だと思い、早々と心を決めてインドに移住した。

コロナ禍のスラムから

 2021年4月、インドでコロナ感染者がうなぎ登り増えインド全国で二度目の完全封鎖(ロックダウン)となった。ビザ更新のため日本に一時帰国していた私のもとにインドのスラムに住む男の子から「もう食べる物もなく、どうしたらよいかわからない」というメッセージが届いた。いてもたってもいられず、一緒に活動していたBAS卒業生達に連絡し、日本から支援金を送りスラムへの食料支援をすることになった。完全封鎖が行われた約3ヵ月間に食料品パック340個と毎日の配食を継続し、合計11,000食以上をスラムの人々に届けることができた。同年7月中旬以降、完全封鎖は解除されコロナ感染は徐々に収まりを見せたがコロナ禍は貧困層の生活をより一層困窮させた。いつまた完全封鎖になって物乞いができなくなったり、日雇いの収入が途絶えるかもしれないという不安の中、スラムの子ども達が自分の将来の夢を見つけられるようにするために私達ができることは何かと考えた結果、子ども達への教育支援に行き着いた。

 スラムの人々の多くは他州や農村から大都市バンガロールに出稼ぎに来て住民登録しないでスラムに住み着き、物乞いや日雇いで日銭を稼いで生きている人々である。子ども達はほとんど学校に行っていないか、行ったことがあっても短期間でドロップアウトしている。親達もほぼ教育を受けておらず、学校に通わせなければならないとも思っていない。子ども達は10歳頃になるとヒンドゥー教では神様の化身である牛を引っ張って家々を回りお布施をもらう物乞いの要員となる。私達はそんな子ども達でも通うことができるようにスラムの中にブルーシートで小屋を建てスラムの教室を開設した。はじめは私達があげるオヤツが欲しくて教室にやってきた子ども達も徐々に「今日は何するの?またぬり絵したい!」と毎日喜んで通ってくるようになった。また、懐疑的な視線で私達を見ていた親達も「私の子どもも教室に入れて欲しい」と連れてくるようになった。

アートを通じてどんな子も学べる

 現在、バンガロール市の2ヵ所のスラムでBAS卒業生達が作ったNGOと共に教室を運営している。それぞれのスラムの状況は違っているところもあるが、どちらも隣のアンドラ・プラデシ州から出稼ぎに来ている人々がおりバンガロールのあるカルナタカ州の公用語であるカンナダ語とは異なるテルグ語を母語としている人々がいることは共通している。カルナタカ州の公立学校ではカンナダ語で授業が行われていることから、テルグ語を母語とする子ども達は言葉がわからず授業についていけない。海外から日本に来た子どもに日本語指導が必要であるのと同様に、スラムの子ども達がカンナダ語の公立小学校に通うには言語サポートが必要不可欠なのである。

 私達のスラムの教室はそのような環境にある子ども達に就学前教育や言語中心の基礎教育を提供し、公立小学校に通うよう後押しすることを目的としている。また、学校に行ったことがない子ども達がノートと鉛筆のみで勉強するのは難しく、様々なアートや音楽、映像、遊びを取り入れて子ども達が楽しみながらできる学習に取り組んでいる。カンナダ語のアルファベットに色を塗ったり豆や石を並べて書いてみたり単語の絵を見せたりしながらじっくりと時間をかけて子ども達が学んでいく。初めは集中力が無かった子どもが次第にもっと学びたいと意欲を見せるようになり、一生懸命自分が描いた絵や書いた字を「先生、みてみて!」と見せてくれる。子ども達は教室を始めてから2年程で驚く程の成長を遂げている。


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カンナダ語のアルファベットの色塗りをして覚えたスラムの女の子

スラムの人々とのかかわり

 スラムの教室を始める前に私の人生を変えた言葉がある。2018年にコルカタにあるマザーテレサの家(福祉施設)を訪れてボランティアをした。「死を待つ人の家」で他に行き場所のない患者達と接しているとマザーテレサの言葉がより深く自分の中に入ってきた。

 『どれ程沢山のことをしたかではなく、どれ程の愛情をそれに込めたかです』、『私達全ての人がすごいことができるわけではありませんが、私達は小さなことを多大な愛情をもってすることはできるのです』。

 スラムの子ども達と私は、カンナダ語は基本の"き"程度にしか話せないが、カンナダ語が話せるインド人スタッフと共に子ども達に接していると次第に子ども達が私に駆け寄ってきたり抱きついてくるようになった。親達もはじめは外国人の私には金品をねだる以外に話しかけてくることはなかったが、次第に打ちとけ言葉がわからなくても語りかけてくるようになった。自分の子ども達に愛情をもって接してくれているということが伝わると親達も嬉しい様子である。

 インド社会においてスラムの人々は他地域から来たよそ者であり、決まった住所が無く地域の自治の枠外に置かれる。選挙権も持たない人々が暮らすスラムは、地域社会から見捨てられているコミュニティである。私達の役割は、地域社会の人々が子ども達をはじめとするスラムの人々を受け入れ、スラムの人々が地域社会の一員となっていくことでスラムの子ども達が地域で育っていくことのできる環境を作ることであると考えている。したがって今後スラムの中だけではなく、地域の学校や行政、他のNGOやボランティアともつながって子ども達を包括的に支援していく必要があると思う。

私達にできること

 ボーンフリーアートJapanは、日本の人々とともにインドのスラムや周辺農村の公立小学校を訪れ、子ども達とアートワークショップを行う取り組みを継続している。毎年、沖縄伝統芸能のエイサー舞踊や折り紙、書道、絵や工作などのアートをインドの子ども達に紹介し体験してもらっている。

 インドの公立学校には美術や音楽といった教科が無いことから、子ども達がアート経験により自分を表現する機会を作ることを一つの目的としている。またもう一つの目的としては、ヒロシマ・ナガサキの戦争経験や核戦争の恐ろしさを子ども達に伝え、平和がなぜ大切か、どうしたら平和になるのかを子ども達と一緒に考えるという取り組みを行うことである。特にヒロシマの「原爆の子の像」のモチーフとなった佐々木禎子さんの「禎子の千羽鶴」の物語を取り上げて、子ども達に戦争がどのような影響を与えるのか、子ども達に何ができるのかを一緒に考えるといった取り組みを行っている。

 近年では、子ども達が国を越えてつながることで平和な未来を創っていくことを目指し、インドと日本の子ども達の交流も目的の一つとして加えて、オンラインでスラムと日本の公立小学校を結んで交流を行うという取り組みも行っている。日本から毎年来て子ども達と交流してくださるボランティアに支えられ、今後もさらに活動を深め広げていきたい。


注:
ボーンフリーアートスクールは、働く子どもや債務奴隷、路上で暮らす子ども達の社会復帰を目指して2005年に設立されたインドのNGO。"教育は楽しみから、楽しみは教育から"を理念に音楽、ダンス、演劇、絵画、彫刻、写真、映画等のアートを中心とした教育によりストリートチルドレンのエンパワメントに取り組み、数々のアート作品を制作してきた。