特集:公共から排除されるもの
「居住権・立ち退きセンター(The Centre on Housing Rights and Evictions)」という国際的な研究機関がある。ジュネーブに拠点を置くこのセンターは、世界各地で起きている居住権の侵害や立ち退きなどの実態を綿密な調査によって明らかにし、その知見はさまざまな批判的研究によって活用されてきた。残念ながらセンターは2012年に閉鎖されたのだが、蓄積された調査のアーカイブはオンラインで公開されているので、参照してほしい。このセンターが作成した報告書のひとつに、『居住権のためのフェアプレーを-メガイベント・オリンピック・居住権』(2007年)がある。この報告書には、オリンピックやワールドカップ、サミットや万博などのメガイベントが起こしてきた社会的不公正が、詳細かつ網羅的に記録・報告されている。日本についての情報はやや不足しているものの、それでも2006年に大阪で開催された世界バラ会議にともなう野宿者への強制排除が取り上げられているなど、視野の広さに驚かされる。注目したいのは、世界各地の事例に共通するキーワードとして、この報告書が「ジェントリフィケーション」を強調していることだ。このことが示すように、ジェントリフィケーションという言葉は、世界各地の経験を結びつけるための、重要な手がかりである。
「ジェントリフィケーション」という言葉が生まれたのは、1960年代のイギリスであった。ルース・グラスという社会学者が、ロンドン都心部の貧しい労働者街に裕福な中産階級が新たに移り住み、長年暮らしてきた住民が追い出される現象を発見し、「ジェントリフィケーション」と名づけたのが始まりである。それ以降、この現象は欧米のさまざまな都市で見いだされるようになり、都市を理解するうえで欠かせないキーワードとなっていった。なかでも重要な転機は、1980~90年代の時期だった。この時期にジェントリフィケーションは世界各地で猛威をふるい、ニューヨークなどの大都市では大規模な立ち退きが起きた。なにより、立ち退きに対抗しようとする運動があちこちでたたかわれ、そのなかで「ジェントリフィケーション」という言葉の意味は、巷の人々のあいだに浸透していった。こうしてこの言葉は、都市を生きる住民が「いま自分たちの街でなにが起きているか」を知り、居住の権利を訴えかけるためのキーワードとしてひろく知られるようになった。
では、日本ではどうだろうか。1980~90年代に日本の都市においても、「アーバンルネッサンス」や「民活」などのスローガンのもと大規模な都市開発が展開されるなかで、野宿者排除や襲撃などの不公正が強まった。代表的な事例としては、大阪では1990年の天王寺公園有料化による貧困層の締め出しが挙げられるだろうし、東京では1996年の新宿西口段ボール村の強制排除-この排除では野宿者の寝泊まりを「予防」する排除オブジェが大々的に設置された-などが挙げられるだろう。だが、このような暴力が足元で横行していたにもかかわらず、当時の研究者は「ジェントリフィケーション」という言葉を軽視して、ほとんど紹介してこなかった。いま、この言葉が目新しく感じられるとすれば、ジェントリフィケーションが日本では無縁だったからではなく、都市研究者たちがこの言葉を積極的に紹介してこなかったから、である。現在になってようやく、「ジェントリフィケーション」という言葉を重く受け止め、自分たちの生活を取り巻く力を捉えようとする機運が生まれつつある。私たちは、長いあいだ見落とされてきた現実を問い直しつつ、自分たちのまわりでなにが起きているのかを見定めるためのスタート地点に、ようやく立っているのだ。
このような状況は横行する排除の暴力に対抗する運動にとってきわめて不利に思われるだろうが、見方を変えれば、批判的な視野を開くような可能性が豊かに存在し、使いこなされるのを待っている、ということでもある。ここで、いくつかの論点を紹介してみよう。
たとえば「ジェントリフィケーションの青写真(blue-print)」という言葉がある。ジェントリフィケーションは、グローバルな都市間競争を勝ち抜くための原動力とみなされ、世界各地の都市行政はこぞって「ジェントリフィケーション戦略」というべき都市政策セットを導入しようとした。とくに大きな影響を与えたのは、1990年代のニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニが展開した都市戦略である。ジュリアーニは、ジェントリフィケーションを促進すべく公共空間の美化にエネルギーを注ぐ一方で、貧しい住民を「潜在的な犯罪者」とみなし、警察の取り締まりによって都心の公共空間から容赦なく追い払った。そのようななりふり構わぬジュリアーニの政策が、都市の経済成長の「青写真」として脚光を浴び、世界じゅうにばらまかれたのである。日本の都市も例外ではない。大阪では、大阪維新の会が府市政の主導を握るようになり公園の私営化(民営化)と美化が推進されるなかで、野宿者への立ち退きはいっそう暴力的なものとなりつつある。たとえば日雇い労働者や野宿者の立ち退きをめぐる攻防が長いあいだ繰り広げられてきた天王寺公園は、近鉄不動産へと管理運営が委託されることで、2015年にはショッピングモールのような空間へとリニューアルされた。マスメディアは生まれ変わった公園を「まるでニューヨークのようだ」と礼賛し、大阪維新の会は自身の成果としてそれを大々的に宣伝している。ジェントリフィケーションという言葉は、そのような宣伝文句に隠された不公正を明るみにするのに、欠かせない道具なのである。
天王寺公園エントランスエリア。
様々な商業施設が入った「てんしば」として2015年にリニューアル。
管理運営事業者は近鉄不動産。
また、2000年代の研究は、オリンピックのようなメガイベントとジェントリフィケーションが結びつき、世界各地でイベントの誘致がジェントリフィケーションを促進するための手法と化している実態を明らかにしてきた。冒頭で紹介した居住権・立ち退きセンターの報告書が示しているのは、まさにそのような認識である。ここで思い出してほしいのは、2020(21)年の東京オリンピックが引き起こした不公正である。たとえば新国立競技場の建設地とされた明治公園の一帯では、都営住宅が取り壊されて住民は移転を強いられ、公園にくらす野宿者は暴力的に追い出された。オリンピックが過ぎ去ったいまも、渋谷では宮下公園の商業化によって野宿者が追い払われ、神宮外苑では大規模な不動産開発により大量の樹木が切り倒されるなど、開発の暴力がつづいている。また関西では、オリンピックにつづけとばかりに計画された大阪・関西万博に伴う開発プロジェクトのもと、貧困層を都心から追い払おうとする圧力はますます強まり、樹木の大量伐採・海の埋め立て・地中の掘削などが強行されつつある。
ジェントリフィケーションとは、こうした開発の暴力に立ち向かうための言葉である。この言葉を使いこなすことによって、私たちは権力の動きをもっと深く分析できるようになるだろうし、そのような力に抗うための術を見出していくことができるだろう。その可能性を広げるために筆者らは、新たな翻訳書を世に出すべく作業を進めている(ロレッタ・リーズほか『ジェントリフィケーションとはなにか』ミネルヴァ書房より近刊、村澤真保呂・村上潔との共訳)。この本をもとに、ジェントリフィケーションという言葉を武器として使いこなしていくための対話を、さまざまな現場で広げていきたいと思う。
<参照>
COHRE ARCHIVE:http://cohre.org/