人権の潮流
本稿では、2024年1月末から2月初旬にかけて強行された群馬の森における朝鮮人追悼碑の撤去、およびそれをとりまく歴史修正主義について、まったく事情を知らない人にもわかるように、できうる限りやさしく述べていく。この点、追悼碑撤去の真のねらいについては、それが単に歴史の修正というにとどまらず、日本および日本人の在り方を根底から大きく変えかねないことにぜひ注目してほしい。すなわち、この追悼碑問題は、一地方の県立公園における歴史認識をめぐる紛争として処理することのできない実に奥深い事例なのである。しかし、この問題を取り上げるマスメディアはきわめて少なく、通り一遍の報道しかなされていない。それゆえ、群馬県民でさえ、この問題自体を知らない人が多い。本稿が、ほとんどの国民に問題の重要性が認識・理解されていないこの現状を変える一助になれば幸いである。
群馬県内の強制連行先で無念の死を遂げた朝鮮人を追悼する碑を設置することをめざして設立された「追悼碑を建てる会」は、1999年12月、戦時中の岩鼻火薬製造所の跡地である「群馬の森公園」を建立地として希望する要望書を知事に提出した。また、建てる会は、県議会議長あてに、追悼碑建立の請願書を提出し、県議会において全会一致で採択された。そこで、県と建てる会は、村山談話(1995年)や日朝平壌宣言(2002年)に反しないように、碑文の文言をすり合わせ、その結果、碑文案の「強制連行」の文言を「労務動員」に改めることに合意した。そして、知事は、県民の憩いの場としての公園の機能が損なわれないように、「政治的な行事や管理を一切行わない」との条件をつけた上で、設置期間を10年間として、設置を許可し、追悼碑は、2004年4月に完成した。
「追悼碑を守る会(旧建てる会)」は除幕式以来、毎年、碑前で追悼式を開催してきたが、2005年、2006年、2012年に開催された碑前の追悼式において、それぞれの年に一回ずつではあるが、守る会の共同代表と事務局長、来賓の朝鮮人関連団体の代表により「強制連行」の事実を訴える発言がなされた。そして、それらの発言が朝鮮人関連団体の機関紙である『朝鮮新報』に記事として掲載された結果、碑文の内容が事実ではなく反日的でデタラメである、追悼碑は即刻撤去すべきであるなどの抗議の電話やメールがあいついで寄せられるようになった。また、抗議団体の構成員が県庁に押しかけて、追悼碑の碑文の内容について抗議をし、その後、公園の正面入口付近や群馬県高崎駅前で追悼碑の撤去を求める街宣活動をおこなった。さらに、一度だけではあるが、公園に来園して園内にプラカードを持ち込むなどしたため、公園職員との間で小競り合いとなり、警察が駆けつける騒ぎにまで発展した。
このような事態を重く見た県議会は、設置許可処分の取消や更新不許可を求める請願書を採択した。また、県も守る会に対して、碑前の追悼式の延期を要請し、それ以降、碑前の追悼式は開催されなかった。そのようななかで守る会は、2013年12月、県知事に対し、追悼碑の設置期間更新申請をおこなった。しかし、県は、『朝鮮新報』に記載された「強制連行」との発言が「政治的発言」であり、それゆえ「政治的行為」がおこなわれたとして許可条件違反を理由に更新は困難であるとし、知事は更新を不許可とした。これが「群馬の森朝鮮人追悼碑裁判」の始まりである。
撤去された群馬の森朝鮮人追悼碑
"県の本音"は、「追悼碑の撤去を求める右翼の抗議がうるさくてたまらない。いちいち対応するのはめんどくさい。追悼式における政治的発言なんて本当は些細なことでどうでもいいのだけど、これを口実に許可条件違反ということにして、追悼碑なんか撤去してしまえば楽でいい...」というところであろう。県としては、歴史修正に加担する意図はなかったとしても、結果的に歴史修正主義者を助長し、喜ばせる結果を招いてしまったことが今回の最大の問題点であり、今後に大きな禍根を残したと言わざるをえない。
今回の県による追悼碑の強制撤去を正当化するために山本一太知事が言っているのは、①ルールを破ったことがすべてで、ルールを破った方が悪い、②最高裁判決ですでに決着がついており、もはや過去の終わったこと、③追悼碑が紛争の原因になっており、公園施設としてふさわしくない、この三点のみであり、だから撤去されても仕方がないと強弁している。しかし、これらの理由はまったく正当化根拠として成り立たない。
まず、確かに、守る会の共同代表と事務局長により「強制連行」の事実を訴える発言がなされたことは、設置についての条件違反と言われてもやむをえない。しかし、例えば、窃盗罪(刑法235条)の法定刑の上限は懲役10年であり、コンビニでおにぎり一個を万引きしても窃盗罪は成立するのだから、この場合、懲役10年を科しても形式的には適法と言えるかもしれないが、それは明らかに不当であり、許されない。同様に、今回のような些細なルール違反でいきなり強制撤去を認めることは、「当不当」の問題としては許されないと考えざるをえない。
また、最高裁決定で確定されたのは「2014年7月22日に知事がおこなった更新不許可処分は適法である」ということだけであり、「追悼碑を撤去しろ」とか、「許可することが違法である」と言っているわけではない。そもそも県立公園にある追悼碑をどうするかということは行政の問題であり、裁判官が決めるべき問題ではない。しかも、それからすでに10年近くが経過しており、その間、追悼碑が一般県民に具体的な弊害や不利益を与えた事実はまったくない。本件はあくまで行政裁量の問題なのだから、むしろ現在の民意を反映した知事独自の政治的判断こそが要請される。すなわち、山本知事は事実や経緯を県民に説明した上で、県民アンケート調査により民意を確認し、「追悼碑を存続させるか、撤去するかの知事としての行政判断」をおこなうべきだったのである。
さらに、知事は、追悼碑の存在自体が紛争の原因になっており、都市公園にあるべき施設としてふさわしくないから撤去してもいいとする。しかし、この論理に従えば、「都市公園に掲揚された日の丸の前で『日の丸を国旗と認めない』という抗議活動が活発化すれば、日の丸は都市公園にあるべき施設としてふさわしくないから撤去してもいい」となりかねない。しかし、そのようには絶対に言わない。そもそも政府の公式見解が記された追悼碑をなぜ撤去しなければならないのか、まったく理解しがたい。
追悼碑をモチーフに制作された美術作品「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」の作者である白川昌生氏は、追悼碑撤去問題の背後にはある右翼団体が存在し、「追悼碑の撤去がゴールではなく、その先には憲法改正がある」と語っている。実際、群馬の森の追悼碑の撤去運動をしていた団体は東京の横網町公園でも追悼碑の撤去を求めており、横網町公園でも追悼碑が紛争の原因になっているとして撤去される可能性は高い。群馬の森から始まって、東京都の横網町公園、そして全国にある慰安婦や強制連行や朝鮮人虐殺に対する追悼碑や慰霊碑が、右翼が反対するという理由で次々と撤去されかねない。そして、その最後の総仕上げが憲法改悪であろう。歴史修正主義者の真の狙いはそこにあると思って間違いない。追悼碑の問題は、憲法改正の問題にも繋がっていることを見逃してはならない。ほとんどの人は意識していないかもしれないが、追悼碑撤去は憲法改正をするための地ならしなのである。だからこそ歴史修正主義者の主張を助長するような結論を安易に導いては絶対にならない。"追悼碑問題は憲法改正問題"ということを意識して、ぜひ今後の問題の推移を注視していってほしい。