特集:ヒューライツ大阪30周年 「様々な人権課題の解決のために」(その1)
ヘイトスピーチをどうするか。すこぶる不快なテーマだ。執筆に当たって、それなりにヘイトスピーチという現象について思い出さなければならない。その時点で既に不快である。そして資料に当たり、さらに不快になるのである。その繰り返しである。このテーマほど、とりわけマイノリティ性を有している人に不快をもたらすものはないだろう。実に不快である。
なぜ不快なのか。それは、ヘイトスピーチ現象そのものが不快であるのは勿論なのだが、法的な議論を見ても不快になることがある。特に当該現象の法的な位置づけ、とりわけ「表現の自由との衝突」というたいへん悩ましい問題について、かつて明治憲法下で言論弾圧の経験があるから、表現規制は原則ダメだという議論がある。確かにそのような側面はあるだろう。しかしそれは一定のヘイトスピーチは甘受せよと言うのとあまり変わらない。なぜ甘受せねばならないのかという気持ちになり、また不快になるのである。
とはいえ、ヘイトスピーチについて、現代法の枠組みの下で、これらの現象を放置してよいということにはなっていない。その枠組みについてまとめてみることで、不快さを少しばかりは解消しておきたい。
ヘイトスピーチといっても、どういう言動なのかについては、論者によってイメージが異なるだろうし、法的な定義についても、法域によってさまざまだ。一応国際人権法の枠組みでは、人種差別撤廃条約4条というヘイトスピーチを犯罪化すべきとする規定があり、そこには①人種等の優越性や憎悪の思想の流布、②人種差別の扇動、③人種等を異にする人に対する暴力行為の扇動、④人種差別を助長・扇動する組織的宣伝活動(プロパガンダ)が挙げられている(1。
これらの行為が犯罪として処罰するよう特に指定されている趣旨は何か。誤解を恐れずに言えば、ジェノサイドの防止である。そもそも人種差別撤廃条約が制定される契機となったのは、1950年代末・60年代初頭に、ネオナチの活動が活発化したことであり、これを放置した場合、ナチズムの復活を許し、戦間期・第二次大戦中のホロコーストが再発するかもしれない。この状況に対処すべく、起草作業が開始された。起草過程においては、とりわけホロコーストに至るまでのドイツ社会で、ヘイトスピーチが猛威を振るっていたことから、かかる言動を禁止しなければならないという規定が盛り込まれることとなった。しかし、誠に遺憾ながら、このような規定にも関わらず、20世紀末・21世紀にもジェノサイドが発生し、その前段でヘイトスピーチが蔓延していた。
改めて記しておこう。ヘイトスピーチはなぜダメなのか。その対象者個人に対して激しい危害を、その言動を目の当たりにした人々に不安や恐怖を、そして地域社会に衝撃を加えるからだ。それは勿論である。しかしそれにとどまらない。ヘイトスピーチが恐ろしくかつ不快であるのは、それらを放置した場合、民族間対立、コミュナル紛争(局地的な集団間の紛争)、挙句の果てにはジェノサイドを引き起こしかねないからである(2。
この点はさらに、権利濫用防止に関する規定からも基礎づけられる。世界人権宣言30条には、「この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない」とある。ヘイトスピーチやジェノサイドが、世界人権宣言に掲げられる多様な権利・自由の否定であるとするならば、このような言動を「表現の自由」などによって正当化してはならない、という趣旨であろう。
さて、ヘイトスピーチにどう対処するかについて、上記の人種差別撤廃条約の建て付けからも、刑事罰を科すかどうか、科すとすればどういった内容のものに、どの程度の刑罰を科すか、という刑事政策上の議論が中心となるだろう(3。その点に関して、日本の刑事法上、ヘイトスピーチそのものを犯罪類型とする規定は存在しない。ただし、名誉毀損や侮辱、騒擾、業務妨害といった、いわゆる一般刑法犯で対処することとなっている。問題はそれで十分かどうか、という点であり、特に名誉毀損や侮辱は個人に対する危害であるから、具体的個人を名指しする言動でないと適用がない。業務妨害に関しても、特定の企業・団体の業務を妨害したことが構成要件となっているから、差別的意図が斟酌されない場合もあるかもしれない。こうした難点をどう克服するか、適正な法執行を期待するしかない。
他方で、罪刑法定主義の観点からは、犯罪類型については厳密な解釈が求められ、刑事罰という苛烈な制裁を予定していることから、特に悪質なものに限定することが要請されるであろう。冒頭に述べた「一定のヘイトスピーチは甘受せよ」と聞こえる議論はこれである。この点は、ヘイトスピーチ罪を新設しようが、一般刑法犯で対処しようが同様である。
そのため、どのようなヘイトスピーチが特に悪質なのか、基準を設ける必要があるだろう。ここでも、論者によって刑事罰相当の悪質さについて、議論が分かれてきそうである。ただ、その点に関して、国際社会は、このヘイトスピーチの悪質性を計測する基準として、「差別、敵意または暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道の禁止に関するラバト行動計画」を策定している。この行動計画には、「犯罪とみなされる表現に関する6つの敷居テスト」が示されており、①発言が行われた背景、②発言者、③その意図、④内容と形式、⑤言語行為の範囲、⑥そして結果の蓋然性の6つの側面から、これらの敷居を超えた言動について、犯罪化するよう勧めている。これを採用するか否かは、各国の刑事政策の問題となってくるだろう(4。
ところで、刑事罰を科すには高い敷居を超えなければならないが、ではそれ以外の言動はどうか。これらとて放置してよいということにはならない。その点に関して、民事的な制裁、あるいは行政的な処分でもって臨むこととなろう(5。日本の場合は民法の不法行為責任、国家賠償法上の責任という民事的な救済が用意されているが、ヘイトスピーチ問題について適切に運用されているかどうか、モニターが必要である。また、行政処分としては、法務省人権侵犯事件処理規程に基づく啓発などがあるが、実効性については、さてどうだろう。
日本のヘイトスピーチ解消法は、理念法という側面だけではなく、相談と紛争の防止解決に関する必要な体制の整備(第5条)、そして教育啓発を行うことを定めている(第6条・第7条)。このような枠組みの実効性をめぐって、教育啓発では不十分だという意見には、筆者も同意する。
しかしそれでも、ここであえて教育啓発は重要であると述べておきたい。というのも、公務員に対する教育啓発がなければ、適切な法の執行がおぼつかないからである。ヘイトスピーチに対して一般刑法犯規定を適用するにしても、どういったヘイトスピーチが名誉毀損や侮辱、威力業務妨害に該当するのか、差別的な動機があるとして悪質性が高いのか。そうした判断をするには、捜査に当たる警察官や起訴・求刑を行う検察官、さらには判決する裁判官が、十分この問題について理解していることが不可欠である。
法務省のHPには、「ヘイトスピーチ、許さない。」というバナーがある。そのような啓発ポスターを目にすることもある。「許さない」、その通りであろう。
では、どう許さないのか。法務省なのだから、法の構築・運用でもって、その「許さなさ」を示すべきではないのか、と記して、筆を措くこととする。
<脚注>