帰国の直前に彼女の決意を偶然知った私は、心境を知りたいとメールや電話で尋ねました。しかし、要領を得ない返事なので、帰国日の2日前に直接会って話を聞くことにしました。しかし、前夜に「忙しいから時間がない」という連絡を受け、そのまま会えずじまいとなりました。
夢を描いて来日したはずの候補者たちの中途帰国は、「自己責任」なのか、
それとも受け入れシステムの不備のせいなのか。出国がラッシュにならないよ
うにせねばならない。
(2010年8月号)
3.国家試験合格に向けた日本政府の支援策
日本とインドネシアとの経済連携協定(EPA)に基づいて、インドネシアの看護師と介護福祉士の候補者が初来日してから2010年8月で丸2年を迎えました。そのうち、看護師は3年以内に日本の国家試験に合格しなければ帰国を余儀なくされる取り決めになっていますが、2回目に当たる10年2月の試験ではじめて合格者が出たもののわずか3人(うち1人はフィリピンから)でした。初年度に来日した90余人にとって、11年2月の国家試験が最後のチャンスとなります(※2011年1月、政府は1年間の在留延長の方針を固めました)。それ以降に再挑戦をするならば、試験時に自費で来日して受験しなければなりません。
そのような崖ぷち状態のなか、関係団体から厚生労働省に対して、「要件緩和」などの要望が寄せられています。たとえば、看護師候補者33名、介護福祉士候補者35名を受け入れている東京都は6月、専門用語の言い替えや注釈の付け加え、試験時間の延長などによる国家試験の見直し、在留期間の延長と受験機会の拡大などを求めた緊急要望を提出しています。
そうしたなか、厚労省は2010年度、前年度比10倍にあたる8億7,000万円の予算を計上して、研修支援事業の強化を進めています。
看護師については、東京や大阪など大都市で開催する集合研修の実施に加えて、日本語学習や国家試験対策で専門学校に通う場合、1人あたり117,000円を助成するとともに、学習指導を行う病院の職員などの人件費や図書購入費に充てるために1施設あたり295,000円の助成金を交付しています。介護福祉士の場合は、集合研修の開催とともに、日本語習得支援事業として、1人あたり235,000円(いずれも上限額)を助成しています。これらは都道府県を通じて受け入れ施設に交付されています。
また、厚労省は6月、看護師国家試験の専門用語への対応を協議するため、「看護師国家試験における用語に関する有識者検討チーム」を発足させ、11年2月の国家試験に向けて議論を急ピッチで進めています。8月下旬までの5回の会合で一定の結論をまとめる方針です。しかし、日本看護協会は7月、①日本語の理解、漢字の理解は、医療安全のための最低限必要な能力、②看護師の使用する専門用語は医療従事者の共通言語であるという意見書を「有識者検討チーム」の議論に釘を刺す形で厚労省に対して提出しています。
8月7日、インドネシアからの第3陣目にあたる看護師と介護福祉士を目指す合計約110人が来日しました。国家試験の「分厚い壁」を前に、応募者と受け入れ施設の躊躇の結果、昨年の3分の1にまで減少しています。いま、受け入れ事業継続の正念場にさしかかっています。
(2010年9月号)
4.「挫折」の真意
私は、看護・介護労働者の日本への受け入れという課題とは少し別のテーマに関する調査を行うため、この8月末の約1週間、フィリピンに行ってきました。マニラの観光名所で元警察官がバスジャックにおよんだ末に、香港からの子どもを含むツーリスト8人が銃弾を受けて亡くなるというショッキングな事件が滞在中に起きました。
その日、私は偶然にも現場近くに気づかぬまま立ち寄っていたのですが、もうひとつの偶然がありました。国家試験まで2年半もの猶予を残しながら、7月初旬に帰国していった知人の介護福祉士の元候補者に大都市マニラで期せずして再会したのです。帰国前に日本で会おうと約束しながら会えずじまいになっていた本誌8月号で紹介した女性です。私は中途での帰国理由をズバリ尋ねました。
「日本に行く前に施設の人から話を聞いて期待していたことと、実際の現場での私に対する扱いがかなり違ってがっかりでした」「日本人の先輩たちは、フィリピン人には介護の記録は書けないと決めつけて、私には忙しいケアを指示しながら、自分たちはおしゃべりをしているだけということがよくありました。私はとてもプライドが傷つきました。たとえこのまま日本で働けたとしても、施設で出世できるとはとうてい思えませんでした」。彼女は滑らかな日本語でしんみりと語ってくれました。
彼女の話を聞いただけの私には、それを「客観的な状況」だと決めつけることはできません。ただ、かつて日本のナイトクラブで「エンターテイナー」として働き、今度は介護労働者として再チャレンジに挑んだ結果が失意の帰国となったことは確かな事実です。とはいえ、彼女は施設内で物議をかもすような発言は控え、「家庭の事情」という他人が詮索したり反対したりできないような理由を告げて、静かに帰国したそうです。
日本とインド政府は2010年9月9日、交渉してきた経済連携協定の内容に大筋合意し、10月に両国の首脳が署名することとなりました。インド側が求めてきたといわれるインド人看護師・介護福祉士の日本受け入れに関しては、合意内容に含まれなかったものの、協定の発効以降も継続協議することが合意されました。
継続協議ということでいえば、2007年に発効しているタイとの協定において介護福祉士を、2009年に発効したベトナムとの協定では看護師と介護福祉士を受け入れる可能性について、それぞれ明記されています。しかし、まだ実行には至っていません。
厚生労働省は、外国からの看護師・介護福祉士の受け入れについて、「これまで受け入れを認めてこなかった分野において、経済連携協定に基づき特例的に行うもの」という固いガードを築いています。そんなにもったいぶっている余裕が本当にあるのでしょうか。
(2010年10月号)
5. 受け入れ施設と候補者の負担とモチベーション
「膵臓(すいぞう)のランゲルハンス島(とう)からは血糖値(けっとうち)を下げるものが分泌(ぶんぴつ)される。それはなにか」。
はっ?医療・介護の門外漢である私には、ルビがなくても設問は読めるものの、意味や答はさっぱりわかりません。これは、経済連携協定(EPA)に基づきインドネシアとフィリピンから来日し、全国各地の病院や介護施設で働きながら看護師、あるいは介護福祉士の国家試験の合格をめざす候補者たちの教育支援を行っているNPO法人 国際教育振興協会(大阪と東京に事務局)が実施した「医学一般」に関する単語テストのひとつです。
候補者たちはいま、研修会やパソコンを使ったEラーニングをはじめさまざまな方法で日本語や試験対策のための学習に取り組んでいます。同時に、受け入れ施設の担当者を対象としたセミナーも各地でしばしば行われています。
前述の国際教育振興協会が10月中旬に大阪で開いた介護福祉士試験に向けて日本語および福祉専門学校の実務家などが報告するシンポジウムに参加させてもらいました。関西を中心に多くの施設関係者が参加し、自由な意見交換の時間も設けられました。受け入れ施設の最大の関心事は、どうすれば短期間のうちに合格するだけの実力を候補者につけてもらうかという「難題」でした。そのためには、たとえば勤務時間外だけでなく、時間内にも学習時間を設けるのにこしたことはありません。しかし、どんなバランスがよいのかという問いです。施設内には、候補者たちと同様の賃金で介護福祉士の国家資格をめざす日本人の職員も働いています。そうした人たちに対する勤務時間内における「優遇措置」は通常ありません。そうなると、職場内に不公平感をもたらし、日本人職員のやる気に否定的な影響を与えかねないからです。
一方、難関の国家試験に挑む候補者たちのモチベーションをどう支えるかというのも日常の課題です。シンポジウムのパネリストとして報告した広島県北広島町の特別養護老人ホーム正寿園で働く、08年にインドネシアからの第一陣で来日したアナさんは、「Eラーニングで友だちの姿を見たり、声を聞いたりすると頑張ろうという気持ちになる」「インターネットで家族や友人と話をしたり、友だちに会いに行く」「施設の畑でインドネシアの野菜を育てたり、収穫した野菜を使って料理をする」ことなどが勉強を続ける原動力になっていると語りました。
現時点の日本政府の方針では、インドネシアからの候補者にとって、看護師は11年2月20日が日本にいながら受験できる最後の機会で、介護福祉士が12年1月から3月にかけての筆記・実技試験が最初で最後の機会となります。はたして、敷居は高いまま固持されるのでしょうか。「内向きのニッポン」を変えていく好機を逃してはならないと思います。
(2010年11月号)
(注:外務省や厚生労働省など関係省庁は、不合格でも一定の要件を満たせば1年間の滞在延長を許可し、受験機会を与えるということで調整している。2011年6月までに正式決定される)
6. 介護労働者不足という深刻な課題
本誌7月号から11月号まで標題のテーマで、看護・介護労働者の受け入れについてさまざまな課題を述べてきました。本号では、その番外編として極私的な話で幕を閉じたいと思います。看護・介護という職業は、私にとって「近くて苦い関係」にあるのです。
いまから約5年前の2005年のこと。私は、離婚して生き別れになっていた当時小学校5年生の娘にマニラで再会しました。娘は、フィリピン人の元妻との間に生まれ、離婚後はしばらく東京で暮らしていたものの、しばらくしてフィリピンの親族に託されていました。
久しぶりの再会だったけれども、私への悪評が災いしてか、話ははずみませんでした。いまとなってはどんな会話をしたのか忘れてしまったのですが、ひとつだけ鮮明に覚えているやりとりがあります。「大きくなったらなにになりたい?」と尋ねると、「ケアギバー」(介護士)と答えてきたのです。理由を聞くと、「人のためになるし、外国に働きに行ける」。私は、「日本国籍があるから、大人になったら日本でいろんな仕事に就けるよ」と水を向けても、「ケアギバーになりたい」と繰り返したものです。
フィリピンは、イギリスやカナダなど海外に多くの「ケアギバー」を送り出しています。娘の周囲にもそうした人たちが多くいるようでした。当時、2004年11月に日比間で大筋合意した「日比経済連携協定」のなかに、看護師・介護福祉士候補者の日本への受け入れが含まれていることがフィリピン社会で浸透しはじめていた頃でした。
実は、私の元妻はフィリピンの看護師の国家資格を取得したけれども、国内の病院での就職先がみつからないまま、私と結婚していました。日本で娘を出産したあと、近所の町工場でパートの仕事をしていた頃、ヘルパー2級の資格のことを知り、養成講座に通い始めたのです。まだ在日フィリピン人ヘルパーのめずらしい1990年代後半のことでした。私は持ち帰る日本語の宿題を手伝ったものです。褥瘡(じょくそう=床ずれ)という難解な介護用語を知ったのもそのときでした。
非正規雇用が席巻しているいまでは考えられないことですが、資格取得後、元妻は大阪の病院に正規職として採用されたのです。離婚時に東京に転居したあとも、しばらくはヘルパーの仕事に就いていたようです。マニラで暮らす娘はそんな母親の姿を思い出していたのかもしれません。
まったく予想外の事情から、私は昨年の夏から娘と再統合してふたりで暮らすようになりました。「ケアギバーの仕事は大変そうだからなりたくない」と高一になった娘は話しています。少子高齢化が進むなか、介護従事者の不足をどうやったら解決することができるのか、明快な答がなかなかみつかりません。
(2010年12月号)