ヒューライツ大阪は、2023年8月9日(水)に人権教育セミナー「「差別」を深堀りする(その 1)」として、「それって差別?それとも区別?差別はなぜ悪いの?」と題したセミナーを東京理科大学准教授の堀田義太郎さんを講師に開催しました。堀田さんは哲学からのアプローチで差別論を研究してきました。次のとおり、堀田さんにセミナー(その1)の報告を寄稿していただきました。
8月30日(水)18時30分から開催する「差別」を深堀りする(その2)のみなさんの参加をお待ちしております。(ヒューライツ大阪 事務局)
差別を深堀りする(その 1)それって差別?それとも区別?差別はなぜ悪いの?
堀田義太郎
「差別」という言葉には、性差別や人種差別をはじめとして、部落差別、民族差別、宗教差別など様々な事例があり、また、就職や就学などいわゆる「公的」な場面での差別もあれば、差別発言や日常的な会話の中での差別的なやり取りも含めて、広い幅があります。差別という言葉が指し示す対象や事例を貫いて、差別という行為に共通する特徴や性質があるのかどうか、そして差別が悪い理由は何なのか。こうした問いに取り組む議論を「差別の哲学」と呼びます。多様な事例や場面を貫いて、私たちが「差別」という言葉で指し示し批判する対象とは本当のところどういうものなのか、そしてその何がなぜ悪いと言えるのかという問いに取り組むわけです。
当日はまず、参加者に次の七つの事例について、それぞれ「差別」「正当な区別」「不当だが差別ではない」「またはそれ以外」のどれに当てはまるかを考えてもらい、3~4人で簡単にディスカッションをしてもらいました。
1. 入学試験で、視覚障害のある受験生に追加時間を保障する。
2. 試験で、女性や黒人の受験者の得点を減点する。
3. 大学等が、入学の可否や成績評価を「クジ引き」で行う。
4. 教師が、実験などの後片付けをもっぱら女子生徒に依頼する。
5. 教師が、重いものを運ぶ作業をもっぱら男子生徒に依頼する。
6. 鉄道会社が、痴漢被害・加害率に基づいて、女性専用車両を設置する。
7. 会社が、産休や育児休暇取得率に基づいて、同じ能力を持つ求職者の内、男性を雇用する。
その上で、何人かの参加者にこれらの中でも特に悩ましい事例や、意見が分かれた事例について簡単に発表をしてもらい、私の事例についての考察から、近年(2010年くらいから)、特に英語圏で活発に展開されている差別の哲学の議論を紹介しました。
発表してもらった中では、1は正当な区別、2が典型的な不当な差別であるという点には大きな異論はありませんでした。しかし3、5、7については様々な意見が出されたようでした。
まず、試験の得点に基づく合否も、落ちた人に不利益を与えるが差別とは呼ばれません。では、3はどうでしょうか。これは、成績評価や合否の基準とすべき情報からかけ離れた理由で合否(利益と不利益)を与えているため「不当な区別」だとは言えるでしょう。しかし、クジ引き全般を差別と呼ぶ人はいません。それは、落選した人は当選した人に比べると不利益を受けていると言えますが、クジ引きは人びとを特徴に基づいて選別せず、当落の確率について全員を平等に扱う方法だからです。ここから、差別とは単なる不利益扱いではなく、「特徴に基づく」不利益扱いだと言えるでしょう。とはいえ、これだけでは解像度が低いので、特に4と5そして6と7の違いを手がかりとして考察を深めました。
4と5がセットになるのは、4を差別または少なくとも「差別的」だと言えるとすれば、5も同じに見えるからであり、6と7がセットになるのも、7が差別だとすれば(これは実際、統計的差別として日本でも禁止されている)、6も差別だと言えるように見えるからです。
しかし、既存の社会的文脈や歴史的な背景を前提にして考えると、見かけは似ていても同列には考えられません。4については、女性に家事や育児などの役割を負わせるジェンダー規範が前提になっており、それによって女性が不利益を受けていることを考えると、5とは同じようには評価できないからです。確かに、5も「男性は強い」という型にはまった見方(ステレオタイプ)に基づいています。ただ、この見方は他方で「女性は弱い」という見方を伴っており、「男らしさ」と「女らしさ」に伴う社会的な役割の男性優位的な非対称性を踏まえると、5を「男子生徒に不利益を与えているから差別的だ」とするのは単純すぎるでしょう。
7については、偏見やステレオタイプではなく統計に基づいているため、6と同じく一見正当化できそうに見えます。しかし、この統計の数値そのものが、今のようなジェンダー規範に基づく様々な場面での女性差別を反映しているという点を考慮する必要があります。例えば、東京医科大学をはじめとした医大や医学部の女性差別について、労働現場の必要性に基づいて擁護する議論がありました。それに対して、裁判で原告側の意見陳述では次のように指摘されています。「正すべきは、若い女性が働き続けることができない医療現場の悪しき労働環境であり、女子学生の入学抑制でないことは明らか」(角田由紀子「意見陳述書」医学部入試における女性差別対策弁護団日記)であると。労働現場自体が、子育てなどの仕事を妻(女性)に全面的に依存できる男性の働き方を前提とした、偏った労働慣行が問題であると正しく指摘されています。
休憩時には、特に4と5について、「教師に何らかの役割を依頼されることが、むしろ本人にとって利益になることもあるのでは?」という鋭い質問を頂きました。当日は十分に答えられなかったので、この場を借りて補足します。確かに、一定の役割を依頼されること自体が役に立っている、という評価を伴うことはあると思われます。また、この質問は、私が「不利益」という言葉を曖昧に使っていた点に対する重要な指摘でした。その上で、私がこの例で考察したかったのは、その役割の具体的な中身(後片付け―女子生徒に、力仕事-男子生徒)が社会的な文脈の中でどのような意味を持っているか、という点でした。
後半は、差別がなぜ悪いのかにかかわって、まさにこの社会的な文脈の中で個々の行為や発言がもつ意味について、「社会的意味説」という立場を軸として説明しました。当日は時間が不足し、説明をかなり飛ばしてしまいましたが、差別の悪質さについての重要な解釈と見なされる二つの説を対比しました。
一つ目は、差別の悪を被差別者が被る苦痛や不平等な機会喪失などの「害」に求める議論です。特に、女性、有色人種、部落出身者、在日朝鮮人など社会的・歴史的に差別されているマイノリティの人びとにとって、仮に個々の差別行為は一見些細に見える場合でも、他の多くの場面での被差別経験が積もり積もって大きな害を与えることになります。これは「累積的害」と呼ばれます。このような累積的害を与える点に、社会的マイノリティへの差別の特段の悪質さを求める議論です。この考え方は分かりやすく、また説得力がありますが、検討の余地はあります。特に、個人に積もり積もった被害経験を重視するため、ごく幼い子どもが初めて差別を受ける場合、その悪を重大なものとしては考慮できなくなってしまうからです。
もう一つは、社会的意味説と呼ばれる議論です。こちらは個々人が実際に被る害の大きさではなく、差別行為が特定の社会的な文脈で帯びる意味に注目します。上の事例では4(後片付けをもっぱら女子生徒に依頼する)の考察はこの考え方でうまく説明できます。社会的な文脈が、男女に対する似たような扱いの意味を変えるからです。当日はもう一つ、男女順の名簿の例で考えました。日本では、男女順の名簿が批判され五十音順に変更されてきました。男女順の名簿が批判されたのは、名簿の前後で害があるからではありません。男子を前にする名簿は、「女性は後回し」という様々な差別的な慣行を象徴する意味を持つからです。これは一例ですが、社会的意味説は、個々の行為がその社会で他の慣行や社会規範、イメージや制度とつながることで、特定の人びとを劣った存在とみなす意味を帯びる点に着目します。
以上のような内容でお話をしましたが、次回30日には改めて前回の内容を補足しつつ、参加者のみなさんとの意見交換、議論する時間も取りながら進めたいと考えています。