「インクルーシブ教育」、あるいは「インクルージョン」という言葉をしばしば耳にするようになりました。「インクルーシブ」とは、あえて日本語にすると「包み込むような/包摂的な」となりますが、なんだかわかりにくいですね。「インクルーシブ」は、「ソーシャル・インクルージョン」(社会的包摂)という言葉から来ており、これは「あらゆる人が孤立したり、排除されたりしないよう援護し、社会の構成員として包み、支え合う」という社会政策の理念を表します。
私は、「インクルーシブ」という言葉を理解するためには、その反対の言葉から知ることが不可欠だと考えています。「インクルーシブ」の反対は「イクスクルーシブ」。「排除的、排他的」という意味です。「一部の人を外へ追い出す」「のけものにする」ということですね。私たちの社会から「排除(イクスクルージョン)されてきた人たち」がいるという事実に気づかなくてはなりません。皆さんお一人お一人は、「別に誰かを排除したつもりはない」と思うかもしれません。けれど実際に、他の人と同じように学校に行ったり、社会参加したりする機会を奪われてきた人たちがいました。その代表格が障害のある人たちです。教育を受ける権利は普遍的な人権であるはずですが、日本国憲法や学校教育法(1947年)が施行された後も、障害のある人の多くは1979年まで義務教育さえ保障されず、「就学猶予、就学免除」という扱いを受けていたことをご存じでしょうか。その後、養護学校等に就学できるようになっても、障害のない子どもと分離されているために、同年代の子ども達や地域の大人たちとふれあう機会を奪われ、学校卒業後の進路も非常に限られたものになっていました。そして障害のない人たちは、障害のある人たちの生活や思いを知る機会もなく、「健常者にだけ都合のよい社会」を長年にわたってつくってきました。障害のない若者が「障害者とどう接していいのかわからない」と言うのも、この分離教育=排除の結果といえます。障害者が構造的に排除されてきたことの弊害は非常に大きいのです。
「インクルーシブ教育」とは、こうした「排除」を行ってきたことの反省の上に立って、「障害のある子も無い子も共に学び、共に育つことができるようにしよう、最初から分けずに包みこもう」という概念です。つまり、どんな障害や病気(あるいは他の事情)をもつ子どもでも学校から排除されず、共に学びあえるような学校を権利として保障しようとするものです。もちろんそれは簡単なことではありません。これまで「健常者用」にしか考えられてこなかった学校の建物のバリア、教材、あるいは教え方などを、根本から考えなおす必要性を提起しています。
2006年12月に国連で採択された障害者権利条約の第24条には、誰でも「生涯にわたって」「地域社会のなかで」インクルーシブ教育を受ける権利が明記されています。ですから、変わるべきは学校だけにとどまりません。就学前、学校卒業後も含めて、社会のいたるところで、障害のある人とない人が分け隔てられず、共に学ぶ機会が保障されること、それはまさに「インクルーシブな社会」(誰も排除されない社会)をつくるための基盤となるものなのです。