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生きてていいの...?【Xジェンダー・ノンバイナリー】

【 エッセイ 】

原 ミナ汰

NPO法人共生社会を作る性的マイノリティ支援全国ネットワーク代表などを務める原ミナ汰さんにご自身のライフストーリーを語っていただきました。

張り巡らされた「性別センサー」に触れて、動けなくなった学校時代

 まずは、私の家族と私自身のライフストーリーを話します。
私は原ミナ汰という名前を名乗っていますが、その由来は昔漫画で、「チビ太」という身体の小さいキャラクターがいて、私も小柄だったので、よく周りから「ミナタ」と呼ばれてたんです。今でも元気な女の子は、「ooノ介」とか男の子向けの名前で呼ばれたりしますよね、あんな感じです。
 小さい時の家族写真の中で、ワンピース姿で映っている私がいます。昔は、写真撮影する時はみんなおめかしをしないといけなかったんですね。普段は、兄ちゃんのお古を着て遊んでいるんですが、こんな時だけ女の子用のワンピースを着せられて、「こんな服を着せられちゃって困ったな」みたいな顔をしています。だからよく「笑わない子」だと言われていました。
 実際、自身が女の子という意識がなくて、すごく困りました。「なんかちょっと違うんだけどなあ」みたいな違和感があったんです。何をしても「言うことをきかない子だ」と怒られたり、「へえー」って驚かれたり、「なんで?」と尋ねられたりすることがよくありました。まるで私の周りに性別のセンサーが張り巡らされていて、そこに触れるとなんかビビってくるようで、だんだん動きにくくなっていきました。
 例えば、私は自分のことをずっと「ミナちゃん」と呼んでたんですけど、小学校にあがるぐらいから、他の女の子と同じように「ワタシ」と言わないとダメ、と言われました。学校ではすべてが男女別に分かれていました。自分はいつも男の子と一緒に遊んだりしていたのに、別々にされ、非常なストレスでした。そして、男の子がやっていることを一緒にやろうと思ってもだいたいは止められるんです。小学校の高学年になると段々女子トイレに行きにくくなり、自宅以外ではトイレに行かなくなったんです。膀胱炎になったりして体の具合も悪くなったので、何軒も病院につれていかれましたが、医師も親に話を聞くだけでこちらに何も尋ねてはくれず、原因はわからずじまいでした。
 私の母は学問好きな向上心の塊のような人で、当時小学校1年生の私と兄を連れての留学を決めました。急に米国に連れて行かれ、それはエキサイティングでもあり、大変でもある経験でした。まず、この頃のアメリカはまだ人種隔離社会で、例えばトイレも「白人用と黒人用」に分かれていて、どっちのトイレを使っても「おまえは違う」と怒られたりしました。また、アジア太平洋戦争が終わって以降、渡米する日本人は少ない時代で、「日本の少女代表」みたいな感じで着物を着せられたり、敵国人の子ということで、子ども集団の暴力やいじめに遭うこともありました。
 こうした苦しいこともありましたが、いいこともありました。ほうりこまれた大学キャンパス内の小学校は、名簿が性別関係なくABC順、ひとクラス24人の少人数制で、驚くほど民族的に多様でした。アングロサクソン系、中国系ハワイアン、ブラックフット族(北米大陸の3つの先住民族の総称)、アフリカ系、ユダヤ系、イタリア系に加え、ラテンアメリカ、東南アジア、日本、インド、イラク、イスラエル、オーストラリアなど、16の国や文化の子どもたちがいて、自分と外見が似たアジア系の子どもたちをみて、ほっとしました。英語の一人称が"I"で済むので、「わたし」と言わなくてもよく、進度別だったので、自分の進度に合わせて勉強できました。そこでは「自己表現していい、なんでも発表しなさい」と促され、最初はあまりの恥ずかしさに泣いていましたが、みんなの拍手に励まされ、どんどん自分を表現するようになりました。
 小学校高学年のときまた日本の学校生活に戻りました。すでに私は英語話者でしたが、その頃はそのことを封印し隠していました。そうでもしないといじめられるので、とても言えなかったです。
 それに、第二次性徴が遅く、身体があまり女性っぽくなかったので、「やっぱり自分は女子じゃないんだ」と正直ホッとしていましたが、周りは「まだ生理が来ないのか、どこか悪いんじゃないのか」とすごく心配していました。
 中学生になって、女の子の仲間には入らないが、かといって男子の仲間にも入れないことが増えて、なんだか浮いてしまい(「浮きこぼれ」というんだそうですが)、だんだん学校に行くのが苦しくなり、行かなくなりました。
 うちは両親とも教師だったので、「学校に行かないなんてとんでもない」と、家から引っ張り出されて無理やり行かされたこともありました。そのうち親は、「娘が学校に行ってないこと」を隠すようになり、周りの人たちに「元気ですよ、うちの子は」みたいな嘘を言うようになるのをみて、「親の期待に沿えず申し訳ない」と自分を責めました。

どんな大人になればいいのかーこの国では自分を表現できず「外こもり」に

 実は、性的マイノリティであること以外にも、私の人生にはいくつもの問題が山積みになっていました。海外育ちで孤立した、というのもその一つですが、もうひとつは6歳ぐらいの時に家の近くで性被害に遭ったことです。自分の子ども時代は身代金誘拐事件が頻発し、子どもは大人から、「怖い人が来たら、ついて行ってはだめだよ。うまくだまして逃げなさい」みたいな予防教育を受けていたんですが、私は一人で遊ぶことも多くて、その時に性被害にあったんです。この経験は自分にとって「第一の命の危機」でした。それが起きた時、首を絞められて息ができず、もう死ぬと思ったのですが、人の足音がして、結局死なずにそのまま家に帰りつきました。その日はショックで寝込み、家族のみんなが心配してくれたんですが、次の日からは日常に戻り、二度とその話は出ませんでした。しかし、それ以来ずっと自分が被った被害のことを考えるようになり、新聞の三面記事で似たような事件を探したりしていました。その時点で既に自分の性別について違和感があったので、男性と女性との関係性について深刻に考えるようになりました。昭和30~50年代の日本の生涯未婚率は2%、つまり98%の人は結婚していた時代ですから、どんな大人になればいいのかと考えると、やっぱりみんなと同じように、男の人と結婚しないとダメなんだろうな、と思うわけです。でも、自分はどうしよう、男と結婚なんてとてもできないよ、と真剣に悩んでいたのを覚えています。
 高校受験の際は、男女別で分かれる制服を着たくないので、私服通学の学校を選びました。だけど、いざ私服でいいよと言われても、自分はどういう格好をすればいいのかがわからず、自分が望む「自由な格好」が全然できなかった記憶があります。
 うちの親は共働きだったので、祖母が母代わりだったんですが、高校生の時にその祖母が亡くなり、この時に2度目の「命の危機」に遭遇して、引きこもるようになりました。当時は精神的にひどく落ち込み、医者に行けば即刻入院だったと思いますが、以前の病院巡りの経験と、セクシュアリティに関する否定的な学説などを読んで知っていたので「死んでも病院には行かない」と決めていました。衰弱していく自分をみながら、「ここにいてはいけない、19になったらこの家から出たい」と思って暮らしていました。世の中を見渡すと、いつまでたっても女性は「女の子」扱い。「職場の花」とか言われ、就職先で結婚相手をみつけて、夫の世話をするために退職する、そんな慣習真っ盛りの時代でした。化粧もしたくないし、結婚もしたくないし、という自分に居場所はないな、と感じていました。
 自分にとって、10代から20代前半はこの国で自分を表現して生きるというのは、とても苦しいことでした。引きこもりは家の中に籠るけど、うちは家の管理が厳しかったので、外こもりということで国を出ました。私みたいに海外に逃亡する人のことを、「外こもり」と言うことを、だいぶ後で知りました。

ああ、これでいいんだ―「女性になろう」ともがいた時期から自己受容へ

 「外こもり」でわかったことは、どこで暮らそうと、男女の区別はついてまわるし、「異性」を好きになるのがあたり前とされている、ということでした。それでも自分にとって、これは大事なリハビリ期間となりました。大学で勉強し、友人を作り、カミングアウトしてくれたゲイの友達やその仲間と暮らすようになり、自分が人とご飯をたべて、和やかに生活することができると知った貴重な時間でした。自分が好きになるのは「主に女性」と話すと、アウティングもされましたが、理解してくれる人もいました。でも、「自分は女性だと思っていない」といっても、理解してくれる人はいなかったですね。
 それで、18歳ごろから、女性の恰好をして女として生きることはできないのかと思い、いろいろやってみていました。内面的な「女らしさ」はさておき、まずは髪を伸ばしてみました。そのことで、急に扱いがよくなったりもしましたが、男性からのセクハラが増え、それはそれで悩みの種でした。もうひとつ、ずっと抱いていた疑問がありました。それは、子どもさえ産めば「女性」になれるかも、ということです。自分は末っ子で、小さい子の面倒を見るのが大好きだったので、常にそのことは頭の片隅にありました。
 「女性として扱われること」をガマンするのもそろそろ限界で、このまま生きていてもいいことはない、と思ったとき、子どもをもつことにしました。まずは父親になってくれる人をとにかく見つけなければということで、いわゆる「妊活」を始めました。友達に頼んでみたりしましたが、なかなかいないんですね、これが。一人だけ「いいよ」と言ってくれた人がいたので、「結婚はしない」という条件で子どもをつくりたいと言いました。ところで、困ったことに、女子トイレにもいけなかった自分にとって、産婦人科に行くなんてもってのほかです。どうしようかと思い、医師と助産師さんを頼んで自宅出産の手配をしました。当時はほぼ全員が病院で出産する時代で、家に来てくれる医師をみつけるのもひと苦労でしたが、生きていくには、もうそれぐらいしか思いつかなかったということです。
 幸いに安産でした。子どもが生まれてすぐは、「ああ、これが女性のすることか」と思いながら授乳していましたが、断乳するにつれ、(体内のホルモン変動の影響があったのか)それまでの「男性でも女性でもない」という、いわゆるノンバイナリーな性別(二分化できない性別)感覚が戻ってきました。「ああ、やっぱり自分はムリに"女性"になる必要はない、自分のままでいいんだ」と確信し、自分がずっと抱いてきた性別感覚を受け入れたのは、このときだったと思います。
 そこから、この社会に自分も関わっていけるなという手応えを感じて、就職をしたり、手に職をつけたり、生きていける環境を自分で作ろうと、あるいはこの社会を変えていこうという気持ちが生まれました。自分で自分を受け入れないと人間はなかなか動けないということでしょうか。たとえ世の中の性別センサーに引っかかったとしても、なんとかやっていけそう。引っかかっても、どんどん突破していこう、という強さが出てきたと思います。
 当時は、日本には両親も親戚もいるし、なかなか自由に行動できないので、もう遠くで暮らすしかない、と海外に行ったんですけど、子どもの出産をきっかけに日本に戻って生活することに決めました。

社会変革をめざしてー運動との出会い、開拓した仲間づくり

 ここでまた問題が出てきます。一つは国籍のことです。1984年まで日本の国籍法は 女性の子どもには国籍の継承を認めずに、男性にだけ認めていました。だから日本人男性の子どもなら、母親の国籍にかかわらず日本籍が自動的に取得できましたが、日本人女性の子どもだというだけでは、日本国籍は取得できませんでした。婚姻していなくて、母しかいない場合は仕方ないが、父がいるなら父の国籍にしなさい、という決まりでした。戸籍上女性である者は子どもに自分の国籍をあげられない?これは女性にとって大きな不利益です。私はそのことを事前に調べていたので、婚姻さえしなければ国籍留保できると考えていました。しかし、届け出用紙に子どもの父親の名を書いたことから、日本大使館で国籍留保を拒否されました。 幸い、出産した国であるイギリスの当時の法律では、英国で産まれた子は、みな英国籍を取得できる「生地主義」だったので、娘は英国籍となりました。

 日本に帰ってきて国籍法はどうなっているんだろうと聞いてまわったところ、国籍法改正の運動があるということを知り、それに関心を持って参加しました。 それから、いろんな女性運動の集会にも行くようになりました。ただ、私が参加した女性グループはたいていどこも異性愛があたりまえで、話を合わせるのが苦痛で、次第に参加しなくなりました。その後、新宿二丁目にレズビアンバーがあると聞き、思い切ってそこに行ってみて、仲間づくりを始めました。当時は、何百件もあるゲイバーに比べ、レズビアンバーはわずか数軒で、ほんとに居場所が少なかったですね。初めて行った店で声をかけてくれた女性と、徐々に親しくなり、いつしかパートナーとして一緒に子育てをすることになりました。
 そこからの繋がりで、埼玉にある国立婦人教育会館(NWEC)で、ダイク・ウィークエンド(DykeWeekend )の開催を手伝うようになりました。レズビアンが中心になって合宿し、いろんな社会的課題を議論したり、スポーツをしたりして過ごす場です。ただ、ここには参加要件があり、「あなたはレズビアンですか?」て聞かれるんです。「なんでそんなこと聞くんですか?」て尋ねたところ、レズビアンの人しか参加できないからということでした。自分には性別についての葛藤があり、自分が「同性を愛する者」だとはとても思えなかったので、これには困り果てました。私自身に女性自認がないため、自分が女性を好きだとしても、「同性が好き」という感じがしないんですよね。どちらかというと「異性」という感じです。小さい頃からずっとそういう感覚を持っていたので、「同性愛」とは言えなくて、強いて言えば「女性愛」です、みたいな話をした覚えがあります。
 これをはじめ、自分のアイデンティティが、その場にいる人たちの考えにどうも合わない、ということが結構ありました。1985年から1992年ぐらいまでは、ダイク・ウィークエンド合宿のオーガナイザー(世話人)をやったり、通訳をしたりと、いろんな活動をするようになりました。ほかにも、新宿の「女性解放合同事務所」に「れ組スタジオ・東京」というレズビアンのためのグループを作り、「れ組通信」の編集・発行や、他の女性団体へのメッセージを発信したりして、活動していました。1980年代後半にはエイズ予防法案に反対し、1989年には「府中青年の家事件」というゲイの団体が「府中青年の家」の利用を取り消されるという事件が起きて、訴訟になったので、その応援をしたりしていました。

「多様な性」の多様性

 性的マイノリティのグループといっても一様ではなく、その中に様々に複雑な事情を抱える人たちがいるので、なかなか一つにはまとまらないこともありました。1992年にはアジア・レズビアン・ネットワーク会議をやはり埼玉で開催し、主にアジア12カ国と、世界中に散らばるアジア系レズビアンがこの会議に参加しました。その場で特に記憶に残るのは、在日コリアンのレズビアンとの出来事です。会議の期間中に、在日コリアンのレズビアンが、「慰安婦」問題の展示をしたところ、他のアジアのレズビアンは見にきてくれたのに、日本人のレズビアンたちがほとんど見に来なかったのです。私たちが「慰安婦」問題に無関心だと感じた彼女たちは、大変傷つきました。在日コリアンのレズビアンは、レズビアンの場に行ってもやっぱり無視されるんだと思った、との声を聞きました。このことは会議を終えてからもずっと問題となり、抗議を受けた私たちは、彼女たちの拠点のある大阪まで謝罪に行きました。通信の中にも、この顛末をまとめた号があります。
 性的マイノリティの中にもジェンダー格差があります。シスジェンダーの場合だけを比べても、法的に女性か男性かの違いは、やはり仕事面で顕著で、とくに就職や昇進機会となると大きく条件が違います。私たちの若い頃はその格差も大きく、自分の意思に反して結婚せざるを得なかった人もいますし、そこから抜け出せないと人もいました。例えば、「自分は同性愛だが、結婚だけはしないと...」と感じて異性と結婚するにしても、ゲイ男性が結婚するのと、レズビアン女性が結婚するのとは、大きな違いがあります。どちらも「望まない結婚」には違いないのですが、結婚することで相手に家事を任せられるか、自分が家事を請け負うかの違いは大きいですね。結婚から抜け出しやすいか、抜け出しにくいかでも変わってきます。性的マイノリティの女性は、経済的な制約があるため、誰かと一緒に暮らすことが多いですね。一人暮らしで自立できるほど稼げないから、親元で暮らしたり、パートナーと一緒に暮らしたりしますが、そうすると、結構ケンカもあり、ストレスもたまる。子育て中の性的マイノリティは、ゲイの男性よりも、レスビアン女性のほうが断然多いですし、互いにいろんな我慢を強いられて、関係性に自由度が少ないのも特徴の一つです。
 でも、ケアマインドがあるので、うまく行けば、互いをケアする関係が作れます。ゲイ男性のコミュニティでは、もともと互いのケアについてはあまり話題にのぼらず、HIV感染があってようやく健康とか安全への関心が大きくなってきました。性暴力被害や加害についてもこれから取り組まねば、という感じです。いっぽう、レズビアン女性のコミュニティは、性暴力被害の話ができるし、互いのケアについて常に考えてきたので、より安全なコミュニティにしようという指向が強いと思います。
 トランスジェンダーの場合は、男性として育てられたが、女性ジェンダーのほうに親和性がある人、逆に女性として育てられたが、自分の中で男性としての価値観を育んできた人など、いろいろで、シスジェンダーの性的マイノリティに比べてさらに多様です。

女性を愛する、非婚で母親であるXジェンダーの私が築いてきた「家族」関係

 「女性を愛する女性」、「女を愛する女たち」というアイデンティティがあります。これは、ウーマン・アイデンティファイド・ウーマン(Woman-Identified Woman)の日本語訳なのですが、「女性が女性を愛するんだ」ということは、レズビアンフェミニストのコミュ二ティでは当然視されてきました。ウーマン・アイデンティファイドのところはいいんですが、最後の「ウーマン」、すなわち自分が女性だと言い切れるかというと、自分にはどうしても違和感がありました。私は、そういうフェミニズムの前提になかなか乗っかれない、っていう苦しさがあったのだと思います。
 私が自分の性自認について悩んでいたのは、親にとってもびっくりする話だったと思います。なかなか話せなかったし、話しても受け止めてくれるような感じではなかったですね。10代や20代の頃は、これを言ったらもう病院に入れられると思っていました。打ち明けたのは結構遅くて、20代後半でした。パートナーを見つけ、一緒に暮らし始めた時に、言おうかなと思ったんですが、言いそびれているうちに父が亡くなったんです。それで葬式の時に、あらためてパートナーを紹介しました。私のパートナーに私の父親の介護でも世話になったので、お礼を言ってほしいという形で、家族にカミングアウトしたんです。葬式の時に言ったのは、大事な時に言わないと、記憶に残らないでスルーされてしまうと思ったので。それでもやっぱりスルーされました。みんな無言というか...。姉だけが目を輝かして、「あっ、そうなんだ」て言って、「どこで知り合ったの?」て聞いてくれたんです。それで「あー、なんか味方だな」と思って、すごく泣けてきました。兄や母は、無言で絶望したみたいな顔をして、「大変なやつを抱え込んでしまった」みたいな感じでした。でも、今はもう全然違います。母も亡くなっていますけれども、高齢になってから、性的マイノリティの家族の会に連れて行って、そこで交流をしました。自分と同じような子どもを持つ親同士の話を聞いて、わかったみたいです。兄は勤め先の学校にトランスジェンダーの学生さんが入学してきたので、私に対して「もしや、お前はこういうことやってんじゃないか?」と聞いてきました。「そうそう、こういうことがあるんだよ」と、学校での対応例を話したりして協力関係ができ、以来関係は良好です。

 最後に子どもの話をします。私は、子どもを産んだあと日本に戻り、女性のパートナーと一緒に育てた話しをしましたが、「性的マイノリティには子どもがいない」とか「子どもがいるのは異性愛の証拠だ」などという決めつけは、根強くあります。「親がLGBTだと、子どもがいじめられてかわいそう。だから、子どもはもつべきじゃない」ともよく言われます。「お子さんとの関係が大変でしょう?」みたいな心配を口にするのは、だいたい大人たちですが、実際、子育ては誰がやってもたいへんなんですよね。
 うちの子は、3歳の時から母親二人と父親一人で育てました。私は父母両役を果たしていたので、「3人の親がいた」と言うほうが正確かもしれません。当初、子どもの父親には、「私が責任をもつから、育てなくてもいいよ」と言ったんですけど、やっぱり父親として、どんな子どもになるのか知りたい、子育てにかかわりたい、という気持ちが強かったようで、結局、彼は一緒に日本に来て、日本で暮らすようになりました。私たちは結婚していなかったので、婚姻ビザはもらえなかったのですが、それでもなんとか日本で暮らせるよう手配し、週末に子どもの世話をしながら近くで暮らしていました。
 うちの子の父親は南米の人なので、娘はいわゆる「ダブル」とか「ハーフ」とか言われるミックスルーツです。本人に話を聞くと、親が性的マイノリティだという以前に、まずはそこが他の子と違って、すごく気になったといいます。うちの子どもは父親と私の二つの姓をくっつけた「連結苗字」なんですが、小学校にあがると、カタカナの方の苗字を外したいとか、クリクリな髪の毛がいやだとか、自分の「日本人らしく」ない部分がとても気になったようです。思春期になると、今度は「なんで結婚しないで自分を生んだの?」とか、そういうことにも気づくようになり、結構責められました(笑)。20歳すぎてようやく、「お母さんが人と違うことを誰にも話せなくてすごく辛かった」などと話してくれるようになり、25歳になったとき母の日に、「産んでくれてありがとう」というメッセージをくれました。親である私が「Xジェンダー」となのるようになったのを知って、「これからは、お母さんのこと、お父さんと呼ばないといけないの?」と焦って聞いてきたので、「いや、そんなことないよ。そのままお母さんと呼んでいいよ」と答えました。今はもう40代ですが、自分が幼い頃に世話になった私の元パートナーと連絡を取り合って、介護とか見守り役をしています。今はそんな家族関係です。

 ここで話したことは人生のほんの一部ですが、普段は滅多に話さないことが多く、自分でもよくここまで生きてきたな、というのが率直な感想です。思惑どおりにいかなかったことがほとんどですが、性自認がノンバイナリーだからこそ、なんとか柔軟に乗り越えてこれたのかもしれない、というのが今回の発見です。