去る6月26日、午前10時半からアジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)の評議委員会がヒューライツ大阪の会議室で開催された。その冒頭、ヒューライツ大阪の朴君愛(パク クネ)さんから、初代の所長であった金東勲(キム ドンフン)先生がお亡くなりになったとの紹介があった。
今年の初め、大阪・鶴橋の韓国料理店で先生と偶然お会いし、短時間言葉を交わしていただけに、あまりにも突然のことで、大変驚いたが、評議員の中井伊都子先生が国際法研究会の会員宛てのメールで知られたとのことであった。
キム先生とは、長い付き合いで、ヒューライツ大阪を共に立ち上げてきたこともあって、是非とも追悼の言葉を書きたいと思い、白石理所長にお願いしたところ、ウエブサイトに掲載するので是非とも書いてもらいたいとのことであった。
その日の夕刻、パクさんから中井先生から送ってもらったとして次のような6月25日付のキム先生の訃報が転送されてきた。
「国際法研究会会員各位
本日坂元先生および山田先生より、本研究会会員の金 東勲(キム ドンフン)龍谷大学名誉教授(79歳)がご逝去された旨のご連絡を賜りました。金先生は癌を患われ韓国で療養をされていましたが、5月31日にご逝去されました。葬儀等は既にご親族の方々で執り行われたとのことです。また、ご香典等については辞退しておられることを申し添えます。ここに謹んでお知らせいたします。」
キム先生の略歴については、先生のお出しになったご著書によると1934年韓国忠清北道生まれで、1974年に京都大学大学院博士課程修了・法学博士になられ、大阪経済法科大学教授を1982年まで、龍谷大学教授を2003年3月まで務められたとのことである。このほか、私の知っているところでは、部落解放・人権研究所の国際人権部会長、反差別国際運動(IMADR)の監事なども歴任されている。そしてご自身が在日コリアン1世の立場にあって、在日コリアンの人権運動にも熱心にかかわってこられ、民族差別や民族教育の保障など様々な課題について発言をされている。
キム先生との思い出は少なくないが、何といっても人種差別撤廃条約を日本政府に締結させるためにともにとりくんだことが第一である。先生は、いち早く人種差別撤廃条約を日本語に翻訳されただけでなく、研究会や講演会で何度も報告やお話をいただいた。また、部落解放・人権研究所(研究所)から、1990年には人権ブックレット23『解説 人種差別撤廃条約』を出していただいたが、これがこの条約の加入の大きな武器になった。
しかし何といっても、最大の思い出は、先生とともにヒューライツ大阪を立ち上げたことである。実は、ヒューライツ大阪の必要性を最初に提起されたのは、国連人権センターの職員であった故久保田洋さんであった。久保田さんが日本に帰ってこられた時に研究会にお招きしたり、ジュネーブを訪問した際に久保田さんのお部屋やお宅を訪ね、ヒューライツ大阪に関する構想を温めていった。さらには、地域的人権保障の実情を視察するためにヨーロッパとアジア・太平地域の視察に出かけたが、キム先生はこの視察団の中心メンバーの一員であった。
こうした思い出以外にも、韓国国家人権委員会のとりくみの紹介、交流にキム先生は大きな役割を果たされたことがあげられる。例えば、先生は韓国国家人権委員会法の日本語訳にとりくまれたし、2003年4月に研究所から国家人権委員会に視察団を派遣した時も先生に仲介の労をとっていただいた。
先生は、国際法、とりわけ国際人権法の専門家として大きな足跡を残されたが、他の研究者とは異なり、ご自身がマイノリティとして様々な被差別体験を持っておられたことから実践活動にも積極的に関われた。このため、他の研究者とは異なり、先生のご講演は分かり易く、世界人権宣言大阪連絡会議が主催して月一回(8月を除き)開催している国際人権規約連続学習会でも、最も多く講師をお願いしていて、いつぞやは感謝状と記念品をお渡ししたこともあるぐらいである。
先生とともに取り組んできた➀人種差別撤廃条約の国内での実施、②ヒューライツ大阪を拠点にアジア・太平洋地域での地域的人権保障を構築すること、③韓国国家人権委員会の活動を学び日本においても国家人権委員会を設置すること、このための国内法を制定すること、といった課題は今後に残された課題である。
キム先生から学んだことを糧に、これらの残された課題の実現に向けて先生から薫陶を受けた人々ともに邁進することをお誓いし、先生のご冥福を心から祈念するものです。
友永健三(アジア・太平洋人権情報センター評議員)
追記
2000年以降、先生がお出しになった御著書としては、以下のものがあります。
・『国際人権法とマイノリティの地位』2003年、東信堂
・『共生時代の在日コリアン 国際人権30年の道程』2004年、東信堂