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私が見て学んだフィリピン
冠野博美
(京都女子大学社会学部学生)
■ 不思議な国フィリピン
私が今回のフィリピン・スタディツアーに参加を決めたきっかけは、ただ単に夏休みだからどこかにいきたいという単純な願望からであった。普段から、フィリピンに興味があったとか、人権について真剣に考えていたとか、そんな動機からではないので、あまり知識のないまま好奇心だけで臨んだ旅行だった。
イメージ上のフィリピンはアジアの貧しい国であり、日本の政府開発援助(ODA)の対象国であり、バナナ、マンゴー、パイナップルなどのトロピカルフルーツが美味しい暑い国だった。そのように、お世辞にも知識があるとはいえない私ではあったが、知識を持ち合わせていないというのは、案外良いもので見るものや知ることすべてがストレートに入ってきた。
実際のフィリピンを見て一言で表すと何もかもがごちゃ混ぜの国だと感じた。言語ひとつをとってみてもそうだが、公用語も英語・タガログ語とある。フィリピン全土では50以上の言語があり、方言を含めれば140にも上るというから驚きだ。タガログ語はスペイン語の影響を受けていて端々にスペイン語が混ざるのも面白い。公用語が二つということで大学の講義など、はじめは英語で行われていても先生がのってくると急にタガログ語になったりすることもあるそうだ。
また料理も多くの国の影響を受けていた。先入観でフィリピン料理には多分なじめないなと思っていたが、旅行中飽きることなくその味を楽しめたのは、フィリピン料理が中国とスペインの影響を大きく受けているからだろう。フィリピンのたどってきた歴史がそのまま、フィリピン社会における寛容さと多様性を産み、すべての文化や社会現象に直接表れているようだ。同じ島国とはいえ、日本より格段に色々な文化が溶け合うフィリピンは、ちょっと怪しいから余計に面白く大きな魅力を持っていた。
■ パヤタス-巨大なゴミ山のコミュニティ
私がこのスタディツアーで最も関心があり、多少の知識もあり、印象深かったのがケソン市のパヤタス地区である。パヤタスはゴミ廃棄場のあるスモーキー・ヴァレーの5つのバランガイのうちの一つであり、私たちはそのうちのパヤタスB地区を訪れた。かつてフィリピンを紹介するのに最もよく使われ、世界的にも有名になったマニラ市のスモーキー・マウンテンが1995年に収容量を超えたため閉鎖された。
スモーキー・マウンテンが閉鎖されたその後、主に首都圏のメインの処理場として、パヤタスに多くのごみが運び込まれるようになった。パヤタスに住む人々の多くはケソン市内において立ち退きにあった貧困層の人たちであり、彼らがやってきた時には土地は開発されておらず、草を刈り家を建て生活をはじめたのだそうだ。
フィリピンのゴミ事情はひどいものでゴミの分別収集は行われておらず、日本の国際協力事業団(JICA)が1997年から行ったごみに関する調査によると、マニラ首都圏で一日に発生するごみの量は5300トンにも上る。自主的に処理されたり、リサイクルされたりするものを除く3500トンのゴミが毎日処理場に集められてくる。
膨大な量のゴミはそのまま膨大な量の生活の糧になる。ゴミの山の周辺には、ゴミの中からプラスチックやガラス瓶、ビニール袋やミネラルウォーターのペットボトルをリサイクル業者に売ったり、売ることが可能なものをゴミの山から収集し生計を立てるスカベンジャーと呼ばれる人々が多く暮らしている。ゴミの山もはじめは近隣の地域からのみであったが、しだいに運び込まれる量は増え、平地は山になった。
そして2000年7月10日、大事件が起きるにいたる。台風の接近による長雨で地盤がゆるみゴミの山の一つが崩れた。スカベンジャーたちの住居は押しつぶされ、死者約250名の大惨事となった。
私たちは事故現場のすぐ近くまで行ってみた。ビル10階ほどの高さのゴミが崩れた大惨事の場所には、今もまだ発見されず埋まっている人が80人以上もいるとのことだ。しかしこのような事故があったにもかかわらず、ゴミの収集を止める人はいない。止めるとたちまち生活に困ってしまうからだ。
パヤタスに入ってからずっと、私はゴミの臭気に圧倒されて気分が優れなかった。普通に日本で暮らしている限り、こんな臭気の場所を訪れることはまずないだろう。長靴を履きゴミの山を上ってゆく時には、激しい臭いとゴミの発する熱気でどうにかなってしまいそうだった。
普段出された食事は残さずに食べることをモットーにしている私だったが、今回のパヤタスでの食事だけは無理だろうと考えていた。しかし、私たちを受け入れてくれたサンカップ・デイケアセンターで昼食が出された時には、気持ち悪さもなくなり、いつも通り美味しい、美味しいと思いながら食べることが出来た。臭いはもう気にならなかった。むしろ運動したのでおなかが減っていた。私の順応性もたいしたものだと感心してしまった。
私がこうした状況で、働く場所もなく生活するすべがなかったら、私もゴミの中から使えるものを探すのかもしれない。そして、ゴミの臭いなんか気にせずに一生懸命生きていくのだろう。そしていろいろな事を真剣に学び、日本にいる時より物事を必死に考えるのかもしれない、と大きなゴミの山を見ながら思った。
■ 本当の豊かさとは何か
フィリピンはとても貧富の差が激しい国である。ヘリポートがありプールがある家の並ぶミリオネアズ・ビレッジ(百万長者の住宅地)のすぐ横にスラムがある。ファーストフードを毎日のように食べる人がいれば、その食べ残しをゴミの山から探し出し、暖めなおして食べる人がいる。レストランでは、陽気な楽しい音楽とともにマニラの一日の最低賃金より高い料理が出される。
ブルーカラーの生活がいつまでたっても向上しない枠組みがフィリピンでは出来てしまっているのだ。しかし、貧しいのに、なぜ人々はこんなにも明るいのだろう。その事をこの旅でずっと考えていた。スカベンジャーの子どもたちは学校がない時間、親とともに働いている。他の多くの貧困な家庭でもそうだが、子どもは立派な稼ぎ手なのだ。家族が協力して生活する状態は、周囲の大人社会に関心をもたなくなってしまった日本の子どもたちからすれば、健康な家族の姿ではないだろうか。このような家族の絆や心の豊かさがこの国を支えているのではないだろうか。心の豊かな彼らと物質の豊かさを持つ私たち。私は彼らのような笑顔で笑っているのだろうか。
今回の旅行で私は多くの人に出会った。女性や農民、都市貧困者などを対象に法律支援をしているサリガンというNGOでは私と少ししか年の違わない女性が、弁護士として活躍していた。高校では自分たちの権利を教えることがあらゆる授業に取り入られていた。私は、フィリピンの人ほど自分の権利について考えてはいなかった。それは自分の権利を知らないことで、不当な賃金で働かされたり、農地を奪われたりといった差し迫った生活への危機感がないからだろう。日本人は自分たちの持つ権利の重大さや意味をもう一度よく考える必要があるのではないだろうか。