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初めてのフィリピン
青木 一博(教員)
2002年の夏、フィリピンへ仕事で出かける事となった。以前から、フィリピンにはある種の期待と興味があったが、訪問する機会はなかった国である。幸運にも、仕事の延長線上で今回のツァーに参加できることとなった。
期待の一つは、かつてのスモーキー・マウンテンに象徴される貧困とそれを凌駕するかのような明るさ、そして、フィリピン人という人々の見せる多様さである。あたかも、他の階層の人々とは全く無関係であるかのような「多様さ」についてであった。そのような「未知」に対して、外側からではなく、その中に身を置いてみての体験が20日ばかり出来ることとなったのである。私の抱いていた「思い」は、単なる「思い込み」なのか否か?その実態の片鱗にでも触れたいと思っていた。
フィリピンに着いての、第一印象は、マニラの人の多さと銀行の店舗・学校の多さであった。今回の滞在の前半は、バスでの移動が多かったので車窓越しに車の渋滞や、交差点や停留所でバスやジプニー(乗り合いジープ)等を待つ人を多く見かけた。こんなにも多くの人が、道路にいること、何より目的地に向かおうと待つ人がこれほど多いのに先ず驚いた。(しかし、その思いは、滞在の後半今度はわが身が「路上で待つ」側となって、大きく変ることとなるのだが、......)さらに、銀行について付け加えておくと、結局滞在中一度も利用しなかった。正確に言うと、滞在中にマニラ郊外の地方都市で両替時に利用しようとしたところ、その地の複数の銀行店舗で、米ドルの現金以外は両替できないと言われてしまったからである。円も米ドルのTC(トラベラーズ・チェック)もダメということであった。理由を尋ねても、「ダメなものはダメ、マニラで聞いてくれ」の一点張りだった。何か特別の理由があったのだろうが、その「頑固さ」にもこの国の特徴を見た気がした。
フィリピンへの興味のもう一つは、1986年2月の「ピープル・パワー革命」といわれるものの実態であった。非武装の市民が民主化を求めてマニラの中心部へ、デモや集会・座り込みを行い、マルコス大統領を支持する国軍の存在を無力化し、平和裡の「改革」を可能にした。さらにそれは、87年・韓国、88年・ビルマ、98年・中国を経て89年・ベルリンの壁の崩壊、91年・ソ連邦崩壊へと連なる民主化要求への先駆けとなったといわれている。
大土地所有制を土台とした一握りの財閥ファミリーを核とする上流階級と、圧倒的多数を占める貧困層からなる寡頭支配社会の中で1965年に就任したマルコス大統領が、提唱した「新社会運動(KBL)」が一旦は期待を持って受け入れられた。しかし、最終的にマルコス流の開発独裁体制が露呈されて失権という20年間余りの歴史に終焉をもたらした「EDSA革命」。この経験は、フィリピン社会をどう変化させたのだろうか?
そのような漠然とした疑問の中で、今回のスタディツアーに出会った。マルコス退陣の後1987年に承認された新憲法で設置されたという人権委員会(CHR)を始めとする公的機関。そして、都市や農村という様々な場所で、市民レベルでの人権を守り推進している現場を見ることができるという。フィリピン社会は、経済的社会的政治的に多くの課題を抱えながらも、人権の擁護と推進という面で新しい一歩を踏み出したようである。その現場を、見るための絶好の機会であった。
多くの興味深い組織と活動を見たが、その中で8月2日の体験について触れたい。この日は、午前中に教育省の人権教育担当者の話を聞き、午後に人権教育の現場である高等学校で授業を見学するというものであった。
教育省(DEC)では、人権教育の法的裏づけとその実施状況について聴いた。新しい憲法と大統領令により明確に促進が宣言されているところに、マルコス時代の人権侵害を繰り返さない制度作りという、国としての意気込みを感じた。実施状況については、教員の研修だけでなく保護者やコミュニティを含んだPTCAに対する研修を視野に入れていること、人権教育プログラムの具体性・きめの細かさが印象的であった。また、権利と責任そしてアイデンティティの基本に「ナショナリズム」の概念があるという位置付けにもこの国の特徴を見た。
午後の高等学校では、よく考えられ・よく訓練されたプログラムを、表現力の豊かな生徒たちと先生によって見せていただいた。私は、一クラス70人という規模と、「EDSA革命」Iを教員として経験した世代(マルコス時代からの教員)と若い教員たちそして現役高校生たちの「人権教育」に対する微妙な反応の違いに興味を持った。その「違い」を肯定した上で、伝えるという行為があり、「教育」という双方を変える生業が在るのだとあらためて思った。その意味で、軌道に乗り出した人権教育のこれからの深まりと向かう方向性に注目したい。これは、「多様さを統合するキーワードとしてのナショナリズム」についてもいえることである。
スタディツアー後に仕事で残ったため20日間にわたる滞在となったが、最後の数日間は、何人かの人とマニラ市内各地で会うために過ごした。タクシーだけを使っていると時間がかかりすぎるので、MRTやLRTと呼ばれる高架鉄道を使っての移動であったが、そのたびにマニラの公共交通機関の不便さと、人々の我慢強さに驚くことしきりであった。接続の悪さ、乗車券の販売システムの悪さ、雨の降る朝夕は最悪である。
しかし、人々は黙々とぬかるみを歩き、車に泥をはねられ、切符を買うための長蛇の列に並んでいる。これはいったい何なのかと思うが、一方雨の中自転車にサイドカーをつけたトライシクルで客待ちをしている大人や子どもたちもいる。滞在中に台風による嵐があり、マニラ市内各地が水につかるということがあった。私は、大渋滞に巻き込まれて車の中に3時間閉じ込められた。翌日の新聞では、洪水による死者が13人とあった(別の新聞では16人)。
初めてのフィリピンは様々な顔を垣間見せてくれた。しかしどれも豊かな多様性を益々感じさせこそすれ、何かをつかむまでは程遠いものであった。その中で、何よりも魅力ある人々の多さ、特に若い人の多さは可能性の証しであると実感した。様々な試みの今後も楽しみである。その奥深さと可能性の予感に、また訪れたい国であるのは確かだ。