文字サイズ

 
Powered by Google

MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 過去アーカイブ(これからの事業)
  3. スタディツアーの私的まとめと感想

スタディツアーの私的まとめと感想

生田 周二(奈良教育大学助教授)

 今回のツアーで一番興味を持っていたのが、なぜフィリピンでは人権教育が積極的に取り組まれているのか、その背景は何なのかということ、またゴミ山での暮らしとはどんなものなのかということであった。

1.なぜフィリピンでは人権教育が積極的に取り組まれているのか
 歴史的にみると、スペイン、アメリカの植民地支配が400年近くに及ぶほど長く、それへの抵抗の姿勢がうかがわれる。最後の日に訪問したサンチアゴ要塞に幽閉されていた、その象徴的な存在であるリサール(1861?1896)は、今日でもリサール広場や記念碑に名を残している。記念碑には、常に衛兵2人がその前を守っている。独立後もマルコス独裁政権の12年間を経験し、マルコスを追放した1986年の「ピープル・パワー」は、追放劇の場となった通りの名をとってエドサ革命と呼ばれている。権力者による不当逮捕、拷問などの人権侵害を許さないという姿勢が、87年制定の憲法にも反映され、教育に関する条文で人権の大切さに触れられ、独立機関として人権委員会の設置が規定されることになる。
 教育に関してアキノ大統領は、87年に大統領令27号「人権に対する尊重を最大限にするための教育」を出した。「人権教育をどうするか研究をすることが省の役割である」とされ、教員の研修や教材案の策定などが行われている。
 高校の授業を見せてもらったが、教師も教育省が提示したこの教材案にそって授業を展開していた。それは、「4Aアプローチ」と呼ばれる手法に基づいている。「4A」とは、活動Activity、分析Analysis、抽象化Abstraction(教員から生徒に対する人権の伸長に関する補足的インプット)、適用Application(実際例の分析などの活動)を意味し、活動後の生徒の洞察、感情、学びを引き出すのに有効とされる。生徒たちが持つ情報と経験をもとに学びの過程を組み立て、それを通して人権に関する概念や主題の理解を深めることができるという考え方である。
 授業で驚いたのは、生徒の積極的に授業に取り組む姿勢であり、発言の仕方も先生に自分の考えを説明するというよりは、みんなの方に向かって自分の意見を述べるという雰囲気が強いものであった。授業の後の教師たちとの質疑応答で明らかになったのは、モデル授業のクラスは、もっとも成績のよいセクション1の生徒で、しかも新聞部の子が多く、学校新聞などで表現の訓練を受けていることも、本日のプレゼンテーションに影響を与えていると思うという回答であった。また、補足的に言われたのは、フィリピンの学校が伝統的な講義中心のアプローチではなく、グループ・アクティビティを中心とするアプローチ、つまり生徒中心の方法論を導入しているということであった。
 こうした素晴らしい面がある一方、学校を取り巻く厳しい環境も垣間見ることができた。教育制度は、小学校6年間と高校(ハイスクール)4年間、その後の大学が約4年間となっていて、義務教育は小学校のみである。その小学校への就学率は96%と高いが、貧困などが原因となったドロップアウトの問題(教育省でもらった資料では、小学校で7%程度、高校で9?10%程度)や、高校進学率の低さ(64%程度)、教師数と学校数の不足による2部授業、あるいは3部授業の実態とクラス生徒数の多さである。
 見学した小学校(3部授業)や高校(2部授業)では1クラス当たり60?70人であった。また、教育省の資料では、小学校の無いバランガイ(日本の小学校区に当たり全国に約43,000ヶ所存在し、区長は選挙で選ばれる)は2000年度で4,569ヶ所であった。96年度が4,234ヶ所であったので逆に増加している。また、高校を持たない自治体(これは日本でいえば中学校を持たない自治体が存在することを意味する)は2000年度で3地区で、96年度が32地区だったのでこちらの方は大幅に改善されてきた。しかし、絶対数が不足していることは否めない。

2.都市貧困層(urban poor)の暮らしとパラリーガル
 貧困問題は、公権力による人権侵害、移住労働者の問題(人口の7%の500万人に達するといわれ、授業を見学した高校の生徒の親達の多くも現在海外で働いている)などと並ぶ、フィリピンの抱える大きな問題である。また、この背景には複雑な土地問題、農地解放の遅れなどが絡んでいる。
 貧困問題は、都市貧困者が、人口の25%を占め、マニラ首都圏には400万人が暮らすと言われている。15歳以下の児童労働や売春に従事させられる子ども達も多い。訪問先の地域団体CO-Multiversityでもらったパンフレット(2002年1月発行)によれば、5歳から17歳の青少年の16%にあたる370万人が児童労働に従事している。都市部は約120万人、農村部は200万人以上となっている。さらに深刻なのは、働く青少年の60%が厳しい肉体労働や危険な作業に関わっている。そのため、60万人の子ども達が学校へ通っていない。
 8月3日に、廃棄物投棄場のあるスモーキー・バレーの一角パヤタスBを訪問した。近くのゴミの山に上ってみたが、帰途の最後に、一角にある「働く子ども達のためのパヤタス子どもリハビリテーション・プログラム」の施設「ドロップ・イン・センター」に立ち寄り、長靴にこびりついた泥を落とした。この施設は、1993年以来、ゴミ山で働く子ども達のケアにあたり、給食、医療、保養などのサービスを行っているようであった。
 パヤタスというこのゴミ山近くのコミュニティは、1988年にでき、2万人が暮らすといわれている。ケソン市の都市貧困層が再定住のために「約束の地」といわれたこの地に移転してきたが、当初は草深い、水も電気も基本的なサービスも交通へのアクセスもなかった。人々は自分で掘っ立て小屋を建て、ハエが多いため最初はカヤの中で食事をしていたという。2000年7月10日には、大規模なゴミ山の崩落事故が起き、200人以上が生き埋めとなった。現在は、水道・電気が整備され、乗り合い自動車のジプニーの停車場がすぐそばにできているが、それらは民衆組織の様々な取り組みの反映と言える。
 この地域の住民の 70%は失業しており、大半の人はごみ収集、建設現場での仕事など以外に定期的な仕事がない。ゴミ収集を8時間すると、150ペソ(1ペソ=約2.5円)ほどの収入が得られる。人々は150ペソのうち、米に45ペソ、おかずに50ペソ、その残りを交通費や子どもに必要なものを買うのにあてているが、平均6人の家族には足りない。ちなみに現在の法定最低賃金は280ペソである。
 今回訪問した民衆組織は、いずれも土地に関わる問題や開発のあり方をめぐってオールタナティブな提案をしている。また、自分たちの権利を守るために学習活動を展開し、パラリーガル(法律家補助員、あるいは裸足の法律家)の養成に関わっているところが多い。
 法律専門集団であるサリガン(オルターナティブ法律支援センター)は、アテネオ・デ・マニラ大学構内に事務所を有し、現在は26人のスタッフ(弁護士12名のほか、法律調査担当、総務担当)が活動している。活動目的ひとつに、「法を非専門化する」こと、つまり伝統的法律家による法の独占をなくし、人々に法的知識とスキルを伝えることを掲げている。そのためにリーガル・リテラシー・キャンペーン(法的識字)や、パラリーガルの養成講座を行っている。
 パラリーガルは、「法廷における仕事」と「コミュニティにおける仕事」がある。「法廷における仕事」は、証拠を集めたり、供述書(affidavit)や最初の申し立て書(complaint)も作成することがあるという。また、法廷ではないが、準司法的機関である労働委員会や市(町)農地改革事務所などに出廷して弁護活動をすることもある。「コミュニティにおける仕事」とは、周辺に追いやられた人びとの権利を守るために働く。地域の問題を法的側面から明らかにし、何が起こっているのか、どのような影響があるのかをコミュニティに伝える役割を担う。
 サリガンの支援を受けて、パキサマ(PAKISAMA=全国農民組合連盟)、サンバ(SAMBA)(アンティポロ山地小農連盟)などでは、自分たちが法廷にたって弁護活動をできることを目指してパラリ?ガル・トレーニングが実施されている。パキサマで言われていたのは、農地改革に関心のある法律家が少ない上に、資金がないという現状がある。また、農民の大半は小学校までで、高卒者は少し、そして大学卒業はごくわずかである。そこで、サリガンなどの助けを借りてパラリーガル教育を実施し、農民自らが農地改革の知識と、法的なプロセス(どうしたら土地を獲得できるか)について学習やトレーニング(スキルと書類作成など)実施している。

まとめ
 今回のツアーでは、実質4日間で政府機関を始め、学校、いろいろな民衆組織を訪問することができた。しかし、他方で、自分自身の焦点が定まりきらないもどかしさもあった。それは、政府が進める人権教育や人権施策と、民衆組織の活動との間には、何かしらの差が当然ながらあるのだが、もう少し違った面から検討しないと分からない部分も多いと感じた。
 とにかく、人権教育というものが民主主義を根づかせる目的をもって大きな視野で展開されているという特徴がフィリピンにはある。日本においては戦後の民主化のなかで、教育基本法の制定、民主教育や「憲法を暮らしの中に生かそう」という言葉のなかにそれが読み取れる。日本が、もし戦後しばらく抑圧状態に置かれ、80年代に民主化したとしたら、時代の影響を受けて人権教育という言葉が、民主主義を教育の中で実現する合言葉となったかもしれない。